人形の家

2008年9月18日 渋谷シアター・コクーン

ともすると人は世界が狭くなってくると、自分だけが特別な人間に思えてくる。自分だけが人生という土俵にあがって真剣勝負をしてもがいている希有な人間だと思えてくる。けれど、どんなに傍目には醜い歪んだ人生を歩んでるように思える人でも、パワー値が低い単調な人生しか送れなくなっているように見える人でも、みなそれぞれに事情を抱え全力で生きている。心をずたずたに踏みにじられた過去や、絶対にたちあがれないと思える失意に、なんとか自分なりに対処して毎日にしがみついている。デヴィッド・ルヴォー演出の『人形の家』は、そんな弱くて強い人間の「自尊心」の美しさをまざまざと見せつけてくれた。

冒頭で土俵という言葉を使ったが、場内の中央にはまさに「闘場」のように思える四角形の小さな舞台がしつらえられている。登場人物たちはここで、我が人生を賭けた、言葉と感情を戦わせる。またその場は、主人公夫妻ノラとヘルメルの「愛の巣」であり、ノラ自身の「孤独の館」であり、最終場では二人が本音を交わす簡素な「法廷」のようにも映りこんでくる。3時間に及ぶ長丁場な芝居ながら、観客は、眼前の四角舞台へのフォーカスを片時もダレさすことなく、そこで紡がれる心理ドラマに心奪われていく。

その感情の台風の目にいるのは、間違いなく、宮沢りえが演じるノラ。彼女は幕開きでは『人形の家』というタイトルが示すとおり、ただただ愛おしく美しい「お人形」として、その場に登場する。夫のヘルメルは彼女の、子供っぽさ、陽気さ、無邪気さ、いたいけなさを愛し、ノラもまた「幸せよ」と朗らかに笑う。だがその小鳥のように軽やかな笑い声は、現実を見る生身の女の笑い声ではない。成功、幸せ、光、といった明るいものしか見ることのできない了見の狭いヘルメルと共に生きるノラは「作りものの幸せ」を無意識のうちに演じているのだ。

だが終幕にかけて徐々に、このお人形のノラに変化がおこる。そしてある事件を通して、その感情の高まりが臨界点を越える。彼女が醜くも嘘のない心からの本音をさらけ出したとき、夫が彼女の生身の感情を受け止めることのできない、ちっぽけな男であることを知るのだ。平和で幸せで朗らかな時に妻を「心から愛する」というのは簡単だ。だが二人の関係性に負の環境が否応なく生じたとき、そのときにはじめて夫婦は真価を試される。だがそのときヘルメルは自分が遭遇した絶望的環境だけを嘆き悲しみ、ノラの心はいっさい意に介さず彼女をなじり捨てるのだ。そのときノラは深くはっきりと悟る。私はここにいるべきじゃない。

宮沢りえの演技は、至近距離50cmで彼女の目をみつめても嘘がない。徐賀世子による新訳も、女性翻訳家ならではの、やや言い過ぎなのではと思えるほどの、すがすがしさに満ちている。そんな宮沢ノラが最後に、「夫に対する、子供に対する、義務を放棄するのか?」と問うヘルメルに、こう言いきって人形の家を去る。

「私にはそれと同じぐらい神聖な義務があります。それは私自身に対する義務です」

いったいこの世に、この自尊心の義務を、十全に理解している人がどれだけいるだろう。嘘なく、誠実に、自分の足で立って、幸せに生きる義務をかみしめている人間がどれだけいるだろう。おそらく多くの人は、仕事に依存し、家族に依存し、友達に依存し、なんらかのかたちで自分だけでは立てないことにエクスキューズな理由を与えて生きているのではないだろうか。特に現代の東京はあまりにも過剰でせわしなくフェイクな情報に溢れているため、とてもたやすく、この自分自身への義務を忘れ去って生きることができる。1879年に書かれたノルウェーの戯曲を、これほどピュアなかたちで、現代日本の観客の心に響かせたルヴォーと役者陣に拍手喝采を送りたい。ひとりの女性として、嘘なき心からの喝采を。

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バーム・イン・ギリヤド

2008年4月4日
東京 新宿シアターモリエール


ビリビリと肌に響くような莫大なエネルギーの放電!
演出家ロバート・アラン・アッカーマンが30人の若手役者たちと組み生み出した舞台『バーム・イン・ギリヤド』は、その高難度な題材にも関わらず、観客の頭脳ではなく身体感覚をずどんと直撃。体内のアドレナリン指数を数時間のあいだに一気に上昇させ、客席を興奮の坩堝に巻き込んでみせた。本当にランフォード・ウィルソンという劇作家はこれを40年以上前に執筆したのだろうか。本当に現在の東京を目撃して、ここに生きる若者たちの心をじかにわしづかみにしてアテ書きしたのではないのだろうか。そんなバカげた疑問が否応なく湧いてきてしまうほど、この芝居では、今まさにパックリと開かれドクドクと血が滲むようなリアルで無惨な心の傷口があらわに描かれていた。
ジャンキー、売人、娼婦、男娼、ギャング、ポン引き、浮浪者、アル中。まるできちがい病院のような狂騒を示すNYアッパーウエストのダイナーに、極彩色の夜蛾のごとき色とりどりな人々が集まってくる。「ボーン・イン・ザ・USA」のオープニング曲に乗せて口々に何かを叫びながら、舞台に登場する彼ら。その騒々しさは、道を歩いているだけで様々な騒音が耳に飛び込んでくる新宿の猥雑さと無理なくリンクする。

ただ新宿の街とこの芝居が圧倒的に異なるのは、この舞台上で見せられることは「完璧に制御されたカオス」だということ。演出家アッカーマンはミュートとボリュームのつまみを、これ以上なく緻密にコントロールし、同時多発的に発せられる役者たちのセリフのどれが観客の耳に届けられるべきか、天才的コンダクターのように計算しつくす。そしてふと気づいたときには観客の心の内には、孤独、拒絶、無価値観、依存心、といった大都市特有の社会病ともいえる痛ましさが蓄積されているのだ。

またここに登場する人物たちは、誰も彼もが「真実」を見ずに日々の虚無的な「現実」に逃避している。ドラッグやアルコールやセックスといった刹那的な刺激が、彼らのとりあえずの避難場所。しかも彼らの心身感覚はすでに完全に麻痺しており、常人レベルをとうに越えた過剰な刺激物を摂取することでしか、心の安寧が得られなくなっている。そしてこれは情報過多な毎日に溺れ、食やファッションといった刹那的な欲望にがっつき、真に大切な何かを見失って心が虚しく病んでいく現在の東京の若者像とも重なる。ヤク中の震えのさなかにうわ言のように「仲間が欲しい」とつぶやくフィック(チョウソンハ)も、愛情に飢えているがゆえにウリをやめられない寂しいアン(中川安奈)も、なにかプラクティカルな希望があるわけでもないのに世界を楽観視しようとする甘えたジョー(パク・ソヒ)も、新宿シアターモリエールの外に一歩足を踏み出せば、そこらじゅうに同じような若者が無数に溢れている。

クリスチャニティとの関連性や、メタ演劇的な構図、「HOTEL」と書かれたネオンのOとTが抜け落ちて「HEL(地獄)」と光るシンボリックな看板など、深読みしようと思えばいくらでもこの作品は奥深くまで入り込んでいくことができる。だが言うまでもなく本当に大事なことは、そうした批評家的な読みをこと細かにすることにはない。真に瞠目すべき点は、この芝居が観客のリアルな感情をもののみごとに発火させる「ライブ性」を携えているということ。「真実を見ろ!」「変化しろ!」「問題に蓋をしても何も進まない!」。演出家アッカーマンは舞台上からこれでもかこれでもかと観客にそうした挑発的感情を畳みかけつづける。そしてこうした言葉の絨毯爆撃は、観るものの感性の触覚が絶望的なまでに麻痺しきっていないかぎり、確実に着実に心を射抜く。

終幕近く、この舞台に登場する人物たちは一瞬「真実」に目を向けようとする。だがすぐにまた恐れをなして、目を背け耳を塞ぎ、声を張り上げて絶叫しはじめる。よって劇中の人物たちには、バーム・イン・ギリヤド=救いの香油はいっさい与えられることがない。だがもしこの芝居を目撃した観客が明日からでも「変化」を受け入れることが可能ならばーー、少なからず我々はこのクレイジーな芝居から救済を得ることができるはずだ。

日々の現実にフラストレーションを抱え虚しく生きる日本の若者たちよ。合コンで一時的な疲れを癒すよりも、ルイ・ヴィトンの鞄に刹那的に酔いしれるよりも、この新宿の小さな劇場に足を運び、まっとうに恐ろしい真実と向きあおう。その視野のむこうにしか、本当の救いはない。

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さらば、わが愛 覇王別姫


2008年3月9日
東京 シアターコクーン

自分を愛せない人間と、自分しか愛せない人間が出逢ったとき。
そこにはどんな悲恋が生まれるのか。
1937年の日中戦争勃発にはじまる30余年にわたる中国近現代史を縦軸に、烈風のような歴史絵巻を展開する『さらばわが愛 覇王別姫』において、演出家・蜷川幸雄は、その物語の宇宙的な壮大さに呑まれことなく、生々しく痛ましい「愛」という名の個人感情に内視鏡をあて私的人間ドラマを浮き彫りにしてきた。

93年に映画化され、その年のカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞した本作。主役である京劇の女形俳優・程蝶衣を、鬼気迫る熱量で演じ抜いた故レスリー・チャンの凄絶な名演を記憶に残す人も多いはずだ。そんな傑作映画を、岸田理生が生前したためた詩的脚本を下地に蜷川が世界初音楽劇化。レスリーが扮した悲しき女形役者には東山紀之を抜擢。彼が生涯を賭けて愛する段小樓には遠藤憲一を選んだ。

東山が扮する蝶衣は、幼くして娼婦である母に捨てられた記憶を「燃やし捨てる」ことで生にしがみついている。己の暗き出生の象徴である母の衣服を鉢で燃やし、それにより生じた欠落感を「外部からの愛」でなんとか埋めようとして生きるのだ。小樓に求める性を越えた愛、世相から逃避するように埋没する芸事への愛、小四という幼き青年(中村友也が好演)に期待する母としての愛。だが蝶衣はかつて子供としての愛を得ることに敗れたのと同様に、恋人としても、母としても、また役者としても、愛するものに完膚無きまでに裏切られつづける。なぜこれほどまでに蝶衣は悲劇を招きつづけるのか。蜷川は幕切れにおいて子役の蝶衣が「母の衣を燃やす」冒頭の行為を繰り返し見せることで、彼の人生の最大の悲劇は自分の根源を自分自身で愛せなかったことだと鋭く説き明かす。つまり己の真実の出生を認めずに生きようとしてしまったがゆえに、彼は繰り返し繰り返しおなじ過ちに巻き込まれてしまうのだ。
醜い過去の真実を心の奥底に封印し、端麗な芸事の世界で生きることを、不可抗力的に選ぶ蝶衣。また根にある孤独を消化するのではなく、他の代替物で埋めようとするがゆえに、数限りない悲運に巻き込まれていってしまう蝶衣。そんな主人公の純粋で不器用な生き様を、東山が、やや硬さが残るものの澄明な美声で伝えきる。冷静で完璧であるがゆえに哀しさが増す、東山ならではの蝶衣がそこにはいた。

蝶衣が抱える自己無価値感とは裏腹に、相手方の段小樓はいたく凡人的な意味で自分自身を愛する。まっすぐで健全で現在的で、愛おしいほど近視眼的。まさに男性特有の衝動にとても素直に生きている。だから彼は妻の菊仙(木村佳乃)にまつわる予想だにしない悲劇に正面衝突したときに、はじめて、自分の生を俯瞰的に眺める悲劇の眼を授かってしまう。その眼は恐ろしいことに、彼が老人となり椅子のうえで息絶える瞬間まで保たれ続ける。遠藤憲一は久々の舞台上で、やや居心地が悪そうに見える。日を重ねれば、東山や木村との心の交流がより密に見えてくるか。

蝶衣と小樓の出逢いは大いなる悲劇だ。互いが互いを求めるのは事実なのだが、その希求力の強度や距離感があまりにも異なる。無論、人はひとりでは生きられない。だがそれと同様にその孤独は、たったひとりの愛では完全には埋められない。その哀しき人間の矛盾を蜷川は透徹した視線でつむぎだす。

劇場入口から足を踏み入れたとたん、目を霞ませるスモークと橙色の照明が観客の五感を瞬時に酔わす。美術家の中越司は客席に数十個の紅丸提灯が吊るし、観客を京劇の絢爛たる劇場空間へ招き入れる。また宮川彬良の音楽はシンプルでありながら情緒にあふれ、郷愁的な感情を呼び覚ます。前田文子の彩る極彩色の衣装は、それ自体が雄弁な物語性をたたえるほど美しい。実に蜷川的な色彩美にあふれた舞台だ。

蝶衣、小樓、菊仙。ほぼこの三角関係が2時間休憩なしのドラマの核を担う。あまりに混沌と壮絶な世界観をたった3人の役者に託すため、物語の冒頭、役者たちの感情が興に乗るまでは全体的にややスタティックで平板な印象が拭えない。だが歴史の大波と彼らの運命が合流しはじめるラストの半時間、観客は嗚咽のような感情に襲われる。人を愛するとは、自分を愛するとは、一体なんなのか。そんな不滅の問いが、巡り巡る音楽とともに観劇後も脳裏に焼きつく。


Posted by shouno : 13:53 | Comments (0)


死ぬまでの短い時間

2007年12月3日
ベニサンピット

風のように不確かな感情を視覚化する


 人間の感情は気まぐれだ。流れたり、
止まったり、あさっての方向に進んだり。
そんな感情のおぼつかなさを、作・演出
の岩松了はここで「風」にたとえること
で、これ以上なく丁寧に綴ってみせた。
落葉がないと風が視覚化できないのと同
様に、人の感情は決して明確に目にする
ことができない。だから他者の感情がど
んな密度で、どんな速度で、どんな方向
に進んでいるかは、感情の副産物である
”言葉”や”行動”からしか推し量れない。
簡潔な一幕劇にまとめられたこの舞台で
は、そんな言葉や行動のかけらが、まる
で崖下に流れつく漂流物のように、無数
に現れてはふっと消えていく。
 秋山と北村の二人は、そうしたとぎれ
とぎれの感情の線分を、色っぽく美しく
余韻を含んだまま、バンド演奏に乗せ形
にしていく。いつでも世の事件を尻目に
我関せずと生きていく傍観者な清水と、
向い風で顔に張りつく新聞紙を払いのけ
ることもできないほど主観一直線な女。
そんな正反対の二人が生死の概念を乗り
こえた場所で、最後に”同じ風景”を眺め
る。他人の感情を丸ごと掴むことはでき
ないが、ある一点でならなんとか睦みあ
えるかも。そんな希望も浮かぶ、小劇場
にふさわしい”感情の実験劇”であった。

[ストーリー]
風の吹くある寂れた町に葛飾から女(秋
山)がやってくる。「崖っぷちまで行って
欲しいの」。彼女はタクシー運転手の清水
(北村)にそう告げたかと思うと、後部
座席に乗りマッチで煙草を灯した。どう
やらまた一人、自殺志願者の女がこの町
に流れ込んだらしい。清水はそんな女た
ちを何人も今まで崖まで送り届けてきた。
「仕事だから」と彼は言う。だがコウス
ケという青年(田中)を除く多くの町民
たちは、清水のことを自殺幇助の罪を犯
す倫理の欠けた男として白眼視していた。

(オリジナル原稿は「TOPSTAGE」に掲載)

Posted by iwaki : 21:17 | Comments (0)