愉快なロンドン観察記

タイラゲテヤロカ。機内で隣の中年女性が実にとうとつに話しかけてきた。タイラゲテヤロカ。タイラゲテヤロカ。まるでラマやアルパカを放し飼いにして生計をたてる(ことをしていそうな)、遙かアンデス地方の古代の呪文をつぶやくかのように、彼女はゆるやかな笑みを目にうかべて同じ言葉を魔術的につづける。タイラゲテヤロカ、タイラゲテヤロカ。半月状に歪む彼女の目が、私のまえにいすわる食べ残しのトレーにそそがれていることに気づき、ようやく呪文が解読される。
「たいらげて、やろうか」
どこぞで覚えたその日本語を、彼女は、病にぐずる我が子に聴かす母親の子守歌のようにやわらかにくりかえしてくる。たいらげてやろかあ。ただ「はい」と答えれば赤の他人に残飯処理を頼むことになるし、「いいえ」と答えれば彼女のまったく邪気のない親切心をふみにじることになる。風貌から察するに、彼女はどこか南米系の土地の人だろう。もしかすると彼女の故郷では、残りものは災いのもと、みたいな教えがあるのかもしれない。でもここは近代的なエールフランスの機内なのだ。私は「はい」とも「いいえ」とも口にすることができずに混乱の極みで言葉を失っていた。

と、その女性は一瞬の沈黙ののち「ヨカ」と一言つぶやいたかと思うと、素手でわたしの前にあるアルミニウム皿をひっつかみ、吉野屋の牛丼をかっくらうかのごとく残飯を一気にたいらげた。そして吸引作業が終了すると「オイシネ」と優雅に微笑み、中世の宮廷婦人にでも給仕するかのように丁寧に皿をかえしてきた。あまりのことに、私は言葉を失いつづけている。やはり「ありがとう」と答えるのも「すみません」と答えるのも、なにか間違っているように思える。こんな非常事態、ならず異常事態に、返すべき道徳的回答を私は今までの人生で培ってきてはいないのだ。

長い十三時間のフライトを終えて、ようやくロンドンに到着。翌日オペラハウスに向かい仕事の用向きのバレエを観劇する。ときおり襲来する時差ぼけの睡魔と格闘しながらも三幕物のゴージャスな舞を堪能し、夜11時、賑わいを見せるピカデリー・サーカスから地下鉄に乗りこむ。週末金曜日の夜だ。車内の扉近くには、これから踊りにくりだそうという服装のティーネージャーの集団がむらがっていた。外は霜の降りそうな零下の気温だというのに、女の子たちはタンクトップにミニスカート。しかも素足だ。またどうおおめにみても「美」の基準値をはるかに超えて「歌舞伎」の域に入りつつある極彩色の厚化粧が夜の蛍光灯に浮いている。薄着に浮かれた彼女たちを横目を、上から下まで黒づくめでむくむくのダウン姿の私は、紛々たる白粉の香りをくぐり抜けて空いたシートに腰掛ける。ふう、とようやく一息。だがふと前席をみあげると、そこにまたじつに「ロンドン、夜、金曜日」な酔っぱらいが座っていた。

アーミージャケットに黄土色に変色しかかったブルージーンズ。80キロはくだらないだぶついた巨漢で、水揚げされたばかりのワカメのような髪の下で、夏祭りの屋台で売られるアンパンマン風船のように顔を赤くふくらませている。両膝のあいだには、2リットル大の水のペットボトル。うつらうつらと半睡状態の意識の波間をただよう彼は、たまにウプッと口をすぼめなにかを吐き出しそうになり、私も含め半径1メートル四方の人間を一瞬おびやかしたかと思うと、2秒だけ真顔に覚醒してボトルの水をごくりと飲む。見れば、額にはまるで蛭に血を吸われかたようなマヌケな跡が。こくりこくりと前に垂れつづける頭を自力で支えることができない彼はどうやら、ときおりその栓の開いた手持ちのペットボトルの口を額にあてがい、暫定的な安定ポジションを保っているらしい。こくりこくり、うぷっ、水をぐびり、おでこで栓。そのくりかえし。いつ目の前でその男が逆噴射するかもしれない恐怖におびえながらも、あまりにおもしろすぎるルーティーンから目を離すことができない。こいつ失恋したのかな、いやいやこの風貌で恋人なんてありえねぇよ、だな、と隣の男子学生二人組がこの酔っぱらいをネタにひとしきりもりあがっている。その会話には「俺らのほうが、何倍かいけてる」という男子特有の優越感がまざる。でも、そいつらもしたたか酔っているうえに女っ気がまわりにないわけだし。たまに、ちらちらと例の薄着の女の子たちに意味ありげな視線を送っていた。

さて、いまはイースト・ロンドンのカフェに座りながらこの文章を書いている。隣のラブラブカップルは、なにかの手違いで息継ぎができなくなってしまい窒息死寸前の曲芸人のように、喘ぎ、もだえ、長時間キスをつづけている。なにかの極限パフォーマンスなんだろうかーー。しかしまあ異国に来ると、ただごとでない人間によくでくわす。べつに蝋人形館などに金を払って赴かなくとも、おもしろい見世物はいっぱいある。

(March 8, 2010)

Posted by iwaki : 03:18 | Comments (0)


心の垢すり、再び海外へ

ここ二ヶ月ほど働きづめに働き、心がぺしゃんこにしぼんだ餅のようになったので、少し息抜きもかねて旅に出ます。もちろん旅先でも仕事はもりだくさんですが、環境が変わるだけで、おもしろいほど心はふくらむ。いうなればオートマティック・モードに入っていた自分の思考回路が、外国に行くことでいちどマニュアルに切り替えられるため、行動にたいして自覚的になり気づきや喜びが増えるのです。実際、スーパーで牛乳を買うことも、駅の窓口で外国語に手こずることも、慣れない町をさまようことも、脳にこびりついた「垢」のようなものを落としてくれる浄化作用がある。そして、その垢すり作業が進むとともに、脳の処理速度もあがっていく。それはパソコンに古くて余分なデータが溜まっていると、処理速度が遅くなるのと同じこと。先日Macbook Airを購入し、ぎりぎり必要最低限のデータだけを移行する作業を終えたところなのですが、わたしの脳みそも同じように、必要最低限のデータだけを見極めて無駄なく蓄積していきたい。旅のおともにもっていく本は、須賀敦子と村上春樹とロア・シーガル。美しい町で美しい活字を読んで、心の垢を落としてこよう。

(March 4, 2010)

Posted by iwaki : 15:53 | Comments (0)


英国Twitter世代演劇

夕食後、肘掛椅子に腰かけゆったり何時間も本を読む。そんな時代はいまや昔。現代では夕食後、あるいは夕食と平行して、パソコンやケータイでSNSを楽しんだりネットサーフィンに興じる人のほうが多いだろう。テクノロジーの変化に応じて、生活形態や娯楽は変化する。それはあたりまえの話だ。だからたまに半日がかりの歌舞伎や、六時間のシェイクスピアなんてものを観に行くと、自分が旧石器時代にタイムスリップしたかのような感覚をおぼえる。しかもその芝居がいけてるならまだしも、あくびを噛み殺さねばならぬほど退屈だった日にゃ、もう開演後十分で、多動性障害の子どものように落ち着きがなくなる。正直じっと我慢して、どこぞの人が作りあげたものに大人しく何時間も堪えることは、Twitter、Facebook世代の人間にはかなりしんどい。おもしろくなきゃ他のことをしたいもの、さらにいえば自分でおもしろいことに参加したいもの。ねぇ、そんな「辛抱弱い」現代人でも楽しめる芝居はないの?

そんな問題意識というか不満意識を抱えて世界を飛び回っていたら、イギリスで、まさにTwitter世代にうってつけのインタラクティブ演劇が流行っているという情報を耳にした。いやいや、それは果たして「演劇」と呼んでいいものなのか。なにせ役者がいっさい稽古をしない演劇や、客が役者をやらされる演劇、あるいは客の足をただ入念にマッサージするだけの「マン・ツー・マン演劇」なんてものまであるのだ。CONEYという演劇グループなどは、自設サイトで<アドベンチャー・ロト>(www.takemeonanadventure.net. )なるプロジェクトを立ちあげ、ロトの当選者に、彼らの趣味や夢にもとづいてオーダーメイドされたアドベンチャー旅行を太っ腹にプレゼントしているという。要するに彼らへんてこイギリス人たちは、演劇というメディアを、もっとずっとパーソナルに参加できる体験に変化させつつあるようだ。

ちなみにきたる3月には、これら「Tweitter世代演劇」のうち二演目が初来日。都内でパフォーマンスを行う。ひとつは英国人俊英アーティスト、ダンカン・スピークマンによるSubtlemob(サトルモブ)というイベント。これは街頭演劇と、ライブインスタレーションと、音楽鑑賞と、あと、なんの変哲もないただの散歩をすべていっしょくたくにしたような作品。いっとき欧米を中心に”フラッシュモブ”という名のゲリライベント(SNSサイトの呼びかけで集まった人々が街頭でいきなり枕投げ大会をはじめたり、下着姿で電車を占拠したりする)が流行っていたが、それの「Subtle=控えめ」版だと思ってほしい。つまり観客は、奥ゆかしくも控えめなかたちで、街を占拠していくことになる。客は事前に指定されたMP3ファイルをダウンロードしておき、その楽曲を当日指定された場所で再生。と、そこからは音楽と物語と行動指事が流れはじめ、その指事に従って30分、町を散策することになる。MP3ファイルには2種類用意されているため、観客はおのずと半々にわけられ、ときに観客になりときに演者になる(恥ずかしいことは何もやらされないので大丈夫)。でもそれはあまりにも控えめな演技なため、果たしてその人が参加者なのか、ただの街ゆく人なのか最後までわからない。ただ実感できるのは、街がいつもより少し「愉快な場所」に見えてくるということだ。

もうひとつは、Stoke Newington International Airport(ストーク・ニューイントン・インターナショナル・エアポート)によるかなり奇抜なパフォーマンス演劇。その名も「Live Art Speed Date(ライブアート・スピードデート)」という題名のとおり、彼らは一夜の合コンイベントをアートにしたててみせる。合コンの参加者は、もちろん私たち好奇心旺盛な観客。恋のお相手は個性的な20名のアーティストたち。彼らが、ときに個室で、ときにテーブル越しに、ときに部屋の暗い片隅で、本気なのかセリフなのかわからぬ言葉であなたを熱心に口説いてくる。もちろんその演技者と現実の恋に発展することはない(と思う)けれど、ここでは参加者同士の交流イベントもいくつか仕掛けられているため、そこで未来のお相手に出逢うこともあるかもしれない。

なかなか言葉でそのおもしろさを説明することが難しい、英国初インタラクティブ演劇。ぜひ参加したいという方は、以下のサイトまでどうぞ。今日はいつになく本業に近い内容のブログでした。

■「あたかも最後の時であるかのように(サトルモブ)」

日時:3月2日 / 3月3日
会場:池袋
詳細:http://subtlemob.com/

■「ライブ・アート・スピード・デート」
ストーク・ニューイントン・インターナショナル・エアポート

日時:3月1日・2日・3日
会場:スーパー・デラックス
詳細:http://lasdtokyo.wordpress.com/live-art-speed-date/

(February 27, 2010)

Posted by iwaki : 12:37 | Comments (0)


質問を投げるピッチャー

質問力について考える。職業柄、質問の精度をあげることには日々苦心している。なぜなら、これは数年来の仕事経験のすえ辿り着いたテーゼなのだけれど、質問の精度が高ければ解答の精度も高いから。「この作品のテーマはなんですか?」なんて漠然とした質問を投げかけても、相手もその球をどう打ち返したらいいかわからない。し、打ち返す気も失せてしまう。この球は俺に向かって投げられているぞ、と思わせる適確な質問を投げなければダメだ。

また要点を得ずにしゃべりはじめ、最終的になにが問いなのか分からないダラダラトークをつづけるのも困りもの。Clear(明解)に、Concise(簡潔)に、Correct(適確)に。これが質問力には肝心。CNNジャーナリストのクリスティン・アマンプール氏の質問など、この3つのCを完璧にマスターしていて非常に勉強になる。ただ彼女の作法はすこし米国的なアグレッスブさが強すぎるように思えるので、日本社会で採用する場合には、個人的にこの3つのCにもうひとつCompassionate(思いやり)を付け足すようにしている。

ちなみに、質問をする際にもっともやってはいけないことは何か。それは自我をひけらかすことだ。知識を吹聴するため、意見を誇示するため、むりやりそれを質問に仕立てて相手に身勝手にぶつける。これは絶対にやってはいけないマナー違反である。情報処理レベルの質問は別にして、情緒レベルの質問というのは、相手に明解に気持ちよく話してもらうための行為であって、自分が気持ちよくなるための行為ではない。でもそこのところをきちんとふまえずに、質問ボールと「エゴボール」を混同して投げてしまう人が意外に多い。

先日あるパフォーマンスのアフタートークを聞いていて驚いた。あまりにもこの手の「エゴ・クエスチョン」をする人が多いのだ。たしかにその場には、学のある、知識のある、質問が豊富にとびかっていた。だが残念なことに実際に質問された解答者は、どうしたらいいものやらしゃべりづらそうだった。最近は若年層におけるコミュニケーション能力の劣化が嘆かれて久しいけれど、その能力低下の原因は、むしろ発言力よりも質問力の低下にあるのではないか。いい球を投げるピッチャーがいなければ、会話という名のゲームさえはじまらない。ーーと、そんなことを考えながら風呂場で強烈な睡魔に襲われ溺れかけた今夜。文章がいつもよりキレがないけれど、しょうがない、もう寝よう。

(February 22, 2010)

Posted by iwaki : 00:32 | Comments (0)


文体と身体のリレーション

人よりもいくぶん身体的な物書きなんだと思う。なにかについて「書いてください」といわれ「はいわかりました」と電話をきり、それでその足で喫茶店にむかって二時間足らずですらすらと書きあげるということは、私の場合ない。ではなにをするのかというと、まずはプレパレーションをする。それは物書きがよくする下調べ、という意味でのプレパレーションとは別もので、そうではなく、その文章を呼吸するためのプレパレーション。体中の細胞がその文章を呼吸するようになるまで、肉体の準備を整えるのだ。

アラン島の自然美について書いてくれと言われれば、苔むすように悠然とした時が流れるヴィクトル・ユゴーの小説を読み、シューベルトの子守歌に静かにひたる。下北沢の若手作家によるアングラ芝居について書いてくれと言われれば、漫画喫茶におもむいて普段はあまり手にしないギャグ漫画なんかをぱらぱらとめくって、ついでに松屋で牛丼を食べてみたりする。要はアラン島であれアングラ芝居であれ、その地に棲息している人たちが吸うのと同じ空気を呼吸する。そうして体の状態を変えることで、文体もおのずと変わっていく。それはいささか非生産的で儀式じみた馬鹿げた行為に思えるかもしれないし、ともに生活をする家族や友人には七面倒くさいことかもしれない。そして自分でもたまに変身の飛距離に眩暈を覚えることがある。上方の大御所歌舞伎役者から、ドイツのアカデミックな演出家を経て、フランスのコンテンポラリーダンサーに飛んだときには、日替わりで改宗しているようで辛かった。(それに彼らは宗教と同じぐらい自分の芸術観こそ絶対だと思っていた)。けどやっぱりその肉体準備行為は、私にはとても大切なことのように思える。もちろんすべての文章に同等の労力を費やせるわけじゃない。でも大切ななにかを届けたいときには体から頑張る。長距離走者には長距離走者の、短距離走者には短距離走者の、それぞれに適した体があるように。ある種の文章を書く物書きにも、それに適した体があるように思える。

それで最近は、食事に気を使ったり、ヨガをしたり走ったり、挙げ句には断食道場に行こうという計画までもたげてきたり。とにかくなるべく体をニュートラルな状態に保つように心がけている。それはつねに家を整理整頓して清潔に保つ行為と似ている。ホテルの一室に独り夜中にぽつんと座りこんでいると、聖書は聖書、バスローブはバスローブ、剃刀は剃刀の、あるべき場所にすべてが置いてあり、そのまったく誤差のない秩序のなかで、いつも以上に生産的に思考がまとまっていくことがある。そんなときにふと思う。体にしろ環境にしろニュートラルであることとはつまり、思考のフットワークが軽いということなのだと。作家がホテルに缶詰にされるのも納得がいくってもんだ。

先日、箱根に住む心理療法士の友人に会いにいった。彼女の家は、家というにはあまりになんというか除菌されすぎていた。真っ白で大判のテーブルに、向きを整えて置かれた同じ型のペンが数本と、その横に置かれた匿名的なリングノートと、文具に除けものにされたようにひとりぽつんと置かれたクリーム色のマグカップ。机の横の本棚には、専門書全集が巻数の昇順にならべられ、文庫本でさえもその背の色によりあるべき場所に配置されていた。「乱れたものがあるとクライアントに影響が出るのよ」。彼女はその部屋でたまにクライアントとの診療セッションも行うのだが、室内の乱れが不安定なかれらの心を乱してしまうのだという。そしてそのノイズ障害によって、プリサイスな診療結果を得ることが難しくなるのだ。そのときのわたしは「ふーん」と適当な相づちを打ち話を終えてしまったが、のちのち体と文章のソマティックな相互作用について考えるにつけ、彼女の言葉が不思議な温度でふたたび染みわたってきた。そろそろ新たな文章プロジェクトもはじめることだし、もうすこし、身体と文体の関係性について考えてみようと思う。

(February 13, 2010)

Posted by iwaki : 22:55 | Comments (0)


仮想リクルーティング活動

わたしの職業は素浪人だ。誰にも仕えず何処にも召し抱えられず、刀一本、いや筆一本で世を渡り歩く。これは自分で選んだ生き方で、それをかなり好いているわけだけど、たまに自分が社会フロウからはじき出された心持ちになる。ひとりで調査し、取材し、執筆し、記事がようやく刷り上がる。それでもちろん社会人としてのペイを頂いているわけだけど、あまりに独りで居続けるため、たまに自分が世に本当に貢献できているのか疑問に思えることがある。わたしはちゃんと大人としての基礎戦闘力を培えているのか。どうなんだ。

そこでここ一週間ほどある実験に出た。素浪人であるわたしの実力は、一般市場でどれだけ有用価値のあるものなのか。簡単にいうなら就職活動をしてみることにした。とはいえ本気で将来の職場探しをしている新卒採用の子たちに混ざって企業廻りをするような、無礼なふるまいをするわけではなく。主にインターネットを使って海外や日本の企業に、自分がいままで培ったスキルである「文章」「知識」「語学」などを売ってみることにした。本業も忙しい日々がつづいていたけれど、気分転換として、英文の履歴書を書いたり、英語で文章を書いたり、目的がはっきりしているため学習効果も高くて作業は楽しかった。そして、レスポンスを待つこと数日。結果からいうと、いまだに新卒採用が主流な日本市場からはまったく音沙汰がなく、スペインとインドから仕事のオファーが来た。特にスペインのほうは、アディダスのプロジェクト・チームに入らないかというオファーでなかなか楽しそうに思えた。本気で逡巡した。一ヶ月ぐらい、試しにやってみてもいいかもしれないと思った。

その仕事を受ける受けないはべつにして、自分が社会に通用する人間になれている、という事実が嬉しかった。そんなもん対外評価がなくとも自分でわかって進んでいけよと非難されるかもしれないし、それはそのとおり全くごもっともなのだけれど、試しにバーチャル・リクルーティングをしてみたくなったのだ。まさか本気で採用されるなんて九割がた思っていなかったので、正直驚いた。この不景気のどん底のさなかに、そんな馬鹿げた動機で就職活動しやがって、とボコボコにされそうな話をして本当にごめんなさい。陳謝です。明日からまた、独立独歩、きちんとプロの文筆家として精進していきます。

追加余談。ナイトヨガをはじめたのだけれど、ある一定の種類の基本ポーズがどうしてもできない。原因をもろもろ考えた結果、わたしは身長比に対して腕が異常に短い事実が判明。別の名を借りるなら、これは胴長ともいう。

(February 4, 2010)

Posted by iwaki : 23:42 | Comments (0)


平和なカフェと戦争

執筆のためによく喫茶店を利用する。スターバックスやセガフレードなど何処にでもあるチェーン店だ。日本では喫茶店という呼称のもと認知される店に入ると、どうしてもゆっくり長居できない。うちの自慢の珈琲を味わって一息ついたら「ご退席下さい」という婉曲的圧力をーーたとえばお冷やをそそぎに来るタイミングなどに感じてーーなんとも落ち着かない。し、愛用マックブックを開いて仕事をするなど、たまにやるけど、かなり度胸がいる。そこへくると時間単位のシフトで働くバイト君たちが店を仕切るチェーン店はじつに気楽。ラテ1杯で何時間でも放っておいてくれる。

さてそんな自由空間にまっぴるまから長居をしていると、仕事現場では会うことのない、実に雑多な人々に遭遇する。校則ぎりぎりのラインでどれだけ長い「まつげエクステンション」をつけられるかに一時間も悩む女子高生たち。自分がどれだけ東京の道路事情に詳しいかを自慢しあう免許取りたてと思しき男子大学生たち。その横で席のうえにあぐらをかき食い入るように求人情報誌を睨みつづける三十代男性。じつにすべてが日本的だ。そんなおり、偶然にもとてもとても興味深い議論に出くわした。わたしの隣に着座した、三十代前半の男子と四十代のおじさん。ふたりは同郷の知り合いらしく、東京で久方ぶりに会ったよう。若いほうはネルシャツにジーンズ、冴えない風体でフリーターとして東京で暮らしている。中年のほうはグレーのスーツに水玉ネクタイ、出張で一時上京中だ。

「夢を持てよ」と、おっさんは若者をいきなり鼓舞しはじめた。夢を持てよ、まだ若いんだから。なんだってできるじゃないか。フリーターは確かにきついかもしれない。でも働きながら週末に好きなことをして夢を叶えるやつはいるよ。俺の知り合いでもそうして作家になった奴がいる。すごいんだぞ。広告会社で働きながら、しこしこ週末に原稿を書きつづけたんだ。おまえ、建築家になりたいって言ってたじゃないか。なにか勉強してるのか?

若者の返答は、じつに現代東京的。夢どころじゃない。夕方から夜勤に出て朝帰宅して、午後まで寝ての繰りかえし。週6日それで働いて、月に13万しか給料が入らない。一人暮らしもできないし、彼女もできない。その年齢でなぜ親元を離れないんだ、とまわりには白い目で見られるけど現実問題むりなんだ。それに建築家云々はもう若いときの話だよ。いまは普通に家庭をもって普通のしあわせを手にいれたい。でも、その未来も僕には思い描けない。

この嘆きに対してまたおっさんが「辛気くさいことを言うな」と喝をいれ、その言葉に対して若者が「でも」とさらに沈んでいく。歩みよりも解決もない永遠のリピテーション。

さて、この無限会話の何がそんなにおもしろかったのか。端的に言うならそれは「おっさんが夢の不在を嘆き、若者が希望の不在を嘆く」その世代的な価値観のちがいにある。おじさんが社会に出たとき、世はおそらくバブルだった。平日仕事をしていれば、週末に夢に打ち込むことも可能だった。普通に生きていれば普通に給料がもらえ、その経済力で余暇をまわせた安楽な時代だ。ひるがえって若者は、現代の暗黒不況に生きる。氷河期に就職活動をするも内定をもらえず、非正規雇用で今まで食いつないできた、だが働けど働けど自立した生活が望めない。普通に生きたいという希望さえ叶わない。いわんや、その先にある夢をや。

と、いきなり若者が妙に明晰な口調で暴言を吐き隣席のわたしを仰天させた。
「戦争がおきればいいんだ」
戦争がおきれば、世のすべてが崩れる。そうすれば僕にもチャンスがまわってくる。英雄にだってなれるかもしれないし、退屈な日々はとりあえず終わる。まるでフリーター論客のひとり赤城智弘さんが語る世界転覆願望そのものだ。東京ではいま、三十代までの若者の三人にひとりが非正規雇用労働者だ。にもかかわらず就業時間はヨーロッパより年500時間ほど多く、年間三万人以上が自殺する。そんな夢も希望も持てない世界では、若者は平和より戦争を望むのか。甘えたこと言うんじゃない、自己責任だろ、働けよ、前進しろよ、と社会基盤が安定した場にいる大人が叱ることはたやすい。でも本当にこの隣席の男子は、戦争という未来にしか希望が持てないのかもしれない。彼にとってそれは極論ではなくいたく現実論なのだ。明るくないブログを書くのは嫌だ。でもこの平日の平和なカフェの一角でひたひたと進む末期症状は、さすがにロスジェネ同世代として看過できないように思う。非正規雇用を増やすスタバではなく街の喫茶店に、少しけむたくても行くべきなのかもしれない。

目をおとせば手元には寺山修司。
「僕はいまできることでこの生ぬるい湯気みたいな平和に抵抗するしかないんだ」

(January 29, 2010)

Posted by iwaki : 22:10 | Comments (0)


エンデと望郷の想い

ミヒャエル・エンデの『遠い旅路の目的地』という短編小説を読んだ。
母の顔を知らず、父から愛されず、ただうなるほどの金と地位を与えられ、精神が生活から孤絶した状態で育ってしまう少年。表情に乏しく世のなににも動じない彼は、まるで薄い皮膜の向こう側で、全世界の傍観者になってしまったかのようだ。そんな彼があるとき「故郷」という言葉に出逢う。そしてすべからく人は故郷を語るとき、表情を和らげ頬をほてらせ興奮することに疑問を抱く。果たして人の心をあたたかな色あいに染めあげるこの「故郷」とはいったいなんなのか。彼の明晰な頭脳は単語の概念を理解することはできても、その概念をどうしても生理と結びつけることができない。そして少年は故郷と呼べるなにかを探すべく永く遠い旅路に出る。

エンデの小説はいつもこうして、ひとつのささやかな疑問からはじまる。彼自身のなかにもおそらく明解な答はない。ただ子供のように放逸な好奇心でもって「故郷とはなんだろう」と読者に問いかける。そして子供向けにつづられた平易な言葉でもって、油断のならないアバンギャルドな哲学を打ちだしてみせる。それこそ凡人がゆったり腰を落ちつかす平穏な既成概念を粉みじんに打ち砕くような、なかなかに危険な結末に達したりする。

この短編にしても読者は、文章に目を通すまえまでは「故郷とは故郷と呼べる土地のことだろう」と信じて疑わぬ無批判な常識をかまえているはずだ。辞書をひもといても「故郷=生まれ育った土地、ふるさと」と解説されている。だが作品を読み進め、エンデの疑問提起にのることにより、故郷という概念に対して根こぎ状態に陥るような思考を強いられることになる。果たして故郷とは本当に土地のことなのか、その土地と結びつけられた人のことなのか、あるいは土地も人も関係なくのちの人生で出逢う芸術や宗教も故郷になりうるのか。実際この小説の主人公は、最後まで人や土地に故郷と呼べるぬくもりを覚えることができず、一幅の絵に故郷を見る。

ときを同じくして唐詩選を精読していて、いかに望郷の念を詠み上げる歌が多いかに驚いた。いまどきのぞろっぺえな言葉でいうならホームシック。つまり故郷を恋しいと想う心は、恋愛や別離と同じように、歌にせずにはいられないほど烈しく詩人の心を揺さぶってきたのだ。けれどこのとき詩人たちが詠んだ「故郷」とはいったい何だったのか? ある一定の土地だったのか、ある独りの愛する人だったのか、あるいはすべてが想像上の美化された追憶にすぎなかったのか。

わたし自身は土地に望郷の念を抱いたことはない。東京に生まれ海外もふくめ幼少期に引っ越しを七回もしていては、どこを故郷と呼んでいいのかわかりゃしない。では家族は故郷ではないのかと問われると、それはイエスでもありノーでもある。やはりこの年齢になると、父と母が作りあげた家族は本質的には彼らふたりのものであり、自分はすこし余所者だ。もちろん大切な存在ではあるけれど海外に出てホームシックになることはない。さてそうなると、わたしの故郷はどこにあるのか。答えは「いまだみつからない」。そして二ヶ月前のブログにも書いたけれど「おそらく人にある」。エンデがつぶさに描写したように、ふとした瞬間に想い出すだけでふわりと笑顔を浮かべてしまう、その温かななにかこそが故郷と呼べるものになるはずだ。三月からすこし長く海外に出る。そうした異質な時間を持てばまた、故郷に対する考えも変わるかもしれない。

(January 24, 2010)

Posted by iwaki : 01:31 | Comments (0)


雲南省と文学とマルジェラ

いつになく忙しい日々がつづく。悪くはない。忙しくしていると善いことがふたつばかしある。ひとつは無駄なあれこれを考えすぎず時間を有意義に埋めていけること、もうひとつは金を使う暇さえないため預金がオートマティックにたまること。もちろんこうした労働コンベアー状態が長くつづくと、心がからっけつになってしまうので、あるときには休止し、ぼんやりと考えごとにふけることも必要。でもいまはこうしてまとまった時間を労働に費やすのも悪くないと思える。この不況のさなかとりあえず路頭に迷う心配をしなくてすむ、どころか、あと一月か二月おなじ勢いで働きつづければ下半期は遊んで暮らせるかもしれない。金の真の強味は、金のことを考えずにすむ時間をもたらしてくれることなのだ。

そんな仕事三昧の日々のさなか、雲南省から来た天才舞踊手ヤン・リーピンを取材する。彼女の出身地ではいまだ二十五もの少数民族が肩をならべ暮らし、北京や上海といった資本主義に汚染される都市とは異なる有閑な時がつづくという。蟻のジグザグ行進を子供たちが追いかけ、ちゃぷりと小川にひたる水牛の足下を魚がとおりぬけ、暮れていく赤い夕陽に孔雀が悠然とはばたいていく。ほんとうに美しい場所なんですよ。そう語る彼女の笑顔も、年齢不詳の楊貴妃のように美しい。ある国の大富豪に見初められいっとき結婚した経験もある彼女。「幸せはお金にはないですね」というクリシェにも強さが宿る。

取材後、いいかもねえ雲南省、とわたしの旅好きの虫が騒ぎはじめる。そして早速ネットで航空券を調べる。どうやら成田から上海まで飛んで、そこから国内線で雲南省の省都・昆明を目ざすのが正攻法らしい。上海までの航空券は、時価二万から三万。ヨージのセーターを一枚我慢したらいける値段だ、よしよし。そしてお次は中国のドメスティックフライトを調べる。上海から昆明、でポンと検索。出てきた価格に……愕然、いや啞然とする。往復1120円。なんど確かめても単位は「¥」だ。いやあ、そういえばヤンさんまわりのスタッフが、市内バスは一日乗り放題で1元(約13円)だと言ってたな。その物価でいくとこの価格も、ありえない話じゃないか。でもな、飛行機に乗る人間はおそらく村民じゃないわけだし。となるとこの価格は……と、両目をしばたたかせ画面上の数字に困惑しつづける。そして脳内は、ふたたびお金についての思考を廻りはじめる。

新たなプロジェクトの勉強に励もうとスターバックスに入ればコーヒが420円。ようやくセールだ万歳、とネットショップで英国製ランジェリーを購入すれば3200円。iTUNESをとおしてハイチ地震の救援金を寄付すれば2500円。日本、英国、ハイチと、落としたお金が辿りつく国はそれぞれ異なるし、同じ100円でも、それぞれのお金がもつ価値も異なる。べつだんハイチに寄付することが、無条件に価値が高いことだとも言いきれない。わたしにとっては女をあげるランジェリーに費やすお金も等価に大切かもしれない。要はその100円の使い道で、自分がどれだけの満足を得られるか。どれだけの幸福を得られるか。だから人は大金を持ったときに本性が明らかになる。怖いことだけれど、金の使いかたで人生観がおのずと暴露されるのだ。

昆明行きの航空券とにらめっこすること、10分ほど。わたしの指は「航空券予約」をクリックする2ミリ前まですすむ。が、ここは念のため、別サイトでもういちど調べてみる。その検索結果、1120元。……元。つまり1万5千円。なんだ、わたしがいま勉強資料として狙っている文学全集とほぼ同じ価格じゃないか。いや、マルジェラのセクシースカートも同じくらいの値段だったか。いやいや、洋服なんて俗な消費物に費やさず、やはり昆明、昆明。いやいやいや……。さてどうすることやら。雲南省で得られる幸せと、マルジェラで得られる幸せと、文学全集で得られる幸せ。わたしはどれを選ぶのか。

(January 17, 2010)

Posted by iwaki : 23:11 | Comments (0)


第三次突発性コウモリ症候群

それはあるとき突然、訪れる。昨日までは日常であると信じていた場所が、あるときふいに日常でなくなる。環境は変わっていない、そこで生きる人も変わらない。にも関わらず、その中央にたたずむ自分だけがふわふわと空間に浮遊している。そして浮遊感のただなかに「変だ」という違和感だけが言語化され、自分のなかにずんずん沈殿していく。

変だ、変だ、変だ。

なにがどう変なのか具体的にはさっぱりわからない。けれどその体感は圧倒的な絶対感であり、仮にたとえるなら、あのイソップ寓話の『卑怯なコウモリ』よろしく、鳥の一族にも獣の一族にもなじめないでいる孤独感に近い。こんな突発性コウモリ症候群に、わたしはオリンピック周期ぐらいの頻度で襲われる。そしてここ一年程おそらく、成人してから三度目の、重度突発性コウモリ症候群に罹っている。いや症候群、などというと誤解を招く。この言葉にはなにか、早いところ治療して元通りにならないと、このあとの人生をずっと神経衰弱の瀬戸際で生き続けなければならないぞ、という息苦しさがただよう。でもわたしにとってはむしろこの病は、健康の兆候。心が健全に機能しているからこそ、なんらかの意味で毎日が機械的すぎる退屈さに支配されると、心のアラームが警笛を鳴らし始めるのだ。

ただ二十代までの私は、このアラーム音が作動しても、それをなるべくミュートに近づけるべく必死に抑制してきた。変だ、と叫ぶ自分の心はひとときの衝動に過ぎない。名づけようもない焦燥のせいで、自分がいままで築いた人生を、投げ捨ててしまうなんて馬鹿げている。そう自分を大人顔に戒めていた。でも今回のコウモリ症はいつもとはちょっとばかし異なり、抑制ではなく肯定感が、自分から導き出されてくる。「感情にきちんと目を向けて、自分の行動を考えなさい」とある大切な人に言われたことも大きく作用している。またそれなりに歳を重ねたことで、心を欺いて何十年と生きつづることに、リアルな恐れを感じられるようになったことも影響している。

変だ、という警告音の裏にはひとつの事実がひそむ。それは自分のなかでの価値観が大きな地殻変動を起こしたということだ。そしてこうなると、それまでの日々の常識会話が、偏見の集積会話に聞こえてきてしまう。仕事相手とのおさだまりな挨拶のしかた、家族内での暗黙なる相づちの打ちかた、ある業界内での善とされる価値観への盲目さ。すべてのことに無数の「なぜ」の疑問符が浮かびあがる。「常識とは、十八歳までに蓄えられた偏見の集大成である」とアインシュタインは語った。つまりは幼少期に受ける、ゆるやかでたえまない家庭内洗脳が、常識とよばれるなにかにいつのまにか成り代わるのだ。が、あることをトリガーに脱洗脳がはじまると、それまでの自分の常識基盤がいかに偏見の寄せあつめであったかがまざまざと見えてくる。そしてこの澄みわたる眼を持てたときこそが、孤独でいておもしろい、一時的な世界からのコウモリ状態になったときなのだ。

常識が偏見だと暴かれ、いままでの自分のかたくなな阿呆さに愕然と気がつくと、いくつかの溜め息ののちに、気持ちがおのずと謙虚になる。わたしはいまこの謙虚さを大切に、自分の内から響く「変」にじっくりと耳を澄ましている。それが、いったい自分になにを伝えようとしている音なのか。心の警告と世界の歩調、ずれてしまったふたつの位相が、あたかもライヒの楽曲のように再同期するときまでーー辛抱強く待ってみたい。

(January 9, 2010)

Posted by iwaki : 01:09 | Comments (0)


活字を書きながら年越し

時間というのは不思議なものだ。勝手きままに、長くなったり短くなったり。やっつけ仕事に追われているまに「ああ、もう一週間っ!」なんて週末にふと思ったときには、働き雀な生き方が身体に三十年ぶん染みついてしまったのかと、ちょっぴり情けない気分になる。そこで今年になって、いつ頃だったか、もうせこせこ生きるのはやめようと決断した。自分の時間感覚で生きよう。そもそもフリーランスっていう肩書きなんだし。そう思ってから、意図的に、時間の手綱をなるべく自分で握るようにした。のんびりしたいときは存分にのんびり、あくせくしなきゃならないときは割りきって働く。そうやって、今っと思ったらすぐに過去になり、ずんずんむげに流れ去っていく無制限な時間というものに区切りをつけて生きるようにした。もっと簡単な言葉でいうなら、時間を一色で埋めつくさないようにした。

そうした信念を時間にたいしてもったら、より「生産的に」生きられるようになった。家事を営む時間があり、愛をつむぐ時間があり、仕事に打ちこむ時間があり、学業にふける時間がある。いろいろな色があって、しかもそのすべての色づけに対して、なるべく、能動的。この能動性というヤツがじつは思いのほかくせもので、とくに東京にいると、新しいものがバンバン街中に乱立するため、それにリアクトしているだけで、結構、日々を飽きずに送れてしまったりする。でもそうしていると、わたしは、人に与えられたテンポの時間にあっちからこっちから攻めたてられている気持ちになって、だんだん息苦しくなっていく。

そういえば先日、コム・デ・ギャルソンのデザイナーの川久保玲さんが「価格が三桁のジーンズなんてありえない」と発言をして、ネット上で物議をかもしていた。「安さ、早さ、だけを求める商品を作るとその工程で誰かが泣いているかもしれない。いいものには、人の手間と努力がかかる。だからいいものは高いし欲しくなる」というのが彼女の意見の大筋。おそらくこれはユニクロ・デフレなどといわれている一連のあこぎな不景気商売に対して批判の矢をつがえているのだろう。そしてこれに対して勃発した反論の多くは、おもに最後の一節に対して。「安くて良い物を作るという価値観はないのか」というユニクロ商売肯定的なものだった。もちろん、不景気になやまされる消費者の立場からすればこの反論は一理も二理もある。けれど、川久保さんが言いたかったことは、消費や景気や価格のことだけではなく、生き方の本質にたずさわることではないかーー。

いいものには、人の手間と努力がかかる。この川久保さんの言葉を我流に拡大解釈して語るなら、いい仕事をしようと思えば、いい政策を導こうと思えば、いい人間関係を築こうと思えば、やっぱりすべて手間と努力がかかる。その必要な時間を惜しんで、結果、売上げ、成果、成功、ばかりをババッと求めやっきになって生きていては、人間、長い目でみたらだんだん息苦しくなる。作ったら捨てる作ったら捨てるの文化では、いうなれば砂上に、時間の楼閣を建てようとしてるようなもの。いつ強風で吹っ飛んでしまうかわからないその生き方に、不安を覚えない人間はいない。願わくば誰もが、嵐が来てもビクつかない太い根のある日々を送りたい。そしてそのためには、自分はなにに時を費やし、時を積み上げて生きるか、能動的に考えていく必要がある。

とにかくここで言いたいことは、来年もひきつづき、というかふんばってよりいっそう、時間を「生産的に」紡いでいきたいということ。ユニクロ的な生産性ではなく、ギャルソン的な生産性で。それは辛抱と規律としつこさが必要な地道な作業で、無鉄砲に突進しすぎッと人に突っこまれるわたしにとってはなかなか苦手な創造作業だけれど、来年こそもうちょっと安定してこつこつと根を伸ばしていきたい。もうすぐ新年です。新しい年がみなさんにとって、喜びと愉しみとすこしの哀しみと、人間らしい感情に満ち満ちたすばらしい一年でありますように。

(December 31, 2009)

Posted by iwaki : 23:30 | Comments (0)


京都で呼吸しつつ想う

呼吸の勉強をしていて学んだことがある。吐けば自然の摂理でエネルギーが入ってくる。だから呼吸においては、吸うことよりも吐くことが大切。吐ききればスペースができて、そこに自然と新たななにかが充ちてくる。ふむ、確かにそれはそうかもしれない。

そう思いつき、思い立ったが吉日と、いろいろと身辺を簡素にしてみた。
衣服を捨てる、書籍を売る、家具を買い換えて整理する。その過程で、たとえば五年前に読んだにもかかわらず、漠然としたあらすじさえ記憶に留めていない書物に出逢い、いかに自分がいらぬ知識武装をしていたかを呆れるほど実感する。逆にここ最近読んだ書物は、日々の変化と綱渡りの連続を生き抜くため、すがるようにして読んでいる書なため、活字が細胞のすみずみまで異常なほど血肉化している。なるほどね。読書も、人生も、量じゃなくて質なのね。20年より2年、20冊より2冊のほうが、比重が大きくタメになることはある。そしてこれからは、サバイブするために必要じゃない知識は「捨てていこう」という結論にいたる。無駄に知識を入れこんでも、処理せねばならない情報だけが多くなり、不安にもなるし、行動への第一歩が鈍る。おそらく蓄積することによって固めていく安定ではなく、捨てることによってブレない骨組みの安定を得るほうがいいのだ。余剰時間、余剰消費、余剰知識。そういったものをなるべく捨てて本質だけで生きていこう。

そんなことを考えていたおり、祖母が突然亡くなった。そしていま葬儀のため京都にいる。92歳の大往生だったため葬式じたいは哀しくも幸せなものではあったが、いまこのタイミングで「死」というものを突きつけられると、わたしは人生の最後に、なにを持っていたいんだろうとド真剣に考えてしまう。未来をフォアキャストするのではなく、死からバックキャストしていくかたちで、じゃあ今をどう生きていきたいのかと考えてしまう。

それに久方ぶりに親戚一同などに会うと、人はこうして子どもから大人になり老人になりタダ死ぬのだな、という「生の道筋」が気持ち悪いほど明解に見える。その容赦のない一本道に怖ささえ覚える。だから個人的にはなるべく、危険にいっけん思えても、その一本道から脱線していきたい。また変にモノや財産や場所などに馴れあいから固執せずに、それこそ毎日の呼吸で、新しく細胞を生まれ変わらせながら気持ちよく前進しつづけていきたい。わたしが92歳になったとき、誰を想い、なにを抱き、生きているのかは正直分からない。でも、旅は行先がわからないからこそスリリング。人はそれを無邪気すぎる無鉄砲さだというかもしれないけれど、わたしはそれを蛮勇ぎりぎりの勇気だと思いたい。

(December 23, 2009)

Posted by iwaki : 18:34 | Comments (0)


誕生日と男女共存論

精神ー生活、絶対性ー相対性、社会ー家族、
能動ー受動、計画的—即物的、理性ー感情。

前者が男性にあてはまる項目で、後者が女性にあてはまる言葉。
これら対比は時のまにまにわたしが考えたことだけれど、何も改めてここでいわずとも、古代中国の陰陽道からユングのアニムスとアニマ論にいたるまで、男性と女性とに生得的な差違があることは、洋の東西を問わずさまざまな賢人が語っている。

だがいまは男女同権の時代。誰もが平等に働いて稼いで家事をする、男女で五分な生活が理想とされる。けど、わたしはこれにとても懐疑的。時代を逆行するような物言いかもしれないが、男性には男性の女性には女性のそれぞれの美点があり、双方は補いあってはじめてひとつの球体になるのだと思う。

わたしのまわりには、二十代から四十代の独身女性が大勢いる。なかにはいちど結婚をして、早くも離婚して独り身を満喫している強者もいる。そして職業も国籍も男の趣味も違う、彼女たちが同じように口にするのは「ひとりはラク」ということ。男に気をつかって生きるなんてもうこりごり、一歩身を引いて男をたてる時代なんて石器時代の昔よ。そう、あっけらかんと笑う。そして年末年始には気の置けない女友達と、上海、ソウル、グアム、台湾、香港と経済不況でも気軽に行ける海外旅行をエンジョイする。じつになんとも逞しい。いまは草食系男子という言葉が巷間をさわがせているが、それに比例して、女性マチズムとも呼べる現象があきらかに増えているように思う。

しかも彼女たちは、本当に、強い。社会的成功をおさめる男性マッチョたちが、いざ縁の下の力持ちな女の存在がいなくなると、とたんに折れる内的脆弱さを抱えていることが多いのに対し、女性マッチョたちは誰の力も借りず、独りで立ち独りでへいちゃら。でも、ここにひとつ見過ごせない弊害がある。たとえどれほど独りでいて平気でも、独りでいつづけると女は精神的に無精になってゆく。わたしはこれでいいのよ、わたしはこういう人間なのよ、と自分の煩悩のままに生き続けるようになってしまう。そしてこれが数年放置されると、自分への戒めも込めていうのだが、多くの独女は女でなくなる。社会的には女という区分けで分類されながらも、無性の動物と化していく。

だから、女は女で居つづけるために男が必要だし、男は男として逞しく生きるために女が必要。これがわたしの男女同権論ならぬ男女共存論。目は二つあってはじめて、世界の奥行きを認識できる。それと同じで、男と女も二人でいるからこそ、世界や社会や自分への理解が深まっていくように思う。ラクというのは「なにもなくて平穏」という生き方だ。だが信頼があれば「なにがあっても平気だ」という二人の生き方ができるように思う。まあ。これはとても実現がむずかしい究極の理想論かもしれないけれど。

今日でわたしは32歳の女になった。でもまだ完全な一個の球体にはなれていない。その事実に対しての深い深い自責の念と、愛を信じつづけたい絶望ぎりぎりの希望と、たまに災いを招くわがままな頭脳と無技巧な心をうまく制御して、これからまた新たな1年を過ごしていきたいと思う。

(December 19, 2009)

Posted by iwaki : 23:47 | Comments (0)


思考と表現とシエンツァ

最近、東京はずっと天気がいい。そして、太陽を浴びているとなぜか思考が止まらない。
そこで日光量と集中力の関係性について考えはじめてみる。次に、仕事環境とストレスについて考える。ストレスから、良質な睡眠について考える。またiPHONEアプリケーションのスリープサイクルで自分の睡眠サイクルでほぼレム睡眠がないことについて悩み考える。夜、恋愛について考える。ポルトガル人の知人が「愛されたい、恋愛受動態男子が増えている」と話していたことについて考える。でも愛されることより愛することが、生きがいを充たしていくんだろと漠然と考える。みぢかな人間関係の客観性について考える。理性の基盤となる謙虚さが自分には足りないことに気づき考える。サン=テグジュペリの「夜間飛行」と孤独感について考える。モリエールの「成り上がり者」で「ひとは食べるために生きているのではなく、生きるために食べているのである」という一文について考える。その流れで身体づくりのため、新しいジムを選び通いはじめる。そして走りながら呼吸法について考える。よい呼吸ができているときは読書が捗ることについて考える。フランス語の教師と「読書」についての日仏での意識的差違について語り考える。教師の持ち馬ロッキは寒いほど乗馬コンクールで好成績を残せるらしく、冗談で地球温暖化と乗馬成績の相関関係について笑い考える。デモが続くコペンハーゲンのCOP15と、いまの東京の九月の秋晴れのような天気のよしあしについて考える。

考える、考える、と書いてみたが。これだけいろんなことを上辺意識で考えていると、じつはなにも考えていないのではないかとも思えてくる。あるいは、その底になにかひたひたとすべてがつながる統一欲求があるのではとも思えてくる。考えることは愉しい。頭脳労働はわたしの仕事の一部でもある。だがそれをなにか形にして生産しないと、煙のように思考が流れては次の瞬間には消えてしまい、なんだか不毛な気持ちにもなる。急ぎすぎてかたちにすると、自分の思考を裏切ることにもなるため気長に待つことも必要。だけど待ちすぎて完璧を望みすぎても、せっかく溜まった思考の流砂をむだにしてしまう。小さくてもいいから「どう、これ私が作ったのよ」と主張する砂山を作ることが大切。ダ・ヴィンチもこんなことを言っている。「考えているだけでは不充分で、それを口であろうとペンであろうと画筆であろうとノミであろうと、表現してはじめてシエンツァ(知識)になる」。

(December 14, 2009)

Posted by iwaki : 22:42 | Comments (0)


神谷美恵子と前進の日々

神谷美恵子の著書でおもしろい事実を知った。そこに書かれていたのは、安定への欲求と自由への欲求、という人間が抱えるふたつのアンビヴァレントな行動指針に関する一文。噛み砕いて語るなら、人はどうしても生き物として、このふたつの要素を天秤にかけると、ゴロンと怠惰に安定のほうに傾いてしまうよう設計されているのだという。なぜなら「生物の系統発生的な進化の序列のなかで、あとから発生したものほどモロい」という事実があるから。安定への欲求は脳内の旧い皮質で司られ、自由への欲求は大脳皮質でももっとも新しい前頭葉から指示で司られるため、どうしても安定が勝ってしまうのだという。そしてその安定欲が満たされたのちに、はじめて、自由への欲求の枝葉がのびのびと広がっていくのだそうだ。

これはとても納得がいく。精神面であれ、健康面であれ、経済面であれ、人は何かが大きく揺らいでいるときは新しいチャレンジなどとうていできない。バランスを保つので精一杯で少しでもつつかれたらグラついてしまう。「よしここは安定しているぞ」と信じられるベースキャンプがないと、様々な困難が待ち受ける山頂へのルートなど目指せないのだ。ただ、ここにはひとつ落とし穴がある。ここは安心だぞと分かったとたん、その場で毛布にくるまり、ながながと居座ってしまいたくなる思いもたまに出てくるからだ。それはそれで避けねばならない。なぜならいくら食料がふんだんにあるキャンプでも、いつかは物資の底は尽きる。やはり人生は新たな天地をめざして、たえずタフに前進していかなきゃならないようできているのである。

それに、前進するのは苦しくも楽しい。ここ三日ほど「思ったことは全部やる方式」でバシバシ行動する日々をつづけていたら、逆に自分はちょっとネジが足りないんじゃないかと思えるほど、頭がからっぽに清々しくなった。そして予想以上に前進できそうな自分に妙な好奇心が湧いてきた。ところで最近、やや自己啓発的なブログになっていることが我ながら気になる。放っておくと生活がおろそかになり精神に傾いてしまう癖がわたしにはあるので、今後もうすこし、政治や文学や経済などについて学んだ知恵も書きつづっていこうと思う。ちなみにいまは宮台真司さんと福山哲郎さんの共著『民主主義が一度もなかった国・日本』を熟読中。無駄な文がまったくない社会知が詰めこまれた新書。日本で生きる大人として、きちんと信頼にたる基礎知識をかためておきたい。

(December 10, 2009)

Posted by iwaki : 00:23 | Comments (0)


ーーーー

アイルランド大使公邸のパーティに呼ばれていってきた。そこでひとりの男性にあった。知らない人である。彼は一時間あまり自分のことをずっと話していた。とても気持ちがよさそうに話していた。切るに切れなくなってしまった。彼は最後に「ありがとう」といって去っていった。私はなんとも言いようのない寂寞たる気持ちになってしまった。ありがとう、って確かにあなたはそうかもしれない。でもわたしはあなたの何なのさ。こちらの今日という日に、どんなことがあったかも知らない人間にこれだけ無防備に話せるってすごい奴だと思った。でも私はわりとこういう目に会う。どうしようもない男のたわごとにつきあわされる。それを切ることができない。完全な自分の弱さである。怒るという正当な感情、が生み出せるようになるまでには時間がかかるのかもしれない。でも私にはそれが足りない。怒りを論理化できない。すこし支離滅裂なブログです。支離滅裂なときに何かを語るのは危険なので、すこしブログを閉鎖します。書くことが感情的でなくなったら、また再開します。

「理詰めで物事を考えることによって、
 新しい発見をしたことは、私には一度もない」(アインシュタイン)

「幸福が、それを喚び起させた欲望のうえに
 ぴったりと重なることは極めて稀だ」(プルースト)

「理性は公平な判断を下すことを望むが
 怒りは下した判断が公平に見えることを望む」(セネカ)

(December 5,2009)

Posted by iwaki : 00:31 | Comments (0)


お金と人間の主従関係

「デッド・キャット・バウンス」(死んだ猫の跳ね返り)という奇妙なネーミングのアメリカ+ドイツ合同ユニットによるパフォーマンスを観た。これは「金融ドキュメンタリー演劇」とでも名づけられる見世物で、公演当日、その日のボックスオフィスでさばかれたチケット代が、舞台上でネットを通じてすぐさまロンドン証券取引所に投資される。目標は、公演終了までに1%の収益を出すこと。よって観客は1時間半にわたり、株式トレーダーが使用するダイアグラムやグラフの映像とにらめっこ。自分たちが投資した株銘柄が、1ペンスあがれば喜び1ペンスさがれば悲しみ、喜怒哀楽がふんだんに取り込まれた即席ドラマのいっちょあがりというわけだ。

そんなあけすけにお金のことで感情を高ぶらせるなんて、と思われる方もおられるかもしれない。けれど当日、劇場にいた客は誰もが少なからず金に心を乱されれていた。そして引きこもりのような生活を送るデイトレーダーが、一日中いっさい社会と関わりを持たず誰とも口を聞かずに働きながら、運のいい日には「並のサラリーマンの3ヶ月分の給料を稼ぐ」と聞いて、労働の対価として金をもらうという経済システムが完全崩壊していることに怖気を覚える。しかし本当にいったい、お金ってなんなんだろう。

たいがいの人は生活費を稼ぐために仕事をする。でないと、食事をしたり、家賃を払ったり、旅行に行ったり、衣服を購入したり。つまり生活をそれなりに人間らしく送れないからだ。けれどたとえば、ダンナさんが地方に単身赴任をしている夫婦の場合。互いにひとりぼっちはやはり寂しい。じゃあ赴任先でいっしょに住めばいいじゃない、と思う。けれど奥さんも東京に仕事場があったらそうもいかない。こんな事情が、現代ではあたりまえのように存在する。でも本当にこれは「あたりまえ」として看過すべきことなのだろうか。

ショウペンハウエルは「すべて物事を局限するのが幸福になるゆえんである」と説いた。噛み砕いていうなら、できるだけ行動範囲を狭くすることが幸福への早道だよといってるわけだ。現代は情報に溢れている。日本の寒村で暮らす男の子が、インターネットで情報を得てスウェーデンの家具職人を目指すことも可能だ。けれどこのポテンシャルの無限膨張化のすえ、人間関係の物理的距離が遠く離れてしまうことがある。端的な例をあげるなら、このあいだ知りあったオランダ人女性は、3人の子どもたちがそれぞれ、アムステルダムと、東京と、ニューヨークに散らばっていて、パートナーとも離ればなれで月末にだけ会うのだと話していた。「仕事場がそれぞれ別の場所にあるから、しょうがないわよね」。確かにそうだ。仕事は人生の大きな部分を占める。でもこんな話を聞くとたまに、人間はお金によって生活を「コントロールして」いるのか。あるいはお金によって生活を「コントロールされて」いるのか。金と人間の主従関係に、疑問に抱いてしまったりする。お金と権力にコントロールされない生き方を選んでいきたい、とつねづね思う。そして自分の愛する人たちに囲まれて、日々を楽しく過ごしたい。

ところで話は変わるが、最近、日本における輸入チョコレートの物価高に驚かされている。フランスで買うと200円ぐらいの板チョコが日本では480円。単なるスーパーの板チョコが、日本では高級嗜好品だ。この頃、毎日ダークチョコの欠片を味わうことが些細な幸せにつながっているのだが。買うべきか、買わざるべきか。ちいちゃなところでも人は、お金によって悩まされる。ああもう、めいっぱい美味しいチョコが食べたい。

(November 27, 2009)

Posted by iwaki : 14:16 | Comments (0)


NYとアートと七つの大罪

先日、ニューヨーク在住の知人からメールをもらった。現在<PERFORMA>というほぼ無料の巨大パフォーミング・アーツ・フェスティバルが開催中で、毎日、街中のいたる場所がちょっとクレイジーなことになっていて「おもしろい」のだという。少し調べてみたところ、この基礎予算額150万ドルの低コストフェスティバルは伝説的なカリスマ美術史家で、NYの前衛劇場Kitchenのキュレーターとしても名をはせた、ローズリー・ゴールドバーグ女史が04年に立ちあげたビエンナーレ・フェスティバル。11月現在、マンハッタン&ブルックリンで100以上のアーティスト集団が、130以上のプロジェクトを、約80箇所で、2週間にわたって開催しているようだ。そしてニューヨーク在住の彼の情報によるとタイムズスクエアで行われたオープニングイベントでは「アート・リンゼイが50人のトレンチコートを着たダンサーに、携帯音楽でダンスを踊らせた」らしい。ふむ。この情報を聞いたとき、たしかに興味深いフェスティバルではあるのだろうけど、やや状況に懐疑的になった。なんだか少し、本来の意味でのアートとは異なる消費社会の匂いがするのだ。

数日後ーーこのわたしのぼんやりとした懐疑心を、さらに輪をかけて懐疑的にする底抜けな情報を得た。このタイムズスクエアのオープニングイベントに先駆けて「500人のお偉いさんだけを対象にした、会費300ドルのディナー・イベントが行われた」というのだ。しかもそのおもてなしぶりが、暴食で強欲で虚飾で傲慢で、七つの大罪ここに健在ともいうべき酒池肉林ぶり。詳細を語るなら、その宴席ではまず、貨物エレベーターいっぱいに埋め尽くされたアルコールドリンクで客はもてなされ、メインコースにはひとりあたり20000ポンドのバーベキューがふるまわれ、デザートには林檎の木が2本室内に担ぎこまれると同時に、ジェフ・クーンズの風船うさぎを模した巨大チョコレートが登場したという。しかも極めつけには、天井からつねに蜂蜜がたらたらと垂れ流されていたというからーーバカげている。

たとえディナー会費がそのままフェスティバルの運営費にまわされるとはいえ、また国家が芸術支援に熱心な欧州とは異なり、企業や個人資産家から予算投資してもらわなければフェスティバルがきりもりできないとはいえ、果たしてこんな遊蕩ディナーパーティーでお偉いさんをもてなす必要があるのあろうか? 個人的な推論をいうと、数ヶ月前にひさびさにニューヨークに降り立ち街を見てまわったときにも漠然と思ったことなのだけれど……、この街では「アートがファッション化している」ように思えてならない。つまり金がうなるほどある一部資産家が「セレブぶるための道楽」として、アルマーニのドレスやルブタンの靴を入手するのと同じように、アートというステータスシンボルが存在しているように思えてならないのだ。

だからかこのPERFORMAの取材記事も、とても知的でおもしろいプログラムも組まれているものの、どこか「びっくりニュース」的な報道をされていることが多い。NY TIMESの記事でさえ、一部、オモシロちゃんたちがオモシロいことをやってるらしいわよ、という下世話な匂いがドコカする。きちんとアートそのものを、フェスティバルそのものを、アカデミックに真摯に評価している記事というものはあまり目にしない。

そもそもオバマ大統領の専属アートコンサルタントに、女優のサラ・ジェシカ・パーカーとVOGUE編集長のアナ・ウィンターが選出されるような国である。この国では、アートがファッションとして消費されるのではなく、純粋にアートとして思考されるのは、予想以上に難しいのかもしれない。

PERFORMA >> http://www.performa-arts.org/

(November 22, 2009)

Posted by iwaki : 08:18 | Comments (0)


耳たぶと朝靄の孤独

朝だというのにまるで黄昏時のような薄暗い陽がさしこむ異国のアパートで、女は、男の耳の裏を眺めていた。厚くぽってりとした愛嬌のある耳たぶと、生まれたての赤児のようにうっすらと産毛でくるまれた耳殻。静寂の室内に響く厳かな彼の寝息とともに、僅かながらその耳がぷるると振るえる。その臆病なうさぎのような振るえを目にして、女の目には涙が浮かぶ。この愛しい生命とわたしのあいだには腕一本の物理的距離もない。なのにそれに触れることができない。ちくしょう、ちくしょう。なにかくだらない呪文を信じるかのように、女は、相手と自分の呼吸を布団のなかで無心にあわせてみる。吸って吐いて、吸って吐いて。ばからしい。だからといって相手と自分の体があわさるわけではない。声をださずに「さびしい」とぶっきらぼうにつぶやいてみる。その行き場のない言葉は、いまの空気にそぐわぬほど陽気な、亜熱帯な南国果実の匂いのする男の脇下あたりに無残に吸い込まれていく。

眠りたいわけではない。だが、女はふたたび目を閉じて睡眠に身を任せてみようと試みる。そうすることでなにか問題が解決でもするかのように。無意識の闇に逃げこもうとする。けれど両目を閉じても、光の透ける瞼の裏にはつぎつぎと乱雑な思考が擦過するばかり。平穏な眠りは遠のいていく。女の意識が、女自身を決して静寂のなかに落ちつかせてくれない。いや、もっと真剣に、丁寧に、集中力をもって瞼を閉じればこの凍えるような冷たさが身から去ってくれるはずだ。そう思って再度、目頭にぎゅんと力を入れてみる。だがその眉間の無為な努力で得られる成果は、眠りとは真逆のやぶれかぶれな意識の覚醒だけ。なんてサガンのように孤独な朝だろう。と、阿呆みたいにセンチメンタルな言葉を心で漏らす。そのやさきに、なぜか、向こう岸から、なかば無自覚な男の腕が女の肩を引き寄せる。あ。声が漏れる。

その声が、室内にたゆたう朝靄と埃のなかに完全に消えてなくなるまえに。女のうちで、優しい涌き水のようななにかがみちてくる。さきほどまで鋭く痛々しく存在したあの孤独のかわりに、大地のような許容と、それを追う小さな拒絶が、心のなかで揺れうごく。そして女は、強烈に、一心に、まるで子どものように不器用に祈る。これ以上の拒絶はいりません。束の間ののち、温かな受容の海がすべての複雑さを呑みほしてくれますように。

(November 20, 2009)

Posted by iwaki : 23:38 | Comments (0)


基礎練習と検定試験

時差ボケで最も烈しい睡魔に襲われる時間帯に、フランス語検定試験というものを受けてきた。試験なんて十年ぶりぐらい。でもせっかく日々、フランス語に触れる機会が多いのだからこれを機にしっかり身につけてやろうと、嫌いな試験を受けることにしたのだ。いちばんの収穫は、試験に受かる受からないではなく、バットの素振り練習のような基礎練習に打ち込む期間を設けられたこと。つまり、文法や、動詞変換や、基礎単語といった、単純で退屈だけど、とても大切な知識を身につけられたことだと思う。

わたしは天の邪鬼な性格もあって、誰かに教わったり、学校で習ったり、ということをされたとたんに勉強する気が失せてしまう厄介な人間。自分の意志で、やりたいことをやりたいようにやる。それを続けることが、自分にとっていちばん効率がいいということがよくわかってきた。そこでここ数ヶ月ほど、好きなようにフランス語を勉強していたのだけれど、そうするとどうしても即戦力な勉強方法に偏ってしまう。会話をしたいなら、誰かフランス人をつかまえて話す。本を読みたいなら、自分の好きな作家の小説を無鉄砲にも原語で読んでみる。いうなれば、最低限の防具一式も揃わないうちに戦場に出てしまうわけである。

でも、これはやっぱり戦いづらい。ちっぽけなハエ叩きしか持ってないのに、刀剣をもった相手と五分に渡り合おうとするのだからあたりまえだ。で、検定試験一週間前になってはじめて嫌いな文法に手をつけてみる。動詞変換も地道にノートに書き写してみたりする。と、これが意外におもしろい。あっ、このあいだの会話で使ってた、あの単語はこういうふうに書くのね、なんて耳から入ってきた生半可な知識がひとつずつ血肉化していく。

そしてなんであれ基礎練習は大切であることを再認識。わたしはいつも、とりあえず実戦の場に出て痛い目を見て、それで自分の足りないところを後追い的に勉強することが多い。それで、とりかえしのつかない過ちを犯すこともしばしある。だから、もういい大人なんだし、あまり痛い目をみないですむように、もう少し段階を踏んだ勉強方法を試みてみるのもいいかもしれない。

まっすぐ勉強して、まっすぐ知識が身につくのはとても気持ちがよい。
そもそも私は不器用だから、どんなことも、人よりもいっぱい勉強して失敗しないと、
あたりまえのことさえ身につかないのだ。謙虚にこつこつ進んでいこう。

(November 15, 2009)

Posted by iwaki : 20:51 | Comments (0)


帰国、しきる

ロンドンとパリの旅を終えて、これから日本に帰国します。
ここ二年半ほど旅人のような人生を送ってきましたが、
その考えを少しいま見直そうかと考えています。
だから今回は、いちじ帰国ではなく、帰国しきります。
そして腰を据えて、自分の人生になにが必要か見直そうと思います。

海外生活をつづけて、気づいたことは以下のようなこと。
1 どこにいても自分からは逃げられない
2 故郷とは、土地ではなく人のこと
3 日本の利便性と欧州の時間感覚の両方を愛している
4 短期的な刺激物に溺れず、仕事や人間関係を長期的に構築することが好き
5 人は自分と違うものを見ている

ぜんぜん、たいしたことに気づいてない。あたりまえのことばかりです。
とにかく、心に余裕のある女になれるよう努力していこうと思います。

(November 12,2009)

Posted by iwaki : 02:49 | Comments (0)


二年前のロンドン

英国ロイヤルバレエ団の取材にくるのは約二年ぶり。たったの二年という時間だというのに、それがとんでもなく大昔に思える。きのう、同じコヴェントガーデンにある、同じカフェで、同じようにエスプレッソをたのんで考えごとにふけっていたのだけれど。いやはや、二年前の自分はバカみたいに子供だったねぇと、とんまな記憶がよみがえってきて、ひとり阿呆みたいに薄笑いをうかべてしまった。

ただ二年たっても変わらないのは、どうにもこうにも、個人的にこの街が好きになれないということ。どうしても人が、自由に呼吸して生きている印象がしないのだ。それは日本人の不自由さとはまた違う窮屈さ。日本人は、いまめいっぱい自由に呼吸したら「死んでしまうのではないか」と思って、逆に呼吸を止めることでいっそう苦しくなっているような感じを受けるのだけれど。このロンドンの街の人たちは、いっけん自律的に呼吸はしているように見えるのだけれど、そのじつその酸素のすべてが人工呼吸器から送りだされているような印象を受けるのだ。

たとえば経済に関していうなら……時間を金のために切り売りして生きている、いや、切り売りして生きるよう制御されているような恐ろしさを感じる。金を得る手段にはおもに三つ。1)時間を売る方法、2)創造物を売る方法、3)利子で儲ける不労所得の方法。そしてこの街では3の人たちが、1の人たちをコントロールして儲けていて、しかも2のカテゴリーの人たちが自由に生きる空間があまりにもない。だからせっかく、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに現代彫刻家アニッシュ・カプーアの個展を見に行ったりしても、その作品が純芸術的な意味で圧倒的な美しさをたたえているだけに、そのまわりの些細なところで資本家の匂いを嗅ぎつけると、なんとも厭な思いにつつまれたりする。

また、この独特の窮屈さは、長きにわたりキリスト教の宗主国であったという宗教観とも関わるのかもしれない。行きの飛行機で、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、という世界で幅をきかせている三大一神教の本を読んでいたのだけれど。読後、キリスト教原理主義者のもっとも恐ろしいところは「自分はまったく変わらずに、他者を変えようとするところ」にあると感じた。しかもそれを完全なる善行だと思っている。

けれど、もちろんイスラム教のほうでは「別に変えなくてもいいじゃん」と思っている。なぜならイスラム教にはカダル(天命)という考え方があるから。もし神様がすべてイスラム教になるべきだと考えているなら、今の世界はすべてイスラム教になっている。でもそうなっていないということは、それも神様の思し召しであるから。ほかの宗教にも存在意義があるし、それはそれで共存して生きていけばいいじゃないと思っている。

またユダヤ教のほうでも「別に変えなくてもいいじゃん」と思っている。そもそも自分たちは絶対神エホバに選ばれし民で、ユダヤ人ならみな無条件に神に救われるという選民思想があるから。神の息子イエスを崇めるキリスト教徒に手をさしのべてもらわなくても、いっこうに構わないと思っている。

だけど、キリスト教では、たとえばすべてのユダヤ人をエルサレムに集めて改宗させないと「救世主が再臨しない」という不都合な考え方があったりするから。必死にいま米国の福音派クリスチャンたちなどがユダヤ人をイスラエルに集めたりしている。本当はむちゃくちゃエゴイスティックな自分たちの利益のためなのに。善行ぶって親切の手をさしのべている。

話が長くなったけれど、私はロンドンで、このキリスト教的な宗教観と同じうわべの親切心をよく感じる。もちろん心から親切にしてくれる人たちもいる。とくに田舎に行けば大勢いる。けれどもここロンドンでは……、なんだろう、やっぱり、そういう計算高くない素朴な英国人にはあまり遭遇しない。自分たちは絶対に正しくて、相手を変えることで、世界をよりよくする。よりよくしていると思いこんでいる。そういう環境に対する順応性のなさ、力ですべてをねじ伏せようとする態度が、なんとなく、経済システムとはまた別のところで、この街の人々の生き方を窮屈にしているように思えてならない。

私はこの2年で、他人ではなく自分をささやかに変えてみた。
そしたら世界がささやかに変わった。
他人ではなく自分を変えたほうが、世界は早くよくなる。

(November 3, 2009)

Posted by iwaki : 17:59 | Comments (0)


遊び上手は仕事上手

気づいたら今月は二日に一本のペースで原稿を書いている。いくら書くことが好きだからといって、これはやりすぎ。さすがにパソコンに向かうことが億劫になってくる。そして億劫になると文章もろくな代物じゃなくなってくる。それが分かっているので、最近は疲れたらあえて気晴らしをするようにしている。

別にたいしたことをするわけじゃない。部屋にある巨大窓を全開にグータラに半刻ほど昼寝をしたり、まえまえから興味のあった源氏香のワークショップに参加してみたり、豆乳をつかったスムージーをみずから開発してウマイとほくそ笑んだり、デヴィッド・リンチの映画を見返してパトリシア・アークエットの淫靡なおっぱいに同性ながらに惚れぼれしたり。とにかく自分がここちよいと思えるひとり遊びに耽る。そうするとエネルギーが充填されて、さっきまで書いていた原稿にも新鮮な気持ちで向かいなおせる。昔は締切が迫っていると、たとえなにも文章が頭に浮かんでこなくとも「パソコンのまえに座りつづけていなければ」と強迫観念にかられていたけれど。最近は逆に、気分を切り替えて15分でも30分でもいいから真剣に遊んじゃうようにしている。

つまりなにか脳内に、適度な、快楽物質が放たれる行為にいそしむのだ。すると不思議や不思議、爽快なスタートを切ったアルペンスキー競技者のように、すいすいと筆が運びはじめることがある。遊び上手であることは、仕事上手につながる。これは最近のわたしの勝手な仮説だ。

最近ニュースで日本人の年間労働時間は1900時間にものぼると知った。ヨーロッパのそれが平均1300時間なので、その差はなんと600時間! 一日七時間労働だとすると、日本人はヨーロッパ人よりも、約85日分も多く働いていることになる。これは一年の約1/4の日数だ。でも労働時間がただ多いことが、生産性をあげること、あるいは経済を活性化することに、そのままつながるかと考えるとちょっと疑問。最近、会う人会う人、金と時間のなさにちょっぴりヒステリックになっているので「少しぐらい気晴らしに遊んじゃったほうが、気持ちに余裕が出ていいなじゃいの?」とノー天気な私は無責任に考えてしまったりする。まあこれは個人的な意見なので、全員にあてはまるとはもちろん思わないけれど。今日の東京はピーカンの晴天。こんなにお日様がごきげんなときに、カフェテラスでおいしいコーヒーを飲む時間も持てなかったら嫌だな。

(October 27, 2009)

Posted by iwaki : 22:21 | Comments (0)


いまどき大学生雑感

大学生という人種に、ひさびさに接してきた。
主目的はある大学教授を取材するため。そのため四谷にある大学キャンパスを訪れることになったのだが、この取材仕事とは別に、天気もいいことだしキャンパス内をほっつき歩いてみることに。そして観察すること数十分。この大学だけの特徴なのか、いまどき大学生全体にいえることなのか、なかなか興味深い特徴が見えてきた。

まず、男の子と女の子が別々に歩いている子たちが多い。特に男子の二人連れ。男女混合グループというものがあまり見あたらない。また予想外に独りで歩いている子の数も多い。ふーん、なんだか私が大学生だったころとは違うな。昔は、それがいいか悪いかは別にして、もっと大人数で群れているグループとかを目にしたけどなぁ、と不思議な感想をもつ。

観察だけでは好奇心がおさまらなかったので、のちに、キャンパス内の関係者に少し質問をしてみることに。「最近の子たちは、あまり群れないんですか?」すると「いちがいには言えないけれど割とそうかもしれないですね」との曖昧な答。まあ、そりゃそうだ。でもそれじゃ答えとして物足りないので、少しつっこんだ話をすること数十分。「あ、それはおもしろい」と聞いていて思ったのは、現代っ子たちのコミュニケーション法についての分析であった。

まず特徴としてあげられるのは「自分から意見を言う子が少ない」こと。そしてさらにおもしろいのは、意見を求められて意を決してそれを口にすると、その意見が、かんちがいだろうが間違いだろうが「絶対意見として頑なに曲げない子が多い」ということ。つまり、ディスカッションをすることが不得手な子が増加しているのだという。

かくいう私も、あまり人とディスカッションをするのは得意ではない。反対意見を言われると、つい最近までぷんすか頬をふくらまして、ふて腐れたりすることもあった。でもそれじゃ世の中まわっていかない。ということに、最近ようやく気づく。

自分の考えを自分の言葉でつむぎ、しかもそれを相手に届ける。それができないとコミュニケーションは成立しない。なぜなら会話とは、発話者の放つ言葉ではなく、受信者に届く言葉で質が決まるから。とはいえ、これが言うは易しで非常に難しい。私も大学生のときに、下手に頭でっかちな学問をまなぶより、こういうストリートワイズな知恵を積んでいれば、大人になってからもうすこし痛い思いをせずにすんだかもしれないのにと考えてしまう。

つい先日、大女優の草笛光子さんに取材をさせていただいた。そのとき草笛さんが印象深い言葉を語ってくれた。「私は劇作家の菊田一夫先生と、いちばん喧嘩をした女優だと思います。喧嘩をして干されたりもしました。でもそのぶん互いに愛情も深かった」。真っこうから自分の意見を言う喧嘩をして、それでいて後腐れがない。むしろ縁が深まっていく。そんな情の深い昔気質な人間関係に、草笛さんの話を聞いていて、私は密かな憧れを隠せなかった。けれど、いまの大学生たちを見ているとそんな時代が返り咲く可能性は今後も少ないような気がする。

敵味方で対峙するのではなく、考えなしに同調するのでもなく、また醜く自己顕示欲を垂れ流しにするのでもなく、ただまっすぐに気持ちの良い会話がしたい。「会話」をしたい。

(October 15, 2009)

Posted by iwaki : 00:34 | Comments (0)


イニシュマン島の静寂 1

極東から極西へ、アイルランドの西の果て、アラン諸島へ旅してきた。芝生が生える音が聞こえるかと思えるほど静かであり、虚勢や見栄や尊称といった対外的な利益のためにおこる争いごとから無縁に穏やか。ただ人々が太陽が昇ってから沈むまでの時間を丁寧にすごしているだけの僻地の島。否応なく「Living」という単語の意味をあらためて考えさせられざるをえない、純精神的に充実した旅をすごすことができた。さてこの清心な感覚がすっかり自分の身から抜け落ちてしまわぬうちに、文字に書きおこしておこうとおもう。

まずは島の概要から。アラン諸島とは、イニシュモア(モア=大きな島)、イニシュマン(マン=真ん中の島)、イニシュエア(エア=東の島)の三島からなる小島群。「ゲールタクト」という現在ではアイルランドでたった2%しか残存しないゲール語使用地域として有名で、喉の奥で微かにうめくような持続低音を響かせる「グラマハァグットゥ」という鈍色の挨拶があちこちで交わされている。旅の初日に降下したのは、三島のなかでも約160人ともっとも人口の少ないイニシュマン島。本土コネマラ空港からエアー・アランアイランズの小型プロペラ機でたった7分の飛行時間で、「飛ぶ」というよりノミのように「撥ねて落ちる」感覚で岩盤の大地に降りたった。

タラップを降りると、そこには不純物のいっさいない完成された静けさがあった。
目にまばゆい真昼の海の群青色の水光りと、島中に積まれた石垣のあいだを吐息のように吹き抜ける風の音、そしてアイルランド語で「神様の涙」という名を持つ真紅の野花にたかる蜜蜂の羽音。「Silence is Golden(沈黙は金なり)」という警句はここアイルランドが発祥の地だと聞いたが、この島に降りたって、なぜ人々がかほど沈黙に価値を見いだすかが身に浸みてわかった。俗な無駄口を叩くだけで辺りいったいの空気が乱れてしまうのではと思われるほど、島全体をつつむ静寂に清らかさがあるのだ。

その静けさは、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に張りつめる厳格で重厚な静けさとも、都内の漫画喫茶にただよう退屈腐臭と同義の無音とも異なる、軽やかに自然と調和したうえで口を噤んだ賢明な大地。島に降り立ちものの一分で、この静けさを破壊せずに暮らすことが島民の暗黙知のように思えてきた。これはなにも人間だけに言えることではなく、島で飼われる家畜や家禽たちにも同じ知がうかがえた。牛であれ、馬であれ、アヒルであれ、イニシュマンの静謐さのなかでは無駄な言葉を漏らさないのだ。孤独に慣れ親しんだ動物たちは、なにも用がないときにはただ黙る。そして用事を訴えたいときには、人が来るまで単調に控えめに啼きつづける。

たとえば散歩途中にたまたま出逢った一頭のまだら模様の乳牛は、石垣に囲われた放牧地のなかで、五分に一回「オォーイ」と、丘向こうの飼い主になにか不意の事態を訴えるかのように、脳髄が漏れるような大声で定期的に呼び声を張りあげていた。なにかことが起こるかと、こちらも半時間ほど石垣に腰掛け眺め続けていたのだが、飼い主があらわれる気配はなく、されど彼は焦る様子もなく両足を大地にふんばり辛抱強く呼びつづけていた。あるいは、民宿前の電線に朝9時になると定期的に留まりにくる数十羽のコマドリたち。彼らはピーチクパーチクありきたりな鳴き声をいっさいあげることなく、等分に配列され糸を通された美しい首飾りのように横一列にならび、穏やかに日光浴を愉しむかのように数分休息しては去っていった。私は、これほど意志と秩序のある賢い動物たちを目にしたことがない。

どうやらイニシュモアの一日を満喫するためには、まず自分の内面を凪いだ静寂に変えてみせる必要があるようだ。そこからしか体感できない美しい何かがこの島には確実にある。


写真入りの旅行記はこちら >>http://kyokoiwaki.com/ARTicle/

(October 10, 2009)

Posted by iwaki : 01:56 | Comments (0)


アラン諸島と精神美

海と石と蘚苔しかない人口数百人のアラン諸島から、ゴールウェイというこぢんまりとしたアイルランドの町と、イギリスのロンドンを経由して、フランス・パリに文明帰還して今日で二日目。急激な情報量の変化に脳の処理速度がおいつかず眩暈を覚え、サラダ・コンポゼの野菜に死んだ物体の苦味を感じ、自分の五感がいかにアラン諸島で研ぎ澄まされていたかを実感しているしだい。実際、この島ではかつて修道僧たちが自分の身を浄化するために7年ものあいだ孤独に滞在したという。いわば島全体が、体と頭を浄化するためのデトックス禅寺のように機能していたわけだ。

島から文明回帰して、都会の定義、としてまっさきに頭にうかんだこと。それは人が人を信じるのではなく、疑うことが先にたつということだ。人口が増えれば知らぬ顔も増える。不可避的に信頼関係を築くよりも、危険回避が至上命題になるわけだ。だからアラン諸島からフェリーとタクシーを乗り継ぎ、ゴールウェイに足を踏み入れて、監視カメラが設置されていたり、警官が闊歩していたり、また信号が忙しく点滅していたり、……という都会ではあたりまえの日常風景に新鮮な驚きをおぼえた。そうか、人は人を傷つける可能性があるんだ、というアラン諸島ではきれいさっぱり忘れていた「都会モラル」がちくちくと痛む棘を伴いながら体にはいりこんでくる。

島で話をしたパドレイクさん(アイルランド語読みではポーラクさん)という、かつてドゥーン・エンガス(高さ約90メートルの断崖絶壁にある先史時台の砦)という観光名所で働いていた男性の話によると、アラン諸島にも警官の存在はあるもののほとんど仕事はないという。「あえていうなら、ドゥーン・エンガスの石垣の石を、観光客が崖っぷちから海に放り込むのが困ることぐらいだね」。いかにも平和な島である。

人は都会にいくにつれ、社会との摩擦がふえて暴力的になるのかもしれない。
今日はパリの13区で、ヨーロッパ全土の移民問題を改善するためサルコジ政権とまっこう対峙するNGO団体CIMADEの広報関係者に取材をしてきたのだが、彼女は「人を人として扱わないこと。それが暴力の源になる」と語ってくれた。

たしかに人は、たとえちょっとしたことであっても、人に軽視されたり、見下されたり、侮蔑されたりすると、えもいわれぬ怒りを覚える。階級、見栄、名声、地位、といったちっぽけな勲章にすがるために人は人を傷つけるのだ。だが村中の人たちが知り合いのアラン島では、虚勢をはって生きても意味がない。人を拒絶して生きても意味がない。

「人は裸で生まれて、裸で死んでいくの。だから私にとってはどんな人も同じひとりの人間。相手を許容して、一緒に生きていくだけよ」

これは島でいちばんのアランセーターの編み手であるメアリーさんの人生哲学。彼女はこの哲学どおり、自分のセーターショップにシャロン・ストーンがお忍びで付き人と訪れたときにも、まったく同じように対応したという。それどころか、自分のセーターをセレブ自身は実際に手にとりもせず、付き人にすべてをまかせて購入していったため、いままで出逢ったなかでも最も礼儀をわきまえぬ非人間的な人間のひとりだと言いきった。

おそらくシャロン・ストーンは、パパラッチなどに追われる「人を信じられない」都会文明をたずさえたままアラン島に漂着してしまったのだろう。それでは、せかくアラン島を訪れても、この島が二十一世紀において奇跡的にたずさえている疑いのない「精神美」を吸収することができない。都会文明を身に纏ったまま戦利品のようにアランセーターを購入して帰って、それで果たしてアラン島を訪れたと言っていいものだろうか。

いろいろ、まだ頭のなかがごちゃごちゃと整理されていないが。言いたいことは「虚飾にみちたシティ・ライフと人間の暴力性」の関係性について、もっといろいろ考察したいということ。私とまったくかかわりのない場所で今日パリ・コレクションが開幕した、忙しない消費文化の大都市で、もう少しアラン島の時間感覚をたずさえたまま、思考をめぐらせてみたいと思う。

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(September 30, 2009)

Posted by iwaki : 21:19 | Comments (0)


文明からの隔離

原稿執筆に追われるうちに、疲労困憊し、熱に倒れ、なんとか復帰し、明日アイルランドへ。なんとか仕事も片が付いた。とりあえずよかったけれど、わたしは忙しくなると、頭のなかの整理棚が煩雑になり、行動も、会話も、仕事も、しっちゃかめっちゃかになる人間としての無精さがある。今はまさにそんな状態。なので、いったんきちんと、海外に出て頭脳を整理整頓してこようと思う。しかも明日から飛ぶアラン諸島は、そうした行為にはうってつけ。なんとインターネットが民宿ではまったくつながらず、しかも島全体でネットカフェなるものも一軒だけ。日本からもっていく携帯電話も不通状態だという。完全なる情報隔離状態。パソコンを1日とて離せない私としては、かなりの恐怖でもあるけれど。脳をリセットするには最高の環境だ。寂しくなりそうだな。本をいっぱいもっていこう。それでは現代社会のみなさん、一週間、隔離されてきます。

(September 21, 2009)

Posted by iwaki : 22:13 | Comments (0)


不景気駄文

現在の東京の失業率は5%ほど。そんなのたいしたことないじゃん、とこのブログでほんのひと月まえに書いた。だが、その言葉を書いた舌の根も乾かぬうちに真逆のことをいう。すみません。このデータはある面からみると嘘っぱちで、実はとてもたいしたことらしい。

というのもまずこの失業率というものが、よくは知らないのだが、日本では計算的に低く統計が出る仕組みになっているらしい。さらにここには「求職活動をあきらめてしまった人の数」は入らない。また「家事手伝い」といった肩書きの人間を「職がある」と捉えたうえでの計算になっている。だから、この表面的な失業率の影には潜在無職人口が氷山の底岩のように隠れるわけだ。

また失業者でなくとも、ワーキングプアの数は目にみえて(私のまわりでも)増えている。とにかく東京は人件費が安すぎる。一日必死に働いて、それで食えない最低賃金とはいかがなものか。しかも経営者はそれでもバイト代が高いと思うのか、このごろはサービス業の単純労働の多くが機械にとってかわられている。たとえば最近は、無人レジのコンビニやスーパーが徐々に普及していると聞いた。客が自分で商品バーコードを読みとって、自分で金を払って帰るのだ。二年ほどまえにイギリスで、これと同じシステムの、無人スーパーを見たときに恐れおののいた記憶があるけれど。まさかそれと同じシステムが日本でもこれほど早く導入されようとは。スーパーのパートのおばちゃんは、いったいどうやって食っていけばいいのだろう。

今日はいつになく駄文だ。でもあることに腹がたちすぎて、寝るに寝られない。怒り顔で床につくと美貌によくないと聞いた。朝、般若顔で起きるのは嫌なので、とりあえず怒りを活字として吐き出してから睡ろう。

(September 18, 2009)

Posted by iwaki : 00:08 | Comments (0)


先史時台へのトリップ

アイルランド最果ての地におもむくことになった。そのまえに原稿をしこたま書き上げなければならないため、最近、夜睡るころになるともうパソコンを見る眼がしょぼんでくる。気づけばずいぶんブログを書いていない。しかしアイルランドである。そして行く場所は、ダブリンでもコークでもなくちいさなちいさなアラン諸島。最近ではマーティン・マクドナーの戯曲でいちぶ演劇好きの耳にはなじみのある(しかし多くの人にとってはまったく知られていない)、イニシュモア島、イニシュマン島、そしてイニシィア島の、三つの小さな孤島からなる灰色の地を訪れることになる。三島のうちで最もおおきいイニシュモア島でも、人口800人ほど。イニシュマン……にも確かいく予定なのだが、ここはその半分も人影がないと聞いた。要は人より、牛や羊のほうが多いのだ。しかも石灰岩の岩盤でできた大地は、海から落差200メートルの断崖がそそり立つ不毛の地。島民たちはうっすらと地面のうえに敷かれただけの土が、強風で飛ばされてしまわないよう、必死に石垣を築き上げるという。いったい、どれほど未知の文明が残る国なのだろう。先史時台の巨石文化、いまだゲール語を話すケルト人たちの文化、寂しい波音と海藻の匂いと風の叫びにつつまれた吹きっさらしの大自然。期待はふくらむが食べ物はまずいらしい。来週出発。まずは、とりあえず原稿を書き上げねば。

(September 16, 2009)

Posted by iwaki : 01:09 | Comments (0)


ベルヴィーユと寿町

パリ11区、ベルヴィーユ。そこには女性誌などがイメージ戦略的に紹介する麗しのパリとはまったく異次元の、曰わく言いがたい黄土色の濃厚世界が広がる。マグレブ系、アフリカ系、アジア系と種々雑多な肌色の移民たちが路上には溢れかえり、まっぴるまから何もすることがないのか、玄関先やら路上ガードやらベンチやらに、いかにも冴えない男たちが腰掛け何人かでつるんでダベっている。なんだか見覚えのある情景だなぁと記憶の糸をたどると、そうだ、これはまるで家に帰ることから逃避している放課後の中坊そっくりだ。ただ唯一異なるのは、彼らは中坊ではなくいい歳こいた中年だということ。男はいくつになってもなんだかなぁ……と、この街を歩くたびに考えさせられてしまう。と同時に、いくらなんでも日本にはこれほど仕事のない男たちが群れる場所はないよな。日本にはサン・パピエ(労働許可証を持っていない移民の呼称)がここまで大勢いないからなぁ、と考えていた。つい、昨日までは。

そう、私の自国に対しての認識はあまりにも浅かった。昨日、今日と、ある取材で訪れた横浜の寿町。ここは東京の山谷、大阪の釜ヶ崎とならび「日本三大ドヤ街」と言われる場所で、かつては日雇い労働者の町として活気に溢れていた地域。だがいまでは、その半数が60歳以上の高齢者で、8割が生活保護受給者。ほとんどが独身男性で、薄暗いドヤの三畳間にひとりで暮らしている。結果として彼らは、路上をリビングルーム化していく。つまり道ばたに座りこみ、人によっては寝っ転がり、仲間たち数人と昼日中から酒をあおる。400メートルトラック2個分ほどしかない小さな区画に、6500人もの男たちが文字通り肩を並べて暮らし、年間500人もの人間(単純計算でも1日ひとり以上)が部屋で孤独死していくのだ。案内人をつとめてくれたある男性はこの町にきて「死体の匂いが識別できるようになった」とつぶやく。救急車もあまりに日常茶飯事なことのため、この町にだけはサイレンの音を消して進入してくる。取材時にも、ふと気づけば背後数メートルに救急車が。音もなくひたひたと進入してくる救急車とは、なんと冷たく恐ろしいものかと肌が震えた。

だが予想外に町のおっちゃんたちは、表面的には穏やかで機嫌がいい。余所者な私にも「おっ、なんだ寿町見学会か」「おねえちゃん、どこかの役所の人?」と話しかけてくる。おじさんたちが普通に暮らすドヤも覗かせてもらったが、思ったよりも廊下や共同キッチンは清潔に保たれていて、挨拶をしてくるような丁寧な方もいる。ただ日が暮れて夜ともなると話は別で、そこらで嬌声を発する人、小競りあいを始める人、また袖口から立派な彫り物をのぞかせて歩くお兄さんの姿もちらほら。「夜はひとりで歩かないほうがいいですね」。そう案内人の男性に告げると、まだ月初めだから今はいいほうですよ。飲み代が底をつきたころ、月も半ばを過ぎたころに来ると、呑み屋からあぶれたおっさんたちが路上にうようよしていますから、という返答。孤独をまぎらわすために、多くの人は酒に逃げるのだ。だがそんな中でも、愛らしいミニチュアプードルなどのペットと暮らし気持ちを保つおじさんもいるし。また外部からボランティアでやってくる英会話教師のレッスンに参加する前向きな人たちもいる。ここ数年、寿町のドヤ街が、外国人バックパッカーの常宿として機能しはじめていることもあり英語を習う人々が増えているようだ。

さて、最後にこの寿町の物価についてお伝えしたい。ほとんどの人が月13万ほどの生活保護で暮らしているだけであって、この町の価格破壊はとんでもない。たとえば韓国系の人間が経営するちいちゃな食料品店を覗けば、一食分の食費がだいたい300円ほど。五分刈りならぬ「五厘刈り」を売りものにする床屋の価格は1200円。そして極めつけは自販機の缶コーヒー50円也。この町に来てPASMOの電子マネーで、缶コーヒーを買おうとした私がバカだった。パリとはまた別の理由で、職に困る人々が日本にも大勢いる。まだ私の知らない未知の世界が、国内にもいっぱいある。横浜市の行政は「臭いものには蓋」の感覚で寿町のことにはほとんどノータッチだそうだが、そんなときこそ、私のようななんの身分もない素浪人ブン屋がきちんと現状を伝えるべきだと思った。

(September 4,2009)

Posted by iwaki : 01:22 | Comments (0)


学習の花を咲かせる

南仏アヴィニヨンの町で、からっきし英語が通じなかった。そこで当座のまにあわせとして、私のむちゃなフランス語で日々をのりきることに。あたりまえだが言外のニュアンスというものが会話からどんどん抜け落ちてゆき、些細な齟齬から日本人に対するよくない誤解を招くことに。あまりにも悔しくて情けなくて、ちくしょう、次に来るときまでにはフランス語を絶対にマスターしてやると歯ぎしりしながら強く決意。帰国後、鉄は熱いうちに打て、とすぐさま行動を開始した。

そして現在ーー性格的に生真面目すぎてヨーロッパ人のノリがあわず「日本に逃避してきたの」と語るスイス人女性との対面式レッスンと、マルセイユ近郊の田舎町で「毎朝起床と同時に愛馬にまたがり遠乗りに出る」と笑う有閑マダムとの週2回のスカイプレッスンをはじめている。これが本当に楽しい。進歩が実感できて嬉しい。自分で言うのもなんだが、やはり学習というものは明解な目的があると上達も早い。また、もっと広く深く探求したいという欲もおのずと生まれてくる。そしてなんであれ、学習ではこの「欲望の錨」をがっしりと出発点におろすことからすべてがはじまるように思う。

話は飛ぶが、最近無謀にも、ダンテの『神曲』についての解説文をフランス語で読み進めている。とはいえもちろん、第一線の学者が発表している超高度な研究論文ではなく、私のフランス語力でもぎりぎり太刀打ちできるリセの生徒のために書かれた解説文。で、これがべらぼうにおもしろい。なにがおもしろいって、もちろんフランス語の知らない単語をぐんぐん学べるという愉悦もあるのだが、それ以上に、向こうの十代の学生さんの「学習方法」が把握できておもしろい。そこに提示されている学習スタンスは、あきらかに日本のそれとは異なるもの。テキストに書かれている文章が、すでに一方通行ではなく双方向性というか。つまり日本のように教師が生徒にただただ一方的に教え込むために書かれたテキストではなく、教師と生徒が会話を交わし子供たちの学習の「欲」を触発するように書かれているものなのだ。具体例をあげるなら、たとえば次のような質問が生徒には投げかけられる。

「ダンテの神曲『煉獄篇』では当時実在した、作家、画家、詩人、役人、政治家、などが数多く登場します。なぜダンテが彼らを煉獄におとしいれたのか考えなさい。またその同じ考えに沿って、現在あなたが知っている有名人のなかで誰が煉獄に落ちるかを考えなさい」

ね、おもしろい。私はこの一問だけで、三時間は思索的に贅沢な時間がすごせる。煉獄について考えたいという、学習の「欲」がむくむくと湧いてくる。黒縁メガネの無表情な先生に「煉獄とはこういうものですから、試験前に覚えるように」と、淡々と定義だけを教え込まれるのとはあきらかに異なる次元の学習がここには存在する。

ある脳科学者によると、学習は、インプットではなくアウトプットされたときに、最大限の効果を発揮するという。またかのベンジャミン・フランクリンも「知識は実行されたときに、はじめて力となる」と語っている。いま私は身をもって、これらの言葉は正しいと言いたい。またさらに、根に強い「欲」をもつ学習は大輪の花を咲かす、とちょっとカッコ良くつけくわえたい。

(September 1, 2009)

Posted by iwaki : 01:01 | Comments (0)


男女の俗説を論証する

「男ってもんはさぁ」「女って本当にさぁ」。
町のカフェや居酒屋でいつ終わるともなく繰り返される男女論。こうした愚痴話を耳にするたびに、最近、私のなかではあるひとつの欲望がむくむくと湧いてくる。確かに男と女は違う。思考方法も、行動指針も、現実の切り取り方もすべて違う。じゃあ、なんで。その「なんで」の部分を、男女の居酒屋レベルの俗説に終わらせるのでなく、あえてアカデミックに追求してみたい。せっかくみんな必死になって男女の溝についての会話を交わすのだから、それをもう少し体系立てて説明できたら、よりおもしろいんじゃないのか。そんな知的好奇心が否応なく湧いてきて、最近の私は、時間が許す限りさまざまな視点からの男女論を読み漁り中。自分としても切迫した衝動からはじめたことなので、みるみる知識が知恵となって体に染みこんでいく。

そんななか、あるユング心理学の本で非常に興味深い一文に出逢った。ユングさんは、男女間には生まれながらにして身体的な差違があるのと同様に、精神面でも生まれながらにして違いがあると説いた人。男女平等を訴えるフェミニストたちから、いっせいに噛みつかれそうな論理だが、私は彼の考えは間違っていないように思う。以下に、その一文を抜粋。

<女性の意識的態度は、一般的に男性のそれにくらべてはるかに個人的である。女性の世界は、父親と母親、兄弟と姉妹、夫と子どもたちから成っている。(略)本質的には自分自身にしか興味をもっていない。男性の世界は、民族であり、国家であり、利益コンツェルンなどである。家族は単に目的のための手段、国家の基礎のひとつにすぎない。妻は必ずしもその女性でなければならないわけではない。普遍的なものの方が男性にとっては、個人的なものよりも切実な問題である。>

なんだか、観念的すぎて「よくわからない」という人もいるかもしれないので、具体例をあげて少し補足。たとえばある年若い男女が、それぞれの将来のヴィジョンについての言葉を交わしているとする。だがこのとき言葉は交わされていても、言葉が共有されることは(皆無とはいわないが)めったにない。なぜならユングが言うように男は社会的で、女は個人的な生き物だから。おそらくこのとき男性側は「仕事で昇進したい」「自己実現を果たしたい」「社会で存在を認めさせたい」といった”一人称で社会とどう対峙するか”といった能動的な欲求を多く口にするはずで、逆に女性側は「愛する人と一緒にいたい」「友人との時間を増やしたい」「仕事場で楽しくすごしたい」といった”一人称と社会をどう融合させるか”といった許容的な欲求を多く語るはずだ。

もちろん、これは一般論なのですべての人に当てはまるとは言わない。でも私が個人的に会う機会のあった身のまわりの人々、大学教授、大学院生、大学生、アーティスト、サラリーマン、自由業者、フリーターの、男女を思い浮かべてみると……、かなりの確率でこの一般論があてはまることに恐ろしさを覚える。ちなみに私自身は、女性的な個人レベルの欲求が基底にありながら、厄介なことに、男性的な社会レベルの欲求も少なからずある人間。だからすべての話を「家族」や「子供」や「自分」に収束させ、しかもその道徳観を無自覚に聖化する女性に会うと腹の底からイラッとするし(大人げなくてすみません)、逆に自分を社会に役立てるミッションを掲げて生きなければ絶対に人として美しくないと鼻息を荒くする男性に会ってもドードーといさめたくなる。難儀な性格だ。

でもいずれにしろ、男も女も自分の世界の見方こそが絶対善だと思わないこと。互いに白とも黒ともつかない不確かな余白を持って接することによって、はじめて対等なコミュニケーションが生まれてくる。私は、さも真実のすべてを握っているようなしたり顔で語る人、常套句やブルジョワの良識を疑いもなくふりかざす人、広いオフィスで7時間働いてそれだけで自信満々に生きている人が、嫌いだ。自分を愛していられるだけの自信を崩さぬことは大切だけれど、自信を持つことで自分を育む謙虚さを失う危険があることも忘れてはならない。今後は自戒の念もこめて、私は女である時点で、ある種のバイアスがかかった世界しか切り取れていないことを考えながら生きていきたい。

(August 28, 2009)

Posted by iwaki : 23:32 | Comments (0)


博多商人の街は健在

天災と同じくらい早起きを嫌悪する私が、朝7時という残酷なフライト時間に打ち勝って、久しぶりに福岡空港に降り立った。まあ朝いちの仕事なので致し方ない。だが開始時刻が早かったため、午後に少し時間があくことに。昼寝をするのももったいないので、少し街の様子を見てまわることにした。すると、ふと気づいたことがいくつか。

まず異常に多くの質屋の看板が目に飛びこんでくる。しかもシャネルやグッチといった超一流ブランドよりもやや価格帯が下の、伊勢丹系のブランドを扱う若者層がターゲットの質屋。それらがいっけん代官山にあるセレクトショップのような風情を装い表通りに軒を並べている。これはどういうことなのか。今日は折しも都合よく多くの二十代男女と話す機会に恵まれたので、さっそくその理由を事情聴取してみた。すると面白い回答が。彼らの世代にとっては質屋にいくことは、さほど後ろめたいことでも、日常から遠いことでもなく、普通にあまり使用しないヴィトンの鞄や、マーク・ジェイコブスの靴や、ギャルソンのシャツなどを、換金しにいくコンビニエントな場なのだという。使わないものは価値が落ちないうちに売りさばく。さすが博多商人の街。商売っ気がいまの若者にまで難なく浸透している。もしかすると、ある面では消費の回転率が東京より早いのかもしれない。

もうひとつ気づいた発見は、人と人とが「対面で会う」ことに絶対的な価値を見いだしていること。とりあえず「何か一緒にやろう」となったら、電話やパソコン上でのやりとりはさほど信用せず、まずはなにをさておき直接会う。できれば酒を酌み交わしながら会う。そして相手が発言する内容云々以上に、やる気や覇気や男気を買ったぞ、となったときにはじめて実際のプロジェクトが動きだす。だから今日会った若者たち数十名も予想以上にアナログで、ネット上でコミュニケーションが完結してしまうような仕事は「信頼できなくて怖い」という発言が頻発していた。私なんて最近では、発注相手の顔も見ない声も聞かないで原稿を請け負うこともしばしば。それを彼らに伝えたら、異星人を見るような目で驚かれた。ちなみに本日の個人統計によると、福岡でのiPHONE使用率は二十代の若者11人中ひとり。Googleで検索以上のことができることを知っている人は11人中2人。SKYPEを知っている人はゼロ。私のほうが驚いた。

(August 24, 2009)

Posted by iwaki : 00:39 | Comments (0)


精神的な受動態からの脱出

夏バテの疲れからか思考が断片化して、きちんとまとまった文章が頭から出てこない。そんな今日このごろ。机に向かうのが億劫でしょうがない。ただこれはここ数年来の文筆家業で確立された教訓なのだが、どんなときでも、どんな状態のときでも、とりあえずなんとか頑張ろうと試みてみる。最初の一文をひねり出してやろうと努力する。で、この苦しいときの頑張りが、文章のアベレージをあげていくコツではないかと思う。気分が向いたときだけ、風の吹くまま気のむくままに、なにかに取り組んでいるのでは趣味の域を出ない。

思考力が絶好調のとき、体調が絶好調のとき、環境的に最適なとき、諸条件が整ったとき。そうやっていろいろ自分に条件づけしていくと、身動きがとれなくなってしまう。また苦しいときには休んでいい、というルールづけを自分でしてしまうと限界値がなかなかあがっていかない。昔、十年ほど、踊りをならっていたときにもこれと同じルールがややあてはまったのだが、身体が重いな、やる気が持てないな、と思ったときでもとりあえずレッスンに向かう。そうすると、体調が悪いときの悪いときなりの是正方法が分かってくる。しかも努力をすることが習慣化されていって、特に努力が苦ではなくなっていく。むしろ日々の自分を定点観測することが、生活にリズムを与え楽しくなっていったりもする。

ここ数年ほど私は、精神的に、気分の赴くままな生き方をしてきた。行動面では、人に気づかされることもあり、それ以前よりかなり能動的になれていたのだが(そしてその変化が自分でもとても嬉しかったのだが)ーー「精神的な受動態」は抜け切れていなかった。だから日々の努力が蓄積していかない感覚があって、ものすごい不毛感に襲われたりもした。つまり行動しても行動しても、それが自分の精神的な軸に沿ったものなのかどうか今ひとつ確信が持てなかったのだ。だから文章を書きながら、資料集めをしなきゃと思い、資料集めをしながら、次の旅取材のアポイントを入れなきゃと思い、アポイント入れをしながら、もっと図書館で勉強しなきゃと思う。つねに自分のなかで、いろんな人間が、口々にやりたいことを気分の赴くままに発言するのだ。これはカオスだ。

ただ考えてみると私はこうしたカオス状態と秩序状態を、数年ごとに、行き来する傾向があるように思う。カオス状態でいちど自分の価値観をできるかぎりフラットにのして、そのあと新たな秩序を作る。そして、その新たな秩序で意図的なリズムを刻み始める。私はいまちょうど、この端境期にいる。だから夏バテのせいで思考が分断されると冒頭で言ったけれど、それだけでなく、根本的にまだ新たな自分の思考体系をまとめきれていない面がある。

でもそれでも日々とりあえず、ペンは持つ。すると文章が自分の鏡になる。自分がどれだけ乱れているか、軌道からずれているか、秩序をとりもどしてきているかを、活字が教えてくれる。なにかひとつのことを続けるというのは時には苦しいことだけど、不安な自分を安定さえてくれる人生の支柱にもなる。そうしたものを、ひとつでも手放さずに持ち続けることはいいことだ。だから今日も私は机に向かう。打率1割5分の体調だとたとえわかっていても闘わねば。

(August 21, 2009)

Posted by iwaki : 01:27 | Comments (0)


家族と彼氏とプティタミ

明治末頃から日本には「家族あわせ」というカルタ遊びがあった。一家族、各四枚。トランプのように対戦者数人と車座となり、札を配布し、隣人に見られぬよう手元で持ち札を確認する。そして「山井さん家のお母さんをください」「ありません」「民尾さん家の息子さんをください」「はい、どうぞ」と、淡々と家族を交換していく。勝敗は、誰よりも早く同じ苗字の父・母・娘・息子の札を手元に集めることで決まる。四人揃えば「一丁あがり」。実に素朴な子供遊びだ。

学生時分、私は、裏千家の分家筋にあたるという、ある立派な門構えの友人宅でいちどこの遊びを体験させてもらったことがある。夏のさなか。降りしきる蝉しぐれ。茜色にくれなずむ美しい空を縁側の向こうに見上げながら淡々と札をきる。お母さんをください。お父さんをください。最初は物珍しさからこの遊びを楽しんでいたものの、なんだか途中から、そうした言葉を発すること自体が不気味に思えてきた。父、母、娘、息子。一家そろえば、それであがり。きちんとあるべき札が揃わないと「一家」として認めない。きちんとした家族であらなければ世間様になにを言われるかわからない。そんな個人よりも世間体を気にする実に日本的な心裡を、端的にこの子供遊びがあらわしているように思え、私は途中で札を投げ出し離れの手水場に逃げてしまった。自分が幸せだと思うなら娘4人で「あがり」でもいいじゃない。あるいは、友人4人、男1人に愛人3人、老人1人に犬3匹、なんて「あがり」があってもいいじゃない。そんなセンチメンタル・リベラリストな女心を根に持つ私には、かなり堪える遊びだった。

さて最近、そんな心の奥にしまい込まれていた記憶がふと蘇る事件にたてつづけに遭遇した。まずはある二十代後半の男性。彼は優秀な四大を卒業し、働きながら暇を見つけては勉学に励み、毎年司法試験を受けている。だが彼は真面目すぎて、視野が狭くなりすぎてしまうことが玉に瑕。このところ彼女がいないことに非常に引け目を感じているらしく、試験に自分が受からないのは「彼女がいないからだ」と突然告白してきた。いい年をして彼女がいないから、俺は勉強に身が入らないんだ。私には、まったく理解不能な価値観で唖然としてしまった。

また、ある三十代前半の学歴の高いインテリ女性。彼女は数ヶ月前に「婚活」というものに目覚め、以後、月に何人もの男性と食事を繰り返していた。そして最近、努力の甲斐あって、ある方とお付き合いを開始。それは良かったと、私も朗報に心をなでおろしていたところだったが、数週間後、彼女からの怒りの電話が鳴り響いた。「聞いてよ、あの人ったら私の彼氏なのに、私の誕生日にプレゼントをくれなかったのよ。別れようと思うわ」。いったい彼女は三十年も生きてきて「彼氏」というものに、どんな定義をほどこしてきたのか。誕生日を忘れると、プレゼントをくれないと、一人前の彼氏にはなれないのか。おそらく彼女は彼を愛しているのではなく、彼氏という「札」が欲しかっただけなのだろう。自分の常識こそが正義であるという、視野狭窄なエゴイズムが見えて哀しくなった。

蛇足だが、フランスでは恋人のことを「mon petite ami」モン・プティタミという。直訳するなら、私の小さな友達。日本の「彼氏」にあたる単語はないと地元の大学生に聞いた。(もちろんMon amourモン・アムールという単語を選ぶ、一部情熱的な人たちもいるけれど)。と同時に、フランス語では「mon ami」モン・アミといえば親友、「un copain」アン・コパンといえば友達、「un pot」といえばスラングで壺のなかにいっしょくたに入れるような不特定多数の友人のことを指すという。友達にも淡彩画のような微妙な色分けがある、というこの発見が実におもしろかった。と同時にそれに輪をかけて、そのグラデーションの濃淡の一部に恋人が取り入れられていることが興味深かった。恋人を人間関係の別枠にカテゴライズするのではなく、いちばん今のところ濃密な関係性を持っている友人として位置づける。つまりフランスでは「友達」の札が、あるとき「恋人」の札にもなりうるわけで。その逆も、またしかり。愛は束縛ではない、というルールをきちんと心得ているのだ。おそらくこの国の人々に「家族あわせ」の話をしたら、目を剥いて驚くことだろう。

*人に指摘されたので追記。フランス語でも「mon cheri」という「彼氏、彼女」にあたる言葉があるそうです。失礼しました。

(August 13,2009)

Posted by iwaki : 02:33 | Comments (0)


集団失業ヒステリー

アヴィニヨンとパリでぼやぼやして、日本に帰国して一週間。ぼんやり思うことがいろいろ。まずなぜみんなこんな必死に働いているのに、誰もが明日に対する不安を抱えて生きているのか。

たしかに今は不景気だけれど、日本の完全失業率はいまだ5.4%。イタリアの友人の情報によると、イタリアには絶対貧困相といものが15%ほどいて、それを除外してもシチリアなどでは30%ほどが失業者だという。他、ついでにユーロ圏のデータを少し調べてみると、スペインが18.1%、フランスが8.9%、ドイツが7.7%。いずれも日本より失業者率が高い。にも関わらず、日本ほど逼迫した風情はあまり日常生活からは感じられない。なぜか。これは憶測にすぎないが、欧州では、金がないならないなりの幸せというものが存在する気がする。パリには、そういう貧乏集団が群れて茶をするダメカフェが至るところに存在する。彼らは朝な夕なに何をするわけでもなく、そのカフェで何かを話している。

日本にもかつては、貧しくも満たされた生き方というものがあったと年上世代の人々は言う。それが本当がどうかはもう少し調査が必要だが、いずれにしろ今は金をあるていど持って生きていないと「落伍者」の判を押され友人知人さえも失いかねない社会状況にある気がする。つまりいま失業率の上がり下がりに一喜一憂している人々は、金を失うこと以上に、社会生活から暗に「破門」されることを精神的に恐れているように思える。

特に私の目から見ると、親にある程度収入があり、四大を卒業してそれなりの教育を受けた、中流階級の子供たちが必死の形相だ。ある程度の生活水準を与えられて生きてきたからこそ、それを失いたくない恐怖から、表だってはきれいごとを装った、でも隙あらば他者を陥れてやろうというがめつさを身につけている。最近、久々に同年代のエリートサラリーマンの友人に会う機会があり驚いたのだが、彼は全身バーニーズの服に身を包み「勝者」を自己演出しつつ、「いかに時代の先を読むか」「いかに市場をコントロールしていくか」という論をとうとうと笑顔で続けたのちに、そういうことができないやつは死んじゃうよね、とピザの最後の一切れを口に入れながら締めくくった。

別に私は彼に日本の経済状況を語ってくれと頼んだわけではない。にも関わらず、口をついてそうした話題が出てきてしまう。おそらく「不況」というものが自分や同僚たちの「共通敵」になっていて、かつて学校でひとりの子を標的にしてイジメを繰り返しストレスを発散したように、その共通敵を語ることで日々の鬱憤を晴らしているのだと思う。ただ彼がその会話を心から楽しんでいるかというと、そうとはまったく思えない。五年前には見られなかった癖、守銭奴のように懐疑的に目を見開き、まぶたを神経質にしばたたかせる癖が気になった。

確かに生きやすい時代ではないし、確かに未来を読まなければ生き延びていけない。でも、つねに周囲に戦々恐々となり、全方位にマシンガンを撃ち続けていなければ、背後から刺されて死んでしまうかも、という恐怖に追い立てられて生きるのは苦しすぎる。どうだろう。全員で一斉にその恐怖感を脱ぎ捨ててみては。いったん武装解除して全員で休息してみては。いまの日本は集団ヒステリーのように、次なる何かを作らねば、新たな市場を開拓せねば、と躍起になりすぎて、グルグルグルグル、回転車のうえを無目的に走り続けるハムスターのよう。ものすごく疲れる。「生きる」ということの本質は、私は女だからそう思うのかもしれないが、絶対に戦うことにはない。

ちなみに8月は東京郊外にログハウスの一軒家を借りることにしました。友人知人で遊びに来たいかたは、ご連絡ください。

Sorry, forgot to write in English also. I have decided to rent a log cabin in the outskirts of Tokyo in August. Those of you friends who want to come visit and chat, call me.

(August 4, 2009)

Posted by iwaki : 01:08 | Comments (0)


Avignon Report ナチェラ・ベラーザ / Le Cri

先日のブログでも発表したように、以下のような内容の記事を、別サイトで書きはじめました。お時間のあるかたは是非、覗いて見てください。

アヴィニヨンの街が気怠さに呑まれる午後三時。さらさらとプラタナスの葉を揺らすローヌ川からの涼風がぱたりとやむ。その風の音にかわり耳に届くのは、日本のそれよりもオクターヴ高いどこか乾いた蝉しぐれ。背後からは白色光線を放つ南仏の巨大な太陽が重石のようにのしかかってくるーー。
「いま外を歩くなんて殺人行為だね」。そうアヴィニヨンの地元人たちが観光客をカラカラと嘲笑する太陽との闘いのような時刻。人も犬も猫も多くは午睡にまどろみ街中はどこか閑散とする。そんなさなか、蟻の巣のように入りくんだ路地を抜けた先にある小さな教会前には、時刻にそぐわぬ黒山の人だかりができていた。チャペル・デ・ペニタン・ブラン。入口を見上げれば跪き祈る二人のペニタンブランたち。かつてフィレンツェからやってきたと言われる「白い衣服の教団者たち」の姿が描かれている。だが太陽を罵倒するような大声で「イル・フェ・ショー、イル・フェ・ショー(暑い、暑い)」と叫びながら居並ぶ無数の人たちは別に、ここに懺悔を告解しにきているわけではない。そもそもこの教会は、この街の至るところにある他の多くの教会と同様、その本来の機能を数十年前になくしている。そうではなくこの汗みどろな人々は今日ここに、ある年若いムスリム女性によるダンス公演を観にきたのだ。

つづきはこちらから >> http://kyokoiwaki.com/ARTicle/archives/195

(July 29, 2009)

Posted by iwaki : 01:21 | Comments (0)


アヴィニヨン

アヴィニヨン初日。南仏特有のてっぺんから炙りつけるような太陽の日差しに、心と体がいっぺんになえて脱水症状を起こしそう。カフェでオーダーするカラフ・ドー(飲み水のたっぷりと入った瓶)も、ひとりでみるみる飲み干してしまう。複雑に入り組んだ小道を攻略すべく午前中から散策していたのだが、1時間も歩くと、玉の汗がじっとり浮き出るまもなく体の水分が蒸発していく。ジワジワと追い詰められるような日本の湿気にみちた夏とはまた別の、太陽との一騎打ちのような夏がここにはある。

話は変わって、まえのブログで告知していたウェブマガジンのベータ版がようやく完成。
プログラミングを大学時代に挫折した私が、なんとか自力で形にした途方もないうれしさ! 

以下からウェブサイトへリンクを張っています。
ブログの粗雑な口調とは異なる、言葉としての美しさを保った、きちっと商品としてなりたつ文章を掲載していきます。
Kyoko Iwaki's ARTicle >> http://kyokoiwaki.com/ARTicle/

アヴィニヨンの観劇記も随時掲載予定。まずは初日にみたナチェラ・ベラーザの「ル・クリ」について近日中にアップ予定。

(July 22, 2009)

Posted by iwaki : 02:40 | Comments (0)


自分でウェブマガジン

出版不況でたてつづけに雑誌が休刊においこまれている。私が執筆している雑誌もマリ・クレールにはじまり、スタジオボイス、エスクアイア、などの良質な雑誌が書店からなくなってしまった。また存続している雑誌にしても、不況のあおりを受けて、「最大公約数」な読者に訴求する記事、つまりパイの大きな顧客を狙った一般向け記事を書くよう求めてくることが多い。舞台芸術でいうなら、ミュージカルや大規模商業演劇の紹介、あるいは芸能人役者のインタビューなどがそれにあたる。これも仕事の一部なので、もちろん興味が向けば快くお受けする。だがこうした記事ばかりになってしまうと、どうにも片手落ちでつまらない。仕事は仕事としてきちんと丁寧にこなしつつ、書きたいことをもっと欲望のままに書きたい。そんなワガママな思いがどんどんつのる。ならば! と、自分でウェブマガジン的な執筆場所をもうけてみることにした。シアター、アート、旅、恋愛、また自分の刺激アンテナにひっかかった人間へのインタビュー記事などを勝手きままに載せていこうと思っている。「有名役者めあてに行ったらぜんぜん面白くなかった」「高いチケット代を払って3時間のエゴにつきあわされた」。よく、そんなシアターアーツへの苦情を友人知人から受ける。そのたびに、心ない提灯記事を載せてしまう雑誌があることを嘆かわしく感じてしまう。情報が過剰氾濫する今だからこそ、情報にもクオリティが求められる。情報のセレクトショップのようにいいものだけを品質重視でお届けしたい。オープン時には、ここでまたアナウンス予定。是非みなさん、このブログともどもよろしくお願いします。

(July 9, 2009)

Posted by iwaki : 01:38 | Comments (0)


学生宣言

人生で初めて本格的に勉強に励んでいる。これはもう本気で。毎日、受験勉強のようなカリキュラムを組んで勉強している。私はわりと一直線に、無駄なく、最低限の労力で、ミッションを達成するために最短距離を突っ走ってきた。それこそ人間ナビのように、目標を立てたら役に立たないと思える時間と行動はすべて切ってきた。それで友人もずいぶんなくした。でも上辺だけでミッションを成功しても、なんとも中身がすっからかんで空しくなることを数年前に唖然とするほど体感した。愛するもののために余裕のある時間を費やせない人間は、世界そのものを愛せないのだということをそのとき知った。

あたらしく連載を担当させてもらうことになった夏木マリさんもおっしゃっていたけれど、私も、テクニックや才能はないくせに夢だけがデカイ人間だ。だからとても苦しくなるのだけど、苦しくウンウン唸っているだけでは、なにも生まれてきやしない。むしろウンウンが自分の身体のなかにどんよりと溜まっていってドンドン苦しくなる。なので、ウンウンは撤廃して、コツコツ地味に励むことにした。ジュウネンかかろうがニジュウネンかかろうが、無数にある夢をひとつずつ達成していくつもりである。

でもこれが、なかなか爽快で楽しい。「体育」なんてカリキュラムを入れて、ジムに行って走ったり踊ったり。「フランス語」の時間を設けて、記憶力が最もあがるという就寝前に呪文のごとく異国語を唱えたり。あるいは「経済補習」なんて日を決めて、一日中、私の偏差値25な経済リテラシーをあげるべく本とにらめっこしたり。でも何より長距離走者の持久力を持って勉強しつづけたいのは、私の専業であるアートについて。これはもう、いくら勉強してもしたりない。もちろん、すべてがすべて前向きに臨めるほど面白い内容ではないけれど(私は歴史とか古典とか、昔の知識をただ単にインプットするのがとても嫌いだ)、仕事の勉強をするのはプロとしての義務である。ちょっと前までは、オタクのように家に閉じこもって本とにらめっこをしているだけでは、完全なるディレッタントにはなれたとしても、何もアウトプットせず世界に働きかけないのだから「不誠実だ」と頭ごなしに思っていたけれど。よくよく考えてみれば、いや考えてみるまでもなく、きちんと努力と労力と金銭的投資を費やしたインプットのないアウトプットほど不誠実なものはないのである。だからもう、いま私は黄色い帽子をかぶりたての小学生のように知的好奇心にあふれている。そうして、自分の書き手としてのフィールドを、いつか、マリアナ海溝のように深めると同時にゴビ砂漠のように広げたい。広めたうえで深める。それが私のいまの合言葉。

こんなことブログに書いても他人からしたら「勝手にやってね」という話だろうけど。私はとても弱っちい人間なので、公の場で宣言することで、やめるにやめられない状況を自分に強いたいのである。だから私はブログに書く。学生宣言を書く。

(June 29, 2009)

Posted by iwaki : 13:27 | Comments (0)


情報センサーを磨く

ハッフィントン・ポスト紙のニコ・ピトニー記者が、アフマディネジャド大統領再選後のイランの騒乱関連ニュースを不眠不休のタイムラインでウェブ上にアップしている。今では多くの全米ネット局が彼のライブ・ブロギング記事を情報源にしてニュースを流している。バシジ(強硬派民兵組織)による暴力的なデモ弾圧や、ネダという少女が狙撃兵に心臓を打ち抜かれて死んだ事実も、私はニコの記事でいち早く知った。最近はこうしたデータソースのはっきりとした「生素材」な情報に触れることが少ない。それこそぐうたらな自分が頭をもたげてくると、テレビや雑誌で事足りてしまう二流情報だけで日常が埋めつくされていく。でもそれはとても怖いことだし、そもそも自分の生きている現実社会に対してあまりに無責任すぎる。自分なりに情報の選択肢を広げ、そのなかから必要なものを選びとっていく。そして、できることならそこにひとつのロジックを通して、自分のなかで未来につながる仮説を生み出していく。収集→判断→論理化という忍耐強いプロセスを踏むことで、現実に対してパッシヴでない能動体質な自分を作り上げていけるように思う。そんなことをふむふむと勝手にひとり合点し、そうだ私もきちんと情報整理をせねば、とコンピューターの初期化を自分の手で試みてみる。なにぶん人手を借りずに試みるのは初めてのことなため、入念な下調べをしたうえでいざ決行。だが……、やはり私の情報収集はどこか杜撰なところがあるのか、初期化後にいろいろな不備や欠損が生じてくる。ああ、もう。情報収集の戦いにのぞむまえの、武具準備の段階で私はめげている。いやいや、めげずに前に進まねば。

The Huffington Post http://www.huffingtonpost.com/

(June 27, 2009)

Posted by iwaki : 16:00 | Comments (0)


温泉バージン

九州は別府に来た。ここは世界的に温泉がとても有名な場所だそうで、会う人、会う人、あらゆる人に「温泉に入って行け」と力強く薦められる。だが私は、実を言うと隠れ温泉バージン。どこかで何かの拍子に子供のころ入ったことがあるかもしれないが、意識的に、友人などと「温泉に行こう」と旅行を計画したことがない。というのも、あのだだっ広い空間で湯に浸かり、はて何をしたらいいのやら。とにかく間が持たないのだ。ただでさえ普段から女のくせに烏の行水派な私。会話の弾む誰かとならいざ知らず、たったひとりで湯につかる愉悦というものが分からない。ただ確かにせっかく来たのだし。なにか湯に入ることで超人的な元気が出るかもしれない。昨晩2時に原稿執筆がようやくあがり、じゃあまぁ、と宿内の最上階にある24時間営業の露天風呂に向かってみた。時間も時間なことだし、風呂場には誰もいない。ゆうに30人は入れそうな大浴場で、ひとり痩せた裸体をさらす私。ひたひたと水に濡れたタイルを歩く足音と、しんしんと寝静まる別府港の夜。そんな闇夜の静寂のなか、ちゃぽんと足先から湯に入る。痺れのような熱さに耐えて、ざらつく石段に生尻で座りこむ。見上げれば、半月が浮いている。
…………5分経過。
足をバタバタ。
………10分経過。
腕をちゃぽちゃぽ。
もういいや、寝よ。
と、そそくさと退散してきてしまった。私の温泉ロストバージンは、湯を味わう間もなく、肩すかしなほどあっけなくおわった。ただ風呂上がりの麦茶だけは、子供のころの夏休みの味がして格別に美味しかった。ああ大人な温泉の堪能法を教わりたい。

(June 15, 2009)

Posted by iwaki : 22:02 | Comments (0)


難儀な三つ子の魂

子供のころ水泳教室に通っていた。完全カナヅチな私にとっては毎週のその時間は恐怖体験に近い。プールに突き落とされるたびに毎回ぶざまに溺れ沈む。でも「あの子、やっぱり泳げないでやめちゃったね」とまわりに囁かれるのはあまりに悔しい。さらにいえば自分が恐怖心を克服できないのはもっと悔しい。なにかに負けたくない一心で、通い溺れつづけた覚えがある。三つ子の魂百までというけど、私の強情っぱりは、このときから始まっている。

この水のなかでの恐怖体験以上に、鮮明に記憶に刻まれているのが、プールに入るまえの準備体操。紺色の水着に着替え、タオルを肩に、プールサイドに子供たちが集まる。そして持参したタオルを目の前の床にポイッとおき、みんなで「おいっちに」と身体を動かしはじめる。けれど私は自分のタオルをどうしても床に置くことができなかった。母親が買ってくれたキキララのタオルが死ぬほど大切だったから。それを床に放置などしたら、他人に素足で踏みにじられるんじゃないかと怖れ、どうしても手放すことができなかったのだ。けどあたりまえだが、この子供理論は先生には通じない。キョウコちゃん、タオルを置きなさい。何度もたしなめられる。それでも、ぎゅうと、タオルを胸に抱き続ける私。困り果てる先生。確かに、それを手放さないことには、ことの主眼である体操ができない。引いてはいつまでたってもプールに入れてもらえないわけで。自分でも馬鹿だと思うけれど、大切なものを過剰に大切に思うあまり、さらに自分を難儀な状況に追いこんでいたわけだ。

大人になってからも、これと同じような状況に、自分を追い込んでいることに時たま気づく。なにかを手放したくないあまり、自縄自縛の状態にみずからを追いやっているのだ。たとえば恋愛。自分が惚れれば惚れるほど、そこには喜びと同時に不安や怖れが起こってくる。でもそれでびくびくしていては、自分もまわりも窮屈になる。相手の目を見て心でゆったり溶けあうように生きられなくなる。相手が好きなのなら、不安だろうがなんだろうがその愛に殉じないとね。いまの私なら、不安をよそに、にっこり笑ってタオルを床に置いてみせる。そんな世のからくりが、ようやく、本当にようやく心に落ちてきた。

(June 14, 2009)

Posted by iwaki : 02:01 | Comments (0)


フィレマトロジー

学問は人の悩みからはじまる。哲学であれ、数学であれ、医学であれ。どうにも納得がいかない解決できない、と人が夜な夜な頭を抱え必死に考えぬいたときに学問は否応なく生まれてくる。そう考えるとなぜこの世に恋愛学というものがないのか。いろいろ調べても、あのフロイトでさえ、恋愛についての持論を語るときには『性と愛情の心理』という言葉をつかってやや及び腰である。古今東西のあまたの芸術家が歌に歌い、絵に描き、言葉につづる、人類普遍の懊悩なのに。なぜ学問にならないのか。恋愛とはどうにも論理では語りきれないものなのか。そんなおり、昨年のいまごろ取材をさせてもらった、ヘレン・フィッシャーさんというアメリカの人類学者の関係で興味をそそられる情報を得た。なんでもこの世には<フィレマトロジー>という耳なじみの薄い学問があるという。これは知る人ぞ知る「キス」にまつわる学問。接吻というものは人類学的な見地からみて、本能的行為なのか後学的行為なのか。進化心理学的な視野からみて、人の心にどのような影響を及ぼすのか。また行動生態学からみて、キスという行為の頻度によって愛情の度合いは推し量れるのか。そのような疑問を日夜真剣に考え、議論を戦わせている学問集団がいるという。おもしろい。

さて、これらフィレマトロジストたちによるとーー、キスには様々な素晴らしき科学的効用が認められているという。まず第一に、唇と唇を重ねた瞬間、愛する者たちの脳内では、テストステロン、ドーパミン、オキシトシンといった数々の快楽ホルモンがどぱっと誘発される。これらはおのおの性的高揚、恋愛心理の増強、親密感の強化、を促すもの。つまりはキスによって人は脳内であらゆる脳内麻薬を放出し、その結果として、人間関係のストレスレベルを軽減しているのだ。ちなみにあるカナダの大学の研究によると、キスをしてから家を出るカップルのほうがそうでないカップルに比べ、欠勤率が低く、収入が25%も高く、寿命は5年も長いという。本当か。さらにギャロップ・サーヴェイによると、14.6%もの女性がキスを飛ばして「次の段階に進んでもいい」と考えているというデータがありながら。その反面、同じく女性は、セックスではなくキスの頻度によってパートナーとの関係性の親密度を推し量っているというファクトもある。愛がなくてもセックスはできるけれど、愛がなければキスはできない。五万の言葉が語りえないことを、ひとつのキスが語りつくす。旧来言い尽くされてきたことだけれど、その感覚の裏にはなんらかの科学的根拠があるらしい。

昨晩ある知人から、まわりの同世代の男女の多くが離婚の危機を迎えていると聞いた。しかも彼らの大半はパートナーに「手をあげてしまって」裁判沙汰になっているという。果たして彼らは日々、愛のこもるキスを交わしていたのだろうかーー。

(June 10, 2009)

Posted by iwaki : 14:46 | Comments (0)


NYストーリー 3

彼女はバーの部外者だった。歳は四十か四十五。赤々と闇夜の摩天楼にたなびく車のバックライト。ドライマティーニにジミー・チューのヒール。そんな都会的表層のさなかにおいて、彼女のまわりだけは、オハイオの煤けたリビングルームが透けて見えた。あきらかに昨晩、埃だらけの屋根裏からひっぱりだしてきた、実年齢にそぐわぬプロムドレスのような衣装。熟しきったフロリダオレンジの色合いが、煌煌と、周囲のモノトーンから浮いている。

突如彼女は、あたかも自分の過去を呑み込むかのように酒を一口あおり、上物のはおりを脱ぐ。そして肩もあらわなドレス姿で、バーの一角にあるソファー席へ。冷静を装いひとり着座する。周囲を見渡せばソファー席一帯は、体と体を密着させたカップルばかり。彼女はそこでもぽつねんと一人孤独に宙に浮く。五分、十分、十五分、ただただ座りつづける。大音量のクラブミュージックも彼女のまわりではコンクリートのように固着する。故ダイアナ妃を意識した、品良くもやや時代遅れなショートカットに指を通すしぐさだけが、不安げに断続的に繰り返される。それ以外、壁の花は微動だにしない。と、あるとき彼女と同年代の、これまたやや時代遅れなサックスブルーのシャツに身を包む男性がふらりと言葉をかけにくる。優雅を装い、彼女はぎこちない笑みを返す。この笑みに彼が応え、彼に彼女が応え、錆びついた車輪のような会話がゆっくりとまわりはじめる。

ニューヨークの酒と夜という非日常感覚を武器に、47丁目のヒップなホテルバーの片隅で、こうして見知らぬ男女がそしらぬ一組のカップルとして結ばれる。もうとうに適齢期を過ぎたから、若者の場に出向くのは恥ずかしいから、恋人を釣りに行くなんてみっともないから。そんな世間の目にびくつく気後れは、彼らかはらほとんど感じられない。女はいくつになっても女を武器にし、男はいくつになっても雄の本能を失わず、互いに真剣にやや緊張の面持ちで、大都会のジャングルのまっただなかで出逢う。彼氏彼女を必死に漁るなんて面倒だよ、とナイーヴに自閉して自分のプライドにめげてしまう最近の若者たちに見せてやりたい逞しさだ。

四十カップルの行く末を最後まで見届けることはできなかったが、たとえ一時の楽しみであったとしても、男と女が男と女として、異性を刺激しあうのは予想以上に人生の彩りを豊かにする。恋愛の達人・宇野千代も語るように「新時代の女性は、その全生涯すべてが適齢期」であるべき。自分で勝手に恋愛放棄年齢をもうけて生きるなんて、人生の色っぽさをみずから捨て去るようなもの。そんなの哀しいしつまらない。

(May 28, 2009)

Posted by iwaki : 14:44 | Comments (0)


NYストーリー 2

時差惚けが尾を引く疲労感が体の底に溜まっていた。両脚が重く、背中が板きれのように固い。古びた背もたれのブルックリンの劇場で三時間に及ぶ芝居を見終え、夜の帳のなか、さあマンハッタンに戻らねばと考えたときには、女ひとり身の緊張感をたずさえ、地下鉄を乗り継ぎホテルに戻るのが、なかなか億劫になっていた。そこで劇場出口からマンハッタン四十七丁目まで直通で体を運んでくれる、安全できれいな直行バスに、やや値が張るものの乗り込むことに。乗車口で係員に7ドルのチケット代を支払い、バス中央部の二人並びの席にひとりゆったり身を預ける。ほっと一息。これで何も考えずホテルの近くまで行くつくことができる。つねに自分の半径数メートルにアンテナを張っていなければ、いつ足下をすくわれるかわからないニューヨークの生活では貴重な安全感だ。同じく芝居を見終えたばかりの、やや年配の男女も、心おきなく観劇仲間との会話に花を咲かせている。

だがこの街では危機は予告もなくやってくる。ブルックリンを出発し、順調にイーストヴィレッジを通り抜け、二十五丁目あたりまで到達したとき、突然、急ブレーキとともに「ゴツン」と何かに衝突する感覚があった。事故と呼べるほど大げさな音ではない。自転車がカーブを切り損ね、近くの電柱にぶつかってしまったほどの軽い衝撃。トラフィックマナーの荒いこの街のこと。あらかた前の車のバンカーにでも、軽くぶつかってしまったのだろう。そう事情を推察して、通路側から前方の運転手を見やる。と、スーパーボウルに出場するクオーターバックのようにアドレナリン全開の運転手が大声で暴言を叫びながらバスを荒々しく降りていく。

「あいつ絶対にカットイン野郎だぜ。ふざけんな、金なんて絶対にやらないぜ」

バスドライバーの文句から察するに、我々のバスはどうやら、この国の当たり屋に狙われてしまった模様。赤信号でバスが停車する直前に、意図的に前方にカットインし、俺の車を傷つけてくれてどうしてくれるんだ、といちゃもんをつけて金をまくしたてるのが目的らしい。その狙いがバスドライバーはよくよくわかっているからか、はなから相手に対して謝罪の言葉をいれやしない。開口一番「ふざけんな」。そして互いに口角泡を飛ばし、相手の鼻先で文句を叫びあう。こうなると、アベニューのど真ん中で、クラクションの絨毯爆撃を受けながらバスは立往生。日本人的にはそんな凶暴な当たり屋は夜の街中に放っておいて、バスをそそくさと発車させてしまえばいいのにと思うのだが、アメリカ人はどちらが悪いか白黒つくまで一歩も動かない。しまいには、バス内の乗客たちもドライバーの援護射撃を買って出て、一致団結バスチームとして、カットイン野郎を攻めはじめる。

だがそこは時間に追われた短気なニューヨーカーたち。五分十分と罵倒合戦がつづくころには、みな口々に文句をぼやきながら夜の闇に消えていく。それはコーヒーマシンが壊れたのなら、しょうがないから紅茶でいいわよ、と気の利かないダイナーで注文を即座に変えるのと同じぐらい日常的な行為。まるで事故などはなから存在しなかったかのように、キャブをつかまえ去っていく。おそらくこのカットイン野郎の話題など、雑音情報の多い彼らニューヨーカーの会話からは、数分後には消失していることだろう。

疲れた体を預けるため、あえてバスに乗車したにも関わらず、結果的には地下鉄以上の労力と金銭力を裂いてホテルに戻ることになった帰路。そりゃこの街の人々はタフにもなるわ。と、ホテルのベッドに倒れこみながら吐息が漏れてくる。しかし東京という名の無菌状態の街に慣れてしまっている身には、逆に、これがほどよい刺激にも思えてくる。自分は自分で生き抜いている。この街に一人でいると、否応なく、そんな奇妙な充実感がもたらされる。これは自宅の脱衣所と同じテンションで街を歩いても何も起こらぬ、摩擦レスな日本社会では持てない感覚。自衛という名の日々の戦いが、心に生の充足感をもたらすのだ。人と人が、車と車が衝突するたびに、やわに心を痛めていては生きのびていけないニューヨーク。ふてぶてしく折れない心が、不夜城の灯火をうけ、いたるところに屹立している。

(May 24, 2009)

Posted by iwaki : 08:07 | Comments (0)


NYストーリー 1

チクタクチクタク。ひさびさに降り立ったニューヨークの街は厳格なデジタル時計に支配されていた。すべての行動が分刻み。たとえば『NY1』のニュースは1分単位のカウントダウンクロックが画面下に表示されていて、その日のトピックを、分ごとに区切って次から次に議題にあげていく。最初の1分はWTCのサミットについて、次の1分はブロードウェイの不況について、さらに次の1分はミシェル・オバマのファッションにうついて、と超音速の早口英語を駆使するコメンテーターふたりが、白の観点と黒の観点の両面から、双方一歩も譲らぬ強固な意見をまくしたてていく。ああなんて、せわしないニュース番組。なんだか見終えたあと、ニューヨークの街中が事件につぐ事件で、つねに追い立てられているかのような印象を覚え、ぐったりしてしまう。

ちなみに、このやや強迫神経症的ともいえるニューロティックなせわしなさは、私が訪れた取材先のクライアントたちにの性格も端的に表れていた。取材の約束時間は午後4時。礼儀正しい日本人らしく5分前に待ち合わせ場所のステージドアに赴けば、先方は時間の30秒前にドア口から「ハーイ」と上機嫌に表れる。そして持ち合わせの取材時間である30分を、これまたカウントダウンクロックがついたトークのように早口英語でまくしたて、きっかり時間どおりジャストに話し終える。そして何事もなかったかのように「バーイ」と一陣の風のように去っていく。

さらにもっとニューヨーク的なのが、取材と取材のインターバル時間の使い方。私は一日に5人のクライアントにインタビューを行ったのだが、たとえ、あいまの休憩時間が10分しかなかったとしても、部外者である私は例外なくいちど取材現場のビルから追い出されることになる。そして「また10分後にステージドアに来い」と申しつけられる。最初はこの待遇に、なんて他人に対して思いやりのない人たちなんだ、10分ぐらい同じ取材室で待たせてくれてもいいじゃないか、とふてくされてしまったが。ある地元民に聞いたところ、逆にこの処置は「10分間も、私の自由時間を束縛するのは申し訳ない」という彼らの思いやりからの行動らしい。

ニューヨークを闊歩する人々は、驚くべきことに3人にひとりは、iPHONEかブラックベリーを持ち自分のスケジュールをコントロールしている。となると10分のあいだに、個人メールをチェックしたり、Fedexの郵送状況を確認したり、Twitterで友人にコメントを送ったりして、有効に時間を費やすのだろう。

そういえば取材に応じてくれた女性ひとりが「ニューヨークにいる限り、退屈することはないわ」と喜々として語ってくれた。だがこちらからすると「退屈することがない」というよりむしろ人々は「退屈することを怖れている」ように思える。それぐらい彼らは日々の一分一分に、可能な限りのアクションとインフォメーションとディシジョンを詰めこんで生きている。ニューヨークは孤独な街。世界中から人々が集まってきては、一期一会で、人々が去っていく。だからこそ、ここで暮らすニューヨーカーたちは、過剰に自分の時間を埋め尽くして、ひとりぼっちになる孤独な時間がふとした日常の隙間から入り込んでこないように自己防御しているのかもしれない。

(May 21, 2009)

Posted by iwaki : 16:34 | Comments (0)


豪州でベッタな街

初夏の日本をぬけだして、南半球の街におりたつ。あたりまえだが季節は逆転、ここは秋の終わり。オーストラリアの乾燥した空気で、水分を奪われ老いた木々が、黄土色の枯葉を路上にはらはらと落とす。だが、これだけの距離を南方に移動してきたにも関わらず、季節の反転以外に、さほど目新しいものがないことに、ちょっとだけがっかり。特にシドニーの街は、ニューヨークとサンフランシスコを半々に混ぜて少し大味にしたような町並みで、ホテルから飛び出して外に出ても、新鮮味がひりひり肌に刺さってきて刺激的だぜ、というよりも、まったく緊張感なくぬるぬるとした日常感覚に近い日々を送れる。なにせ、街にならぶ店がスタバやらマクドナルドやらサブウェイやらなのだ。まあ、そうした店の前の路上にたむろしている鳥が、鳩ではなくカモメ、というところは確かにオーストラリアンなのだけど。グローバリゼーションは文化を壊す、という端的な例だ。

ただ旅初日に、一日だけ訪れた、メルボルンの街はシドニーよりはいくぶん面白かった。
メルボルンのタクシーの運ちゃんの話によると、ここはシドニーとはライバル関係にある街らしく。明日はシドニーに行くんだ、と私が車内でつげると「メルボーン、ズ、ベッタ(Melbourne is better)」とずーずー弁のように訛った英語で街自慢をしてくる。ま、ベッタかどうかは分からんが、確かに日本人からすると、メルボルンのほうが異質さが俄然極端で面白い。まず食べもののほとんどが、水ぶくれした溺死体のように巨大。重量リングのように重たげなドーナツ、犬の餌のように山盛りなフレンチフライ、バナナのようにでぶな寿司の細巻き。はなはだ失礼な話だが、食べもののできが「頭悪そう」。あとなぜかこの街には、中年パンクが多くて、高さ1メートルはありそうなモヒカン頭に革ジャンをまとって、でも「会社帰りでお疲れ」みたいな中年男子がそこここにいる。こういう我が道を行くファッションを貫く人は、多くの人がとても平均値で小綺麗なシドニーでは見られないので面白かった。

街にはそれぞれ個性がある。その街の個性は人が作る。
ただ大きな街になればなるほど、人は自分たちがその街を創りあげているんだという事実を自覚を忘れて没個性化していくのかもしれない。

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Melbourne
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Melbourne
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Sydney
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Sydney

(May 10, 2009)

Posted by iwaki : 10:28 | Comments (0)


南半球ヘ

今日から、いざ南半球オーストラリアの取材へ。にもかかわらず、朝おきたら、見たこともないようなブサイクな顔が鏡に。あまりにも変な顔なので思わずぷぷっとひと笑い。笑うとさらに変な顔。電子レンジの加熱で溶けすぎた餅のように顔がひしゃげる。別に今日に限ったことでなく、ここ一年半ほど、自分の顔がものすごく日々変化する。昨日はそれなりに見れた顔だったのに、今日は自分でも見たくもないようなこわばった顔をしていたり。しかも長期的なスパンで見ると、以前とは、あきらかに顔立ちが別人。それが嬉しくもあり興味深くもあり。「四十歳になったら自分の顔に責任を持て」とはよく言われることだけど、こんなにコロコロ自分の顔が変わると、どの顔に責任を持てばいいのやら自分でもわからなくなる。現段階では私は、最悪の四十の顔にも、最良の四十の顔にも、どっちにも転びうるということかも。最悪の顔になるのは嫌だから、なにがどう変化してきてるのか顔相学の本でも読もうかな。

(May 5, 2009)

Posted by iwaki : 12:37 | Comments (0)


ナザニーヌの集中力

ナザニーヌ。どこか夜の香りのする美しい名のイラン人女性にパリで出逢った。早くにイスラム文化圏を抜け出し、西欧社会で自律した人生を謳歌してきたという彼女。だからか、その黒薔薇のようにエキゾチックな名前とはうらはらに、風貌やファッションは、どちらかというとジェニファー・ロペスのような西海岸系。まだ25歳。おそらく会話も、オシャレやパーティーやボーイフレンドのことを取りとめもなく話したがるのだろう。そんな軽い気持ちで彼女と会話をしはじめたら、10分後には、その浅はかな予想を完全に裏切られていた。

19歳で大学を卒業し、22歳で心理セラピストの開業医となり、24歳でアッパス・キアロスタミと懇意の脚本家となり、いまは仏料理の名門学校ル・コルドン・ブルーでシェフになるため勉強に励む身だという彼女。25歳にして多くの人が40歳になっても成し遂げられないことを、猪突猛進、成し遂げてきている。経験値だけでいうなら、あきらかに、私よりも数段上。人生密度がそんじょそこらの二十代とは異なるのだ。

そんな彼女と、昨日は30分、今日は1時間、と少しずつ会話を重ねていく。と、彼女がなぜこれほど多くの職業で成功をおさめてきたかが、おのずと理解されてくる。ひとことで言うなら「集中力」の差。もう少し的確に言うなら「集中力の入れどころ」の差。たとえば会話作法ひとつとっても、ナザニーヌは無手勝流。さきほどまで熱心にこちらに耳を傾けていたかと思えば、5分後には窓外で巣作りする鳩を見てひとり物思いにふけっている。まるで瞬間瞬間、自分の好奇心のおもむくままに行動する五歳児のようなのだ。

だがそんな彼女だからこそ、ひとたび好奇心のアンテナがびくんと反応すると、他人の視線や周囲の景色が吹っ飛び、とにかく自分自身の欲望のタンクが満たされるまで集中しつづける。たとえば、ある映画話をしていたとき。なにか彼女のレーダーに引っかかる話題であったのか、極上の餌を見つけた魚のように話題に食いついてきた彼女は、こちらが「もういいだろ」と音をあげたくなるほど執拗に、そのテーマについて話しつづけた。おそらく1時間は同じテーマについて話していたように思う。

でもこのしつこさこそが、彼女の成功の秘訣。こちらがくたびれてしまうほど、ひとつの議題を思考しつづけることにより、倫理感や道徳心といったジェネラルな価値観とはまったく異なるオリジナルな哲学を自力で発見していく。そしてその自分哲学を信じて、まっすぐに行動に移っていくため、誰よりも早く自分の得意分野で成長をとげていくのだ。まあ、あまりにも周囲を顧みない彼女の行動は人に憎まれることもあるだろうし、得意分野が多ければ欠落部分も多い凸凹人生だとも思う。だが私としてはその度を超して無我夢中な生きかたに、気持ちよさを覚えてしまう。

ニュースで読んだ話によると、現代人の多くは、メールや携帯電話やSNSなどの雑音に数分ごとに気を削がれるあまり、集中力が著しく欠如してきているのだとか。そして集中力の欠如は、人生に対する、その場しのぎな不毛感を生む。これはデジタルライフを享受する世界、特に東京のように忙しなく生きることを余儀なくされる世界においては、豚インフルエンザ以上に留意すべき、恐ろしい風土病なように思う。30分、全身全霊でひとつのことに集中してみる。いざ実際にやってみると、一貫性のある思考を保つことがどれだけ大変か気づくはず。使わないと即座に衰える集中力。ナザニーヌに学んで、日々これを鍛えていこう。

(May 1, 2009)

Posted by iwaki : 19:13 | Comments (0)


UK, France, Netherlands

芝居やダンスの取材をコツコツこなしながら、イギリス・フランスそしてちょっぴりオランダに寄ってようやく先日帰国した。走馬燈のように移ろう景色の変化とともに、人生観も変わるような怒濤の毎日で、刺激のシャワーを浴びつづける身体性に、あきらかに思考速度がおいつかず、ブログを更新する余力がなかった。とりあえず時差惚けがなおって頭がすっきりしてきたら、きちんと整理して書くべきことを書こうと思う。

今日は帰国便のエール・フランスに
心に残るウィリアム・ブレイクの言葉が載っていたので、
それだけとりあえず。

「He who desires and acts not breeds pestilence」
(欲するのみで実行せざる者は、悪疫を発生させる)

心から自分が欲っするものがあるのなら、それを手に入れるために全力で行動する。欲しいと思うものが別の安易なものであると勝手に心のなかで妥協したり、欲しいけど無理だと自分を丸めこんで行動するまえから諦めたりしていると、のちのち、自分自身を裏切りつづけた反動で、心がとんでもない謀反を起こし精神が膿みはじめる。

自分に嘘をつくことが上手なのは、周りに迷惑をかけないニッポンの優等生の条件かもしれないけれど、心がはちきれそうなほどの楽しみと喜びに笑って幸せに生きる条件じゃない。ウィリアム・ブレイクの言葉に従って、欲望を発火点に行動を推し進める。それはちょっぴり怖いことだけど、実際にその行動におそるおそる出てみると、これほど心が爽快になることはないと分かる。すべて自分の好きでやってるんだから、と勝っても負けても心から気持ちよく生きられる。そんなことをここ数週間で身をもって体感した。

(April 23, 2009)

Posted by iwaki : 03:20 | Comments (0)


中学生の一人旅

中学生がありったけのお小遣いを握りしめて両替所にならんでいる。
お願いしますと言って、19000円を手渡す。
かえってくるドル札を大事そうに手にする。
聞けばはじめての一人旅らしい。
行き先はロサンゼルス。
手にした金額でどれだけいつづるつもりなのか。
毎日毎日学校に行くことに疑問を持って、
ちょっと旅をしてみることにしたらしい。
がんばれ男の子。かっこいいぞ。
私も今日から、一人旅だ。がんばろう。

(April 1, 2009)

Posted by iwaki : 20:02 | Comments (0)


めんどうくさいの罪

めんどうくさい。この感情ほど厄介なしろものはない。人間は日々なにかしらの目標を掲げて生きていく。が、たいがいの目標は、この黄土色のぬり壁のように分厚い「めんどうくさい」のまえに無残にも倒れる。英会話の習得だろうが、プログラミングのスキルだろうが、フランス文学の教養を独学で身につけるのであろうが。どれほど頭で「やろうやろう」とあくせくしても、腹の底からふつふつとめんどうくさいの灰汁が湧いてくる。正直なところ、この厄介な感情が湧いてくるときは、たいがい人は本当の意味で掲げた目標に身を投じようと思っていない。その技術が自分にとってさほど重要なものだとは思えないため、まあいいか、と道半ばで放り投げることになる。そして放っておけば人はどんどん、らくちんなほうに流れていく。子供のころ、倒れても倒れても、まだ前に進もうとしたあのころの健気さを失って、ぬくい湯船のような現状に耽溺してしってしまう。

禅寺の坊さんに以前、座禅では我慢が基本だと言われた。いきなり甘い汁だけど吸おうと思っても無理。苦い水を飲み続け、我慢をしたのちに、本当の意味での心やすさが訪れる。なかなか真理をついた言葉だと思った。でもこの小忙しい現代において、日々の情報の嵐に流されず、じっと根を張り我慢をするという能力は、本当にまれ。国宝級にまれな才能のような気がする。

そもそも、現代人はずいぶん昔に、言葉で何かを伝える努力さえも「めんどうくさい」と放棄してしまった気がする。そして、なるべく省エネに、なるべく衝突を避けて、らくちんに日々を過ごしていこうとしている。

人間には言葉にできない感情がある。確かにそれはそのとおりだ。けれどこの事実を無敵の印籠のようにたかだかと掲げ、はなから感情を言葉にする営為を放棄してしまったら、人はどんどん孤独になってゆく。なぜなら、言葉にしなくても分かってもらえるはず、通じることができるはず、というエスパーのような能力を他者に期待すればするほど、それはあきらかに、裏切られる確率をあげることになるわけで。伝える努力もせず、期待だけ高くして、勝手に裏切られて、さらに自閉していく。この悪循環を繰り返し、いま社会の会話の質がどんどん劣化している気がする。

要件だけを伝える無味乾燥な事務会話、暗黙のルールに則って行われる社交辞令会話、自宅や赤提灯で緊張感をすべて解いて自分の感情をたれながす日記会話ーー。生産的で知的な会話の現場は、いずこ。自分の思考に責任を持ち、それをふんばって能動的に言語化する。そしてその言葉を発信する。これには努力と、ちょっとした勇気が必要。だけどこの行為を「めんどうくさい」と放棄してしまった日には、なにを楽しみに生きていくのだろう。

(April 1, 2009)

Posted by iwaki : 00:14 | Comments (0)


愛と不在とゴドー

愛は不在と深い仲にある。愛おしい相手が遠くにあるとき、愛はますます深度を増す。だがどれほどその深度が増しても、ぶつける相手がいない愛は、未完了な消耗を招き、その消耗が不安へ、不安が怖れへとつながっていく。そして不幸な場合、実物の愛する相手がようやく目の前にあらわれたとき、その相手を真正面から受け止められなくなってしまう。これは不安の自家薬籠中というやつで、第三者からみれば、目もあてられないだろうが当人は必死なのだ。

「ゴドーを待ちながら」というアイルランドの劇作家サミュエル・ベケットによる傑作芝居がある。これは名も知れぬ二人の男が、来るとも分からぬゴドー氏からの連絡を、ただただ2時間、待ちつづけるという芝居。私がこの作品を最初に知ったのは、もう10年も前のことになる。そのときは二人の待つ男を描くことの、なにがそんなに劇的なのか、なんて退屈な芝居なんだと生あくびを噛み殺したものだった。だが気づけば女三十路への歳月は一瞬にして流れ去り、私もそれなりに人生は前進ばかりじゃないという機微が解せるようになってきた。そしてそんな今になってようやく、この芝居の底意が自分なりにつかめるようになった。

待つ行為は、相手がいてはじめて成り立つもの。相手が必ずいつか現れる。そうした期待のもとに待つ行為は、辛さのなかにも希望がある。その希望が、不在の日常を照らしだす太陽となる。だがベケットはここで、その待つ相手が果たしているのかいないのか、来るのか来ないのかもわからぬ無限地獄に二人の男を突き落とす。

忘れさることも、歩きさることも、捨てさることも、彼らには選択することができない。ただ、待つ。ただ、待つ。こうなると日常のすべてが羅針盤を失っていく。待つ相手が自分の魂に不可欠な存在であればあるほど、羅針盤は強烈な磁力に狂わされ、今立つ足場さえも不確かなものにしてしまう。いったい、いま私はどこに生きているのだろう。泣きじゃくりたいような不安に襲われる。その不安に蓋をするために、ディディとゴゴは落葉のように掃き捨てられる冗語的な会話で時をうめていく。

日々の習練と忍耐が、なにごとを成すにも必要だ。「待つこと」とて同じ。習練と忍耐が成功への鍵となる。けれどこれらの地道な努力も歩むべき道筋が定まって、はじめて実を結ぶもの。方向感覚を失った努力は、いかなる果実もみのらすことなく、時を虚しく浪費させるばかり。浪費はいつしか倦怠へとつながり、そして魂が徐々にしなびていく。「待つ」という行為の震えるほどの残酷さ。その行為がどれだけ人の心を痛めつけ、消耗させ、無に貶めていくか。その経緯を真正面から描ききったベケットという作家に、いまの私は荘厳な末恐ろしさを覚える。

(March 23, 2009)

Posted by iwaki : 23:50 | Comments (0)


男子弱体化と男性不妊症

「最近、不妊症治療が増えているのよ」

デンマークで友人の女性が鼻息を荒くする。そのときはなんとなく聞き流した。けれどその後、情報収集するにつけ、いま「男性不妊症」という言葉が北欧でしきりに取り沙汰されている事実を知った。その理由は簡単に言えば、精子の劣化。これは人類が安定志向な一夫一婦制を長くつづけてきた結果、競争相手を押しのけてまで卵子をものに、という闘争の必要がなくなり、いまどきの言葉でいえば、精子さえも草食系になりつつあるのだという。つまりターゲットである卵子になんとしても辿りつく、元気でへこたれない精子君が減ってきているのだ。ものの話によると、ここ50年でデンマーク男性の精子はなんと半減。理由としては「一夫一婦制理論」以外に「環境ホルモン説」も唱えられているが、いまだはっきりした原因はつきとめられていない。

さらに先日NHKのドキュメンタリーで、男性を男性たらしめている、Y染色体がいま人類から消えはじめているという説を知った。ある専門家はY染色体が「数百万年以内に消滅する」と、末恐ろしい推測まで口に。つまり、この世から男がいなくなるわけだが。そのとき人類は、数年前にイギリスのチェスター動物園にてコモドオオトカゲがとつぜん単為生殖をなしとげたように、ある日、処女懐胎できるようになるのか。

さて、ここからは完全に私の仮説というより妄想。最近スウェーデン人やデンマーク人のカップルを何十組も取材して、フィールドワーク的に感じとった知をもとに論を進める。取材を通じて第一に感じたのは、彼らの多くが「異性として惹かれ合っているというより、同性同士の友人のように仲が良い」ということ。現に取材対象者の多くは、中学校時代からの友達、隣近所の幼なじみ、という可愛らしいカップル。お兄ちゃんと妹のような安全感のなかでぬくぬくしている。それはそれでシジュウカラのつがいのようで愛らしく好感が持てるのだけど、同時に、なんとなくその「セックスの匂わなさ」に違和感を覚えたことも確か。異なる性だからこそ、ひとつひとつの理解を肉弾戦で勝ち取っていかねばならない、男女間の魂の摩擦がまったく見えず、そりゃ精子も弱体化するかもと思った次第。

話はさらに飛躍してーー。
異性愛を分析するさいによく引き合いに出される、人間のフェロモンについても言及したい。

フェロモンは、鋤鼻器という五感とは別の感覚器官でレシーヴされると言われるもの。最近、このフェロモンの種類が、人の免疫系システムを支えるタンパク質=「HLA」の型(血液型のように、いろいろ型があるらしい)によって決まるという知識を得た。そして、ざっくりとした言葉でまとめるなら、人間の雌は本能的に強い子孫を残すために、HLA型が異なる雄をフェロモンで嗅ぎ分けて選ぶのだという。つまり自分が持つHLA番号が1・3・5で、彼が持つHLA番号が2・4・6だとしたら。産まれてくる子供は、123456、すべての番号を持つ二倍免疫力の高い子供になる。それを雌は瞬時にフェロモンで嗅ぎ分ける。すごい能力。ただし、ここが重要なポイントなのだけれど、フェロモンを嗅ぎ分けられるかどうかは遺伝的に個人差があるという。そしてフェロモン探知機があまり敏感でなく、結果的にHLA型が似通った男女が子供を作ろうとすると「妊娠しづらい」という一説もある。

となると、兄妹のように似た雰囲気を持つカップルの多い北欧男女は、フェロモンをあまりうまく感知できず、HLA型が似た相手を選んでしまい、それが不妊症につながっているのでは……。なんて乱暴な独自論も展開したくなる。これはもう、あきらかに科学的根拠のない空想妄想セオリー。でも、サバイバル能力に長けた強い子孫を残す必要のない、安穏たる都市部だけで不妊症治療者が増えているのは「なぜか」と考えていくと。あながち、的から大ハズレではないかもとも思えてくる。

(March 20, 2009)

Posted by iwaki : 21:10 | Comments (0)


エローレとエラーレ

触覚が地から間欠泉のように沸きだし、振動が黒雨のように宙から降りそそぐ。人間の五感を美しく暴力的に攪乱する、イタリアの鬼才演出家ロメオ・カステルッチのイメージの洪水に西巣鴨創造舎で溺れた翌日。九段下のイタリア文化会館でおこなわれた、彼のプレスカンファレンスに向かう。昨年のアヴィニヨン・フェスティバルで絶賛された、ダンテの『神曲』三部作を、この秋日本で上演するにあたっての顔見せだという。プレスカンファレンスという、いかにも仕事然とした公の場所に出向くことはいまだ苦手。「授業中は一歩も立ち歩いてはいけません!」と教室の椅子に磔にされていた学生時代を思い出す。なんとかイリーの強烈濃厚なイタリアンエスプレッソを、ちびりちびりと口にしながら、ぼんやり惚けぬようがんばろうと決意をする。だが今日は、そんな子供じみた決意は嬉しくも不要に。一寸の弛みもなく仕立てられた濃紺のトラッドジャケット同様、誠実まじめな受け答えをつづけたカステルッチ氏が、とても考えさせられる発言を放ったからだ。

私が聞き逃してしまったある記者の質問に対して。
彼は知的に選び抜かれた硬質なイタリア語で、こう答えた。
「エローレとエラーレ」
イタリア語は皆目わからない私。けれど、その韻を踏む遊戯的な響きの美しさが耳の奥底に落ちてくる。よく聞けば、この二つの言葉を唱えながら、彼はダンテの天上的な叙事詩を舞台化する、という雄大なプロジェクトに立ち向かっていったのだという。エローレとはエラー、つまり過ちのこと。そしてエラーレとは、彷徨い、放浪すること。

「エローレ(過ち)を犯すことを考慮に入れることで、私ははじめて自由になれた。もし私が過ちを犯すことを怖れ、正しい道を歩もうと思いつづけたら、それはダンテの墓碑を創ることになっただろう。けれどエローレを犯すことをいとわぬことで、私は自由の身となり、自分なりの道をエラーレ(放浪)できるようになった。私は、そのようにして創作に立ち向かっていったのです」

アーティストである彼は、ここで創作に特化して話を進めている。けれどエローレとエラーレを日々繰りかえし、ムダな自己保持や自己顕示のない自由な心で生きるべきは、どんな職業の人間でも同じこと。ひとつのエローレに悪魔的に固執して、二度と生涯道を踏み外すまい、鋪装された安全道路を歩いていくのだ、と岩のように心を固めた日にはーー、そののち自分の無知を自覚させられることはなくなり、結果として、世界の美しく洪大な眺めを放棄することになるだろう。

芸術を創造するにしろ、人生を創造するにしろ、恥をかきたくない馬鹿にされたくない、と大人顔でトライ・アンド・エラーを怖れ始めると、世界は貧相に縮こまっていく。そんなときは大声で童歌のように「エローレ、エラーレ」と叫んでみよう。

(March 14, 2009)

Posted by iwaki : 02:15 | Comments (0)


デンマーク人の会話法

もうずいぶんと前のことになるけれど、凍える雪が毎夜のように降りしきる体感だけは肌身に忘れない、北欧コペンハーゲンで、優美なデンマーク・ロイヤル・バレエ団のダンサーたちと取材を交わしてきた。いま思いかえしてみて、仕事会話以外の部分で文化摩擦として記憶に残るのは、取材ダンサーのひとりが余談として話してくれた「日本人とデンマーク人の会話共通点」。

デンマーク人は子供のころから、他者に対してなるべく礼儀正しくジェントルマンにふるまうよう教育されるのだという。だから自分がどれほど出世しようと、どれほど金持ちになろうと、どれほど才能に恵まれようと、それを1ミリでも鼻にかけようものなら「あいつは嫌なやつだ!」と村八分に悪のレッテルを貼られることに。まあ確かに過剰に自分自慢をするようなやつは、たいがいの世界ではいけ好かないやつだから、この論理は納得がいく。けれどデイニッシュ会話の人間臭くねじくれたところは、ここから先の部分。過剰に自慢することを避けるあまり、しなくてもいいのに、あえて過剰にマイナスに謙遜するというのだ。

「僕は、たいした人間じゃないから」
「私なんてこの程度の人間だから」

そしてこうした発言に対して聞き手は十中八九、
「いやいや、そんなことはないよ。君もなかなかたいしたものだよ」
と、優しい合いの手を入れることを暗に望まれるという。
要は抑圧された自尊心を他者に押し売りすることで、会話を保っているのだ。

だから僕は自分がダンサーとして才能がある、なんて口が避けても言えないんだよね。まあでもここでは言っちゃうけど、とその彼はいたずらっ子のようにくすりと笑った。なんだかこの妙にねじ曲がったストレートじゃない会話法、甘えあいの温情主義から必要以上に言葉の表ではなく裏を汲んであげる手法が、どことなく日本人に似ている気がした。

とまあ、そんな煙のように消えてしまう無駄話はいいとして、来日公演の公式ウェブサイトにインタビューを随時掲載してもらう予定です。こちらのページでは、きちんと仕事としてバレエのことを書いています。なるべく丁寧に記事を書こうと思いますので、お時間があれば是非。

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デンマーク・ロイヤル・バレエ団来日サイト
http://www.nbs.or.jp/blog/0905_danish/

(March 8, 2009)

Posted by iwaki : 03:00 | Comments (0)


誇張表現と不器用さ

文章を書く仕事をしていて、自分の文章には誇張表現が多いことに気づいた。華美な形容詞をめったやたらに使ったり、浮誇な表現でなんてことないものを凄くみせたり、とてもフェイクな匂いがする。そしてこの誇張表現が、最近は、ふだんの日常会話にも飛び火しはじめている。自分を実際より凄くみせるために、あるいは自分の価値に下駄を履かせるために、本来ならもっと控えめな表現をすべきときに威勢良くなんらかの意見を言い切っている。そんな自分に出会うたびに、ああまたやってしまった、と胸がむかむかして眠れないほど自分の汚い一面をなじりたくなる。この高下駄表現をなくしていかないと、自己査定が他者査定よりも明らかに高く、自分自慢をしつづける醜い中年になってしまう。だから、なるべく厳格に、なるべくシンプルに、なるべくすっぴんに。ブルーノ・タウトが「単純さのなかにこそ豊富がある」と言ったように、自分を飾り立てるのではなく、単純に単純に単純にいきたい。

もうひとつ、最近気づいた、というか再認識したことは自分が平均値以上に不器用な人間だということ。パソコンでホームページを作成するにも、物覚えの悪い幼稚園児のように「あいうえお」の基本がなかなか頭に入らない。あるいはこのごろ始めた自作香水づくりにしても、人が一度のミスで「おっ、これは失敗だな」と思うところを三度実験ミスしないと気づかない。今日もネロリとフランキンセスとミルラを混ぜている段階で、なんだか同じミスを犯していることに漠然と気づいたのだが、それがなんなのか不愉快にも思い出せない。結果、0.5ミリずつしか成長していかない。でもある側面のことに関して、まわりよりも極端に不器用なのは、考えてみたら子供のころからずっとだった気がする。ちくしょう、スマートな女になりたいのに…。それは無理な願いなんだろうか。

(March 4, 2009)

Posted by iwaki : 02:28 | Comments (0)


福岡のオアシス

フランスから帰国して、即座に福岡にびゅんと飛ぶ。そして仕事のあいまに『紺屋2023』というとてもユニークなアート雑居ビルを見学する。ここは地元で老舗醤油屋を経営する地主さんが「自分が持っていても有効利用できない建物だから」とアート関係者に格安でアパートをまるごと預けてしまった、このご時世に希有な場所。有志の若いアーティストが築50年のビル全体をリノベーションし、建築家から、インテリアデザイナーから、写真ギャラリーオーナーから、福岡市全体に無料Wifiを流通させようと試みている斬新なIT企業まで、17件のさまざまなクリエイター集団が入室している。なによりもおもしろいのが短期&長期のレジデンシー施設があること。最近ではベルリンのアーティストが1ヶ月滞在していたのだとか。1泊なんと3000円。誰でも借りることが可能とのことなので、福岡にお立ち寄りのさいにはぜひレンタルしてみては。明らかに下手なホテルよりも広いし、ビジネススーツを脱ぎ捨てた風通しのいい気分になれる。徒歩圏内には、Mac Storeや、アメリカンアパレルや、Adidasショップや、のんびりできるカフェもいっぱい。また一階には、知り合いのソムリエ兼シェフが手がけるというイタリアンバルも近々オープン予定で、広々とした屋上ではお天気の日には日光浴が可能。なんだか福岡に移住したくなる。

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(March 2, 2009)

Posted by iwaki : 01:13 | Comments (0)


フランスのメトロノーム生活

東京に比べると人口が1000分の1しかない、フランスの田舎町から昨日帰国。このブルターニュ地方の町は人口の半分が町内随一の病院に勤めていて、あとの半分は病人ーー、というげんなりなジョークもあながち嘘とは思えないほど精気の失せた灰色の場所で、ほんの二日も滞在していれば町のすべてが見尽くせてしまう。まっとうなカフェが町に一個、まっとうなホテルも町に一個。ほとんどのショップには常時「Fermer(閉店)」の看板がかかり、若者の姿もほとんど見えない。あきらかに過疎化が進んでいることがわかる。こういう場所を目の当たりにすると、まだ東京の経済不況の風など甘っちょろいなと思ってしまう。たまには休日においしいものを食べる、たまには好きなブランドの服を買う。そうした贅沢産業がまだ多くの都市部の日本人には行きとどいている。けれど、このフランスの小町ではラグジュアリー産業と名付くものがほぼない。ただ暮らし、ただ働き、ただ生きる。そんなメトロノームのように単調な生活が町のリズムを決めている。同じカフェに行けば、同じ時刻に、同じ客が座っている。同じ服を同じように、気づけば三日ほど着つづけて暮らしている。少し不潔な男性などは二週間は風呂に入ってないのでは、という酸味がかった異臭を漂わせている。まあフランス人は元来風呂嫌いで、あのルイ十四世ですら入浴は年に一度、という記述もあるぐらいだから。これは節約というより文化に近いことなのかもしれないけれど。とにかく人々があまりに素朴にすっぴんに生きていて、自分がいかに恵まれた贅沢を謳歌しながらも「もっともっと」とスポイルドな日々を過ごしているかに気づかされる。東京の人々は「先が見えないから不安だ」と嘆く。確かにいま東京で先行きを考えると、希望がみえず闇にのまれてしまいそうになる。けれど、もしかすると東京の人々は見えない先を見ようとしすぎて、不安の歯車に拍車を掛けてしまっているのかもしれない。未来なんて先なんてさっぱり見えずとも、ボンジュールとボンソワを穏やかに繰り返し、ただ生きる人々が世界にはいるのだ。
十数時間の長旅後、東京の新宿に降り立つ。あたりを見渡すと、一生かけても見切れないほどの店が軒を並べている。電車に乗れば、音楽を聴く人、ゲームで遊ぶ人、携帯電話を弄ぶ人、と誰もがなにかしかの玩具を手にしている。余剰物の洪水、贅沢の嵐。頭がなんだかくらくらする。

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(February 28, 2009)

Posted by iwaki : 00:49 | Comments (0)


コペンハーゲンの人口美

冬色の鈍い太陽が落ちると、ちらちらと静夜に雪が舞う零下のコペンハーゲン。
この町を訪れるたびに思うのは、なんて朗らかで絵本のように美しい世界なんだろうということ。チューリップやバラの花を無造作に束売りする素朴なマーケット、芥子色や若草色や空色の布地を窓にはためかす愛らしいインテリアショップ、近くの海辺から遊びにくるカモメたちが暢気に空を旋回する劇場前広場。穏やかで、平らかで、満ちたりた、暮らしむきの良さがうかがえるブルジョワな香りがあたりを覆っている。

けれど、何かがおかしい。何かが窮屈。何かがきれいすぎる感じがする。と、へそ曲がりな私の「違和感レーダー」が今回の旅では作動しはじめる。よし、ここはひとつ観光地といわれる場所を抜け出してみよう。そんな決意を腹にすえ、ホテルのレセプションで地元人の日常移動ツールである自転車を借りる。そして寒風に負けずびゅんびゅん町中を走りまわってみることにする。巨漢揃いのデンマーク人仕様のため、私では足がほとんど地面につかない真っ黒で無粋な自転車にまたがり、いざ出発。たいがいの奇抜でおもしろいアンダーグランド・カルチャーは「裏路地にある」という定則を信じ、なるべく人通りの少ない裏道を散策してみる。

数十分後、信じたくもない、ひとつの事実が頭をもたげてくる。この町には「裏路地の顔」がほとんどないのかもしれないーー。完璧に舗装された表通りは、土曜日のショッピングをゆったり楽しむファミリーで溢れかえっている。だがそこから一本裏に入ると、ショップやカフェがないどころかあたりいちめんなんにもない。いきなりのっぺらぼうで、無表情で、しらけた空間が現れる。しかも15分も自転車で走れば、シティセンターの賑やかさは完全にとだえて、公園で犬ころのように雪遊びに惚ける子供たちの声が響く静かな住宅街に突入する。美しいシティセンター、平和な住宅街、のっぺらぼうな裏通り。快楽や強慾や絶望が身にまとわりつき、こすってもこすっても垢のようにとれない、負の人間臭さがどこにもない。デンマーク人のみょうに折目正しいポライトな会話術もあいまって、純白のペカペカな美しさが世界の果てまで続くように思える。

夕刻。ちくしょう、全然、闇の顔を見せやがらない、腹の底を割らない町だぜ、と心のなかで毒つきながら、あきらめてホテルに帰ることに。ぼんやりと頭を空っぽにしてコペンハーゲン中央駅を背に、どこかもわからぬ裏通りをぬけていく。と、突然、ポルノ、ゲイ、セックスといったネオンが目に飛び込んでくる。またクミンやらナンプラーやらカレーやらの異国の香辛料が鼻をついてくる。さきほどまでの傲慢なほど輝かしい白人文化とはうってかわって、黄土色の肌の人々がやるせなく疲れた表情でたたずんでいる。あきらかにデンマーク人が見せたがらないデンマークの顔がここにはある。人間臭い負の感情がここにはある。ああ、ようやくなんらかの町の本音に辿りつけたぞ。そんな安堵感が心に浮かぶと同時に、こうした人々は純白の市内中心部から暗に「排斥されている」という残酷な事実も理解されてくる。今日の私は純白世界のド真ん中にある王立劇場での取材仕事を終えてきたばかり。だが、顔かたちは周りの移民社会に溶け込んでいる。なんだか複雑な気持ちになる。

王立劇場やティボリ公園やアンデルセンの待つ市庁舎広場のまわりでは、そこらのなにげないカフェに入っても金髪の美男美女が働いている。ちょっとした洗脳のように、まるで美しいものしかコペンハーゲンにはないように思えてくる。けれど、光や美や豊かさだけの世界なんでどこにもない。幸福の匂いだけで埋め尽くされた国なんてありえない。ただこの町では、おそろしいほど強引に、闇や穢れや不幸といった負の要素が、目に見えぬところに押しこめられている。そして完璧に制御された人工美が、観光客の写真におさまる表通りで勝ち誇っている。

(February 22, 2009)

Posted by iwaki : 17:19 | Comments (0)


心の手綱

旅にでるときはなるべく身軽に行きたい。それは持ち物もそうだし、心も。日本で自分が抱えている、価値観や、雑念や、リミッターを、なるべさっぱり取り払って、埃や垢のつかない襟を正した清潔な心で旅に出たい。日本ではこうしているから、毎日の食事はこうだから、こんな場所は自分のテリトリーじゃないから。そんな心持ちで自分をガードしていると、せっかく出逢えるかもしれない「驚き」をみすみす逃してしまう気がする。心が揺れるとき、ぶれるとき。確かにその瞬間は、自分の足場を見失うかのようなちいちゃな不安感が浮き出てくる。けれど旅の記憶は感情の揺れ幅に比例して、豊かにふくらんでいくように思う。もちろんそれでいて、芯はしっかり。感情が揺れても軸から倒れないよう、根を深く張っておきたい。今日からまた一人旅。行き先は、零下のコペンハーゲンとフランスの田舎町。心の手綱を解き放って、なるべく異国のノイズを敏感に感受したい。

(February 19, 2009)

Posted by iwaki : 11:13 | Comments (0)


車内アナウンスと自由意志

いつごろから電車内はこうも喧しくなったのだろう。子供のころはガタンゴトンと体に響く線路音が遊び疲れの眠気をいざなうほど、もっとずっと静かな空間だった。小田急線の各駅停車など暖かな昼下がりに乗ろうものなら、そのまま泉鏡花の午睡世界に連れて行かれてしまいそうな、夢ともうつつともとれぬ至福のまどろみを味わえた。なのに今はどうだろう。あきらかに都内の人口が大量増加しすぎていることを差っ引いても、あの電車内での増長な「お願いアナウンス」は、あまりに無粋で煩わしすぎる。携帯電話はお切りください、ヘッドホンの音量は低めにしてください、かばんは前に抱えてください。あなたのアナウンスがいちばん耳障りだよ車掌さん、とは言わないまでも、そう心のなかで小さくボヤきたくなるほど、いろいろなマナー情報をご丁寧に訓示してくる。

最近、これらのマナー警報で愕然としたのが、成田空港行きのリムジンバス。携帯電話の使用を控えてほしい、というアナウンスが英語で入るのだが。直訳するとこれがとても奇妙。

「お客様にお願いがあります。
車内での携帯電話のご利用はお控えください。
なぜなら、それは近所の人を不快にします」

うん、確かにそのとおりなんだけれど。ねぇ、最後の一文は必要?
たいがいのマナー警報は、お願い、の時点でとどまる。そのお願いを客が聞き入れなかったときの、被害、に関しての詳細は伝えられない。要は聞く人間はいい大人なのだから、それぐらい自分の頭で判断しろよという話だ。けれど上記のアナウンスは、あきらかに最後の一文で、お願いの段階を飛びこえて、被害の説明にまでぐぐいと踏みこんでいる。
こうなるともう、手取り足取りの幼稚園児への指導と変わらない。

オランダでは、麻薬も売春も安楽死もすべて「自由意志」で選択される。
法律でがんじがらめにして「絶対にダメ」と規制するのではなく、とりあえず選択肢はオープンにしておいて、あとは大人であるあなたたちの自己判断でどうぞ、と。個々人に尺度を委ねきる。そんな放任主義なことでは麻薬中毒患者が爆発的に増えるだろ、と思われるかもしれないが。じつは法律で頑として麻薬の使用を禁じるフランスなどより、オランダのほうが患者数は少ない。こんな自立心の発達した国で、先の携帯電話のアナウンスを流したら「分かってるよ、子供じゃないんだから」と一笑に付されてしまいそうだ。

このまま行くと日本人は、いま以上に、ルールがないと動けない国民になる。そして盲目的にルールに従うことは、自分の欲求を抑制することとなり、生きることへのパワーを低くする。ヴォルテールは「真の欲求のないところに、真の喜びはない」と言っていた。車内のアナウンス程度のことで何もヴォルテールまで引き合いにださなくてもさ、と思われるかもしれないが。なにごとも、小さく些細なことほど大切なのだ。大胆に自己規制されれば、刃向かいようもある。けれど白蟻被害のように些細なところから、徐々に自己を虚勢されていくと、気づいたときには中身はがらんどうかもしれない。

(February 13, 2009)

Posted by iwaki : 23:23 | Comments (0)


福岡で女論

二月のはじめは、福岡。初乗り290円という驚愕の昭和金額なタクシーに乗りこみ、中洲の屋台で、生まれてはじめて日本を訪れたという英国人中年女性と歓談する。彼女の主観話によると今イギリスでは、ミドルクラス以下の若い男たちが、欧州の「女強男弱化」現象に反し、妙にマッチョ化しているのだという。そしてそれに追随するかたちで女子たちは必要以上に過剰露出なドレスに身をつつみ、きゃっきゃとマッチョな男に狩られることに喜びを感じているのだという。70年代にフェミニズム旋風のまっただなかに身を置いて、女性の権利のために必死に戦ったという彼女は「女があんな服装をして男性に媚びるなんて、私たちはなんのために戦ってきたのよ!」と憤っていたけれど。最近の私は、彼女が語るようなひとむかしまえのフェミニズムにはかなり懐疑的。男女同権は素晴らしいと思う。けれど女が男と1ミリの誤差もなく肩をならべ、色気のかけらもない戦闘服を着こみ、私たちは男と同等のことがなんだってできるのよ、と必要以上に牙を剥くのはなんだかむしろ不自然な気が。とくにフランスに行くと感じるのだけれど、女性たちはやたらめったら突っぱらかっていて、男にノンノンと口答えをし、相手を服従させることで、自分のちっぽけなプライドに高下駄を履かせているような気がする。でも男という生き物は、女にほほえまれ育まれ認められ、はじめて自律できる弱きもの。四六時中ノンと言われ、私のいうことを聞きなさいよ、とあごで使われた日にはーー、その男の雄としての大らかな魅力がひらかないように思う。先月取材した賢女ジュリエット・ビノシュがくしくも語っていたように「女が男を許容すること」は「女の弱さではなく強さ」の象徴なのだ。
ただ話を前出の現代イギリス社会学に戻すなら、だからといって女性が自分の「性」を商品化して、露出過多な服装で、男にそれを売ろうとするのは安っぽい娼婦の行動と変わらない。娼婦になるのも、戦士になるのも、どちらもとっても極端すぎる。それに男からの反動で行動が取られているという意味で、どちらも女として自由じゃない。ただもし生き方としてどちらかを選べと言われたなら、私個人は、相手を受け止め、会話に耳を貸し、色気を磨きつづける娼婦の賢さのほうに、より女性ならではの知があるように思える。女は女、男は男。それが楽しくて一緒にいるんだから。やっぱり性は無化すべきじゃない。


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(February 5, 2009)

Posted by iwaki : 00:31 | Comments (0)


信頼度数

「いま、最も信頼できる人は誰ですか」

世論調査で、この問いを
既婚者と未婚者の双方にたずねた。

未婚者の回答は、母親と父親がともに3割強。
パートナーと答えた人は、男女ともになんと1割未満。

これに対し既婚者の回答は、
両親と答えた人間は1割未満で、
パートナーと答えた人が8割強。

このデータを読んだとき、素朴な疑問がわいた。
1割未満という低い信頼度数が
8割強という高い信頼度数に変わる、
その瞬間はいったい、いつだ。

結婚したら優遇者が大切な人になる。
確かにそれはそうなのだろう。
だからといって「はい、今日から夫婦です」と入籍したら
とうとつに、無条件に、考えなしに、義務的に、
親よりもパートナーを信頼するのか。
もちろん、そんなことはありえない。
絶対にそこには、端境期というものがあるはず。

気になったのでまわりの既婚者数人にたずねてみた。
返ってきた答に共通していたキーワードは「物理的時間量」。
つまり親といる時間量よりも、
パートナーといる時間量がうわまったときに
「親 vs パートナーの信頼関係」が逆転する。単純だ。

しかし本当に人間の「信頼」は、そんなに単純なものなのか。
一緒に過ごす時間がどれだけ長いかで決まるのか。

個人的な考えでは、
何十年一緒にいても、どうにも信頼が築けず溝ばかり深まる人もいる。
たった1週間の間柄でも、この人は信頼できると心を開ける相手もいる。
つまり20年来の友人への信頼を、1週間のつきあいの他人が、
うわまわることもある。
そこには相対的な時間量とは関係のない、絶対的な尺度がある。
残酷な考えかもしれないけれど、私は素直にそう思う。
とにかく「信頼」は、そんな単純なものじゃない。

(January 27, 2009)

Posted by iwaki : 01:02 | Comments (0)


官能的なローマの蓮

世界に紗幕がかかったような煙雨。ローマのチャンピーノ空港で、天候不良のため数時間、空港ロビーで待たされたことがある。運悪くパソコンのバッテリーが切れる。降りそそぐ多言語が気になって、集中して本を読む気もおきない。そこでしばらくぼんやりと、まわりの人間観察をすることに。

肉厚な手で携帯電話をつかみ、今にもカンタータを歌いはじめそうな大声で仕事相手に遅延事情を説明するでぶっちょのビジネスマン。チョコラータをゆったり口に含みながら「いつ飛ぶのかねぇ」となんだか暢気に談笑する老夫婦。ニコチンが切れそうなのよ、煙草を吸わせてよ、どうなってるのよと紅色に染めた髪を振り乱しながら係員にキツツキのように文句をいう熟年女性。外国での人間観察は、見慣れないぶんおもしろい。飽きることなく、次、次、次、と人々に目を走らせていく。ふと、自分の右前方10メートルほど先に、今まさにフェリーニの映画から飛び出てきたような「官能的」としか形容しようのない男女を目撃する。年齢はおそらく共に四十手前。特別な美男美女というわけではない。が、なんだか向こうから闇夜の香気が漂ってきそうな、不思議なヴェールが彼らを覆っている。身体の曲線美がよく映える漆黒のスーツに身を包んだ女性。意志のある細い指で、書物のページを淡々とめくっている。なにか一文が気になったのか、めくるリズムがあるとき止まる。紅で整えられた口角をあげて、男性の耳もとにささやきかける。一瞬、本を覗きこむ男性。そして、声を発することなく目だけで女性に愛をかえす。

こんなに官能的な男女に出逢うことはめったにない。特に女性は、露出が高くダイレクトに色っぽいお姉さんはよく目にするけれど。官能的、というセンシュアルな形容詞が適切な女性にはあまり出くわさない。

ちなみに女性が性交のさなかに火照った身体から放つ自然臭のことをフランス語で「オドゥール・ヴォルプタチス」と言う。そして、これはどれほど過激にセクシーな服装で異性を誘惑するよりも、いやがうえにも、男性の官能を燃えたたせるという。空港で目撃したセンシュアルな女性が、どんなパルファンをつけていたかは、至近距離まで近づかなかったので分からないけれど。私の想像のなかではこの女性がうっすらと、オドゥール・ヴォルプタチスの残り香を、知的な装いの下に漂わせているように思えた。

そういえばインドのカーマ・スートラでは……最初に考えついたやつは女性にこっぴどく怒られただろうが、愛液の匂いで、女性美を四段階にわけたと聞いたことがある。最高の女は、蓮の香りーー。

まあ蓮の香りがするかは別として、確かに官能的な女性たちは、顔かたち以上に、なにか不思議な美しさを匂いとしてまとっている気がする。それは別にその人の香りを嗅ぐと即セックスを連想する、という直接的なものではない。確かにそれは性の匂いではあるのだけれど、どちらかというとより婉曲表現。料理にしのばせたひとつまみのクミンのように、知らずのうちに人をその味で虜にする。と、そんなむだに色っぽいことを、ローマの空港でひとり妄想する。待つこと数時間、空を覆っていたオドゥールのような濃霧は晴れて、機体は空に飛びたった。

(January 25, 2009)

Posted by iwaki : 01:33 | Comments (0)


海外旅行の3Kと体験知

二十代の海外旅行者数がこのところグングン減っているという。これはもちろん今の経済動向と無縁なことではないだろうが、それ以上に、インターネットで済まして「行くのが億劫になっちゃう男女」が多いらしい。ただこれはある旅行会社の広報担当者からの伝聞情報。果たして本当のところはどうなんだ? と、実地に話を聞いてみることにする。さっそく二十歳を迎えたばかりの男の子をつかまえ雑談してみる。なんで海外旅行が好きじゃないの? すると、とんでもなく単純な答えが返ってくる。

「金がかかる、危険、(外国人が)怖い」

まるで<海外旅行の3K>とでも命名したくなるような、明解なる答だ。

最初の金がかかる、これは分かる。確かに家にいるよりも海外旅行は遙かに金はかかる。そして二番目の危険というのも、とても安全な日本からみれば、たいがいの外国地域は危険の部類に入る。まあ日本人の危険閾値は低すぎるから、もう少しタフになれよと説教もたれたくなるが。そこはグッと我慢する。だけど、さすがに物申したくなるのが三つ目。外国人が怖い。いや、もう鎖国時代じゃないんだから。とって食われるとでも思っているのだろうか。ちなみによくよく話を聞くと、彼は、外国すべてを総括してただ漠然と「怖い」と思いこんでいる節があり。外国で外国人に外国語で話しかけられると、思考のスコトーマ状態に陥るらしい。ちなみに彼の海外旅行経験は、人生合計2回である。

で、結論としては、金を無駄にかけ、危険にびくつき、外国人に緊張しぃしぃ、旅行するぐらいなら。日本でゆっくり茶を飲みながらインターネットで情報を得るということになるらしい。まあ筋は通っている。

確かにインターネットは便利だ。私もとてつもなくお世話になっている。広辞苑やブリタニカ百科辞典を調べるよりも先に、ついネットのWikipediaをYouTubeを見てしまう。けれど、いつも思うのはそこに書いてあることの信憑性。歴史から科学から日々の社会的ニュースに至るまで、これは本当にそういう話なの? と、どうしても記述の裏を知りたくなる。「自分の目で見るまでは信じない」じゃないけれど。どれほど多くのデータを使って丁寧に説明されていても、主観はつねに介在しているもの。ならば身を以て体験して、自分の主観、で話の筋を構築していく。そうすることで初めて自分なりに「わかった」と言える気がするのだ。

答を知ることと、答を見つけていくこと。これは完全に別の「知」だ。
話を前述の海外旅行の3Kに戻すと、確かにインターネットでも海外情報の多くの答を知ることはできるけれど、それは実地にフィールドワーク的に体験して「わかった」といえる知とはまったく別物な気がする。

頭脳知の「Knowledge」と、体験知の「Savvy」。
ともにバランスよく必要なものではあるけれど、このままいくと日本人のSavvy力は、衰えていってしまうかもしれない。

(January 19, 2009)

Posted by iwaki : 01:13 | Comments (0)


アートの真価実験

冬晴れの清々しさのなか大粒の雹がにわかに降る、という不気味な天候変異に見舞われた成人の日。えいやと重い腰をあげ都内某美術館を訪れる。傑作もあれば駄作もあり。正直、ピンキリのキリのほうは「美術館に飾ってある」というフレーミングがなければ、屑かごにポイッと捨てられてしまうのでは、誰もアートとして認識しないのでは、という眉唾な代物もあった。でもそんな作品の前でも鑑賞者はふむふむ感心している。こうした光景を目のあたりすると、いったい芸術の価値ってなんなんだろうと漠然と疑問がわいてくる。人はアートの何を見て、いったいふむふむ頷くのか。いったい何を根拠に美しさを評価するのか。いったい何を感じて心を震わせるのか。

この流れで今日ここで話したいのはワシントン・ポスト紙に掲載された記事。いろいろなサイトに情報が出まわっているので、既に聞き及んでいるかたも多いかもしれないが。この米国有力紙はジョシュア・ベルという今や飛ぶ鳥を落とす勢いの世界的バイオリニストの協力を得て、ある子供のイタズラのような実験に出る。実験ミッション=「芸術はコンテクスト抜きでも人に理解されるのか」。要は美術館に飾ってある、名のある芸術家である、批評家が新聞で誉めている、という外的要因をすべて取り払ったところでも、芸術の真価は同じように人に伝わるのか。という、そんな実験だ。

ある朝、ジョシュア・ベルは、くたくたジーンズにベースボールキャップという、いわばそこらのぱっとしないストリートフィドラーと変わらぬ装いで、ワシントンDCの地下鉄駅構内に立つ。時刻はラッシュアワー。官公庁が近いため、ブランドスーツに身を包んだ、エリートサラリーマンが足早に改札をくぐりぬけていく。改札手前のある一角で、おもむろに、何億という市場価値をもつストラディヴァリウスを取りだすベル。ほんの数秒の気まずいチューニングののち、一曲目、渾身のバッハのシャコンヌを駅構内に響かせる。果たしてどれだけの人が、あきらかに尋常レベルを越えた彼の演奏に歩を止めるのか。結果はーー、惨憺たるもの。43分の演奏中、たった7人が立ち止まり、27人が小銭を投げ入れ、あとの1070人は彼を黙殺し無表情に改札を通りぬけていった。

この結果を知るといったいどれだけの人が、事前情報ゼロ、知識ゼロ、外的要因ゼロの、フラットな環境のなかでも芸術そのものの美しさを「感じる」ことができるのだろう、と頭を悩ませてしまう。多くはまわりの意見に右にならえして、人がいいと言うものを考えなしに「いい」と思いこんでいるだけではないのか。あるいは学習した芸術史の文脈になんらかのかたちで則すかたちで「知識的にいってこれはいい」と数学の計算式を解くかのごとく論理的判断を下しているだけではないのか。ダンスや演劇を見まくる仕事をしている私でも、そうした「コンテクスト情報」に頼っていないと言いきる自信はまったくない。

アートと鑑賞者が素っ裸の状態でがちんこで向きあう。そこで頼れるのは、アーティストの力と鑑賞者の力のみ。その完全フェアファイトな闘場でも、真価を伝えることができるアートがどれだけあるだろう。あるいはその真価を受信することができる鑑賞者がどれだけいるだろう。あまりペシミストすぎる予想はしたくないけれど。正直いって共に数はそう多くない気がする。となると巷間をにぎわす芸術の真価って、いったいなんなんだろう?

The Washington Post http://www.washingtonpost.com/

(January 13, 2009)

Posted by iwaki : 00:57 | Comments (0)


落語社会学

立川談春さんの落語会に足をはこんだ。めったに落語は聴きに行かないのだが、今回はご本人に取材した関係で、即日完売だという独演会に、幸運にもご招待いただいた。銀座のブロッサムホールは二階まで鈴なりの満席。客層も世間一般の寄席のイメージとは異なる、老若男女いりまじった構成。ミュージカルやバレエなどの公演に比べるとむしろ客のバランスがとれている。客電があえて落とされた会場で落語に興ずるという体験は初めてだが、それだけ観客も集中して闇のなか噺家に耳を傾けていた。

談春さんは咽頭ポリープの術後だとは思えない覇気にみちた口跡。口先よりも想いが前につんのめるような衝動的なしゃべりが印象的。まるで「ここにいる客全員を、今晩、俺のものにしてさらって帰ってやる」と腹の底で吠えているような骨っ節で、のほほんとしたイメージの落語とは相反する、怒りにも似たプラズマ波動を終始放射している。おのずとこちらも理屈というより、節まわしや勢いでぐいぐい引き込まれていく。

しかしここで書きたいのは、失礼ながら談春さんの芸とはまったく関係のない話。あえて端的に語るなら、落語とは非常に日本的なものを扱う芸能なのだなと改めて感じたということ。何をいまさらと思われるかもしれないが。これは別に八五郎や殿様や長屋の大屋さんといった、一昔前の登場人物が描かれるから云々という表層的事象について言いたいわけではない。ただここで描かれる精神がゆるぎなく"現代"日本的なのだ。

当日は『妾馬』という世間からある種ドロップアウトした我が道を行く主人公が、殿様の世継ぎを産んだ器量良しの妹に会いにてんやわんやの登城を果たすという噺が披露された。だがこの噺のスジがどうにもこうにも、最後まで私には納得がいかない。なぜなら「結婚しない、嫁ももらわない、俺はそれでいいんだ」と清々しくゴーイング・マイウェイに生きるように見える主人公の男が、いきなり終盤になってコロッと「俺はこんなだから親孝行のひとつもできないんだ」と世間的な価値観に寝返って自分を否定的にかえりみるのだ。この噺のなかで唯一、世間よりも自分の価値観を強く信じて自由に生きるように思える主人公だったのに。最後の最後で、ものすごく平凡な価値観の、ものすごく平凡にいいことを言って終わる。で、これに客は感動の涙を流す。けれど私には正直、ちょっぴり残念な結末に思えた。至極バイアスのかかった乱暴なまとめ方をするなら、とても自分の想いに純粋な個人主義的な生き方が、世間一般に善しとされる最大公約数的な生き方に呑み込まれ「めでたしめでたし」と終わったように思えたのだ。

ここから論を飛躍逸脱させると、なぜ現代日本で落語が流行っているかが自分なりに見えてくる。いまは経済破綻だ、不況地獄だ、首切りだ、といろいろ足場が危うい世。すると人はおのずと「安定」に走る。こんな時代だから仕事があるだけでもいい、という言葉を昨年から何度耳にしたかわからないが、なんて保守的な自己肯定だろう、とそのたびに私は時代の影響を思わずにはいられなかった。いずれにしろ、人心の針はいま安定の方角にぐいと向いている。すると、良くも悪くも同調性の高い日本人はより互いに同調して生きるようになる。世間的にアベレージな道を行くことで、平均値な幸せだけはなんとか死守しようと努める。そしてその結果、ちっちゃな幸せとちっちゃな不幸せを、つつがなく、平凡に、温かな眼でつむぐ落語の世界に魅了されていく。どうだろう。まあ落語にもよりアウトローな演目はあるのだろうし。私は社会学者ではないのでこれは完全に勝手な憶測にすぎない。けれど今日幸せな笑いに満ちた会場に二時間身を置いてみて、肌身で、今の時代が落語的なる生き方を求めているように思えた。

(January 10, 2009)

Posted by iwaki : 00:05 | Comments (0)


幸せアレルギー

「地球上でいちばん大切な人を、自分以外に探すことができたの」

三十九歳のアンジーは、軽やかにこう口にした。
イタリア、スペイン、アメリカ、シンガポール、ニッポン。
この世にあるのかもわからない<理想の愛>を見つけるために、彼女は世界中を旅してきた。陽気な彼女のかたわらにはいつもふわりと男性が寄りそってくる。けれど彼女の心には、ぽっかりと大きな穴。ローズ・ド・ニュイ(夜の薔薇)の香水に溺れたイタリア人との甘美な愛も、バルで夜な夜な歓談に酔いしれたスパニアードとの陽気な愛も、東西の哲学議論にあけくれたシンガポール人との刺激的な知性愛も、どれもこれも、季節が二度巡るころには終わりを告げていた。彼女がいつも欲したのは、特大の無償の愛。求めて求めて求めて、世界の街を旅しつづけた。

けれどある冬、地元に帰郷し、彼女は不可知な愛に出逢う。「ファックスロールよりも長い理想の男性リスト」には八割方チェックがつかない相手なのに、なぜか、心がはなれない。ある意見を言えば、彼は違う見解をかえす。以前ならそれにいちいち腹を立てていた。けれどいまは視点が二つあることが逆に喜びを倍加させる。独りでいると会話が濁らないけれど、二人でいると会話が止まらない。そこでアンジーは一昨年の大晦日の晩、ガレージで車のエンジンを止めるとともに、理想の男性リストを破り捨てる。そして彼の胸に飛び込む。気づけば初夏の緑が輝くころには、しゃちほこばった条件リストの存在などきれいさっぱり忘れていた。ああ、私は本当に彼を愛しているんだ。間歇泉が吹き出すように、エネルギーが心奥から解放される。以来、彼女の毎日は、発見と驚きと喜びの連続。彼女は言う。

「ようやく私は気づいたの。愛は二人で作りだすものだって」

けど天の邪鬼な私は「そんな愛のクリシェには騙されないぞ」と、すぐさまこれに呼応しない。「もしそれが本当なら、あなたは今すごくハッピーね」と偏屈な疑問を投げ返す。

すると彼女はうぶな少女のような笑顔でうなずき、一拍おいて、現代女性ならではの愛の混乱に充ちた言葉を加えてくる。「でもハッピーすぎて怖いのよ」。なんたる贅沢。心のなかの小鬼がつぶやく。だが、どうやら彼女は嘘なくハッピーを恐れているらしい。だからいまの彼との生活が万事うまくまわりはじめてから、幸せになるほど不安に駆られ、喜びが多いほど心配に襲われ、結果、四肢の皮膚が日々荒れどおしだという。ほらね。そう言って空色のセーターの袖をまくると、熟しきった苺のような湿疹がそこらじゅうに浮き出ている。

「私は幸せアレルギーなの」。アンジーは妙なことを言う。

彼女が実際のところなんのアレルギーかはわからない。でも彼女自身は自分の体が、断固、幸せに拒絶反応を示していると信じている。いったいこの世の男女の愛は、どれだけ複雑になればすむのだろう。

男がいる女がいる。
互いが互いのことを大切に思う。
ただ好き、見ていたい、理解したい、助けたい。
その気持ちを臆面もなくさらけだし、相互に素のままの相手をいちど受けいれ、より豊かな愛を育む営為に向きあっていけば、関係性はふくらんでいくのではないか。私はそんな素朴な卵のような愛が、この世からまだ絶滅していないと祈りたい。

私は幸せアレルギー。
愛の現代病をアンジーから告白された夜。私は自宅に帰り、枕に頭をうずめ「いったい愛ってなんなのさ」と、ぼやきながら疲れた眠りをむさぼった。

(January 9, 2009)

Posted by iwaki : 23:10 | Comments (0)


昼/夜

昼/夜/昼/夜、とずっとひとりで仕事をしている。ほぼ、しゃべらない。
頭のなかで、思考だけがぐるぐるぐるぐる回転し気が急いていく。
この思考の坂を気分のおもむくままに転がっていくと、たいがい良い場所に着地しない。
それは昨年一年の実体験で立証済み。なので、とりあえずゴロリ、
と不吉な音がして負の岩が転がりはじめそうになったら、いったん深呼吸。
そしてプラクティカルな実務に集中する。
アエラの記事を書かなければ、
今後の海外出張の予定をたてなければ、
新連載の企画ミーティングの準備をしなければ、
会いたい人に会うために食事のセッティングをしなければ。
そしてないものねだりをあまりせず、今の自分ができることに集中する。
すると、自分はこんな歩幅でしか歩けない人間なんだからしょうがないかー、という
すこーんと青空に突き抜けるような、巨大なししおどしのような、バカな快音が心に響く。
24hフルパワーで稼働する大都市東京の外部刺激に惑わされず、
穏やかに自分を静観して日々を過ごそう。

(January 8, 2009)

Posted by iwaki : 01:10 | Comments (0)


2009年のはじめに

新年です。あけましておめでとうございます。
昨年は皆さんにとってどのような一年だったでしょうか。

私個人としては、とても変化に富んだ充実した一年でした。
こんなに人間らしく欲望と衝動に従って生きた一年も
今までなかったのではないかと思います。
それぐらい必死な春夏秋冬でした。

人生に変化を求めるとき、
ミスなく最短の登頂ルートを進める人もいるのかもしれません。
けれど要領があまりよくない私は、右にぶれ、左にぶれ、また右にぶれ、
一つの正しい選択を下すために三つはバカな選択をして進んできました。
そのぶん、いろいろ痛い目にも遭いました。ぶさいくな恥もかきました。
でもすべては自己責任で選びとった決断だったと胸を張って言いきれます。
まさにがんがん四方の壁に体当たりして、
痣だらけになりながら学ぶ一年だった感じです。

そのかいあって昨年一年で、
人として少なからず成長できたように思います。
とはいえ、まだ私は本当に信じられないぐらい未熟者なので。
これからも自分の生き方に責任を持てる決断を増やしていきたいです。

いちばんの収穫は、こうありたい、という自分に少し近づけたこと。
そして昨年に負けず劣らず今年も楽しみたい、と怖いながらも希望を持てること。
半年後の自分がどうなっているか分からない。そんな一年がまた幕を開けます。

ノーリスク、ノーライフ。

今年もスリリングなリスクを恐れずに背負いながら、
人生を切り拓いていければと思います。

(January 1, 2009)

Posted by iwaki : 12:13 | Comments (0)


年の瀬の家族

年の瀬。普段は個人単位で生活が成りたつ大都市東京でも、この時期ばかりは外を歩くと、家族・夫婦・カップル単位で行動する人々が視野に飛びこむ。そして私はそうした人たちを目にするたびに、心の奥底から、いったいどうやって……という疑問におそわれる。

「いったいどうやってこの人たちは、一緒にいつづけているのだろう」
「いったいどうやって自分自身でいながら他者と生活を共にしているのだろう」
「いったいどうやって互いの愛を保ちつづけているのだろう」

そんな野暮な疑問とともに、のんびり街を闊歩する彼らの深層心理が知りたくなる。そんなおり、ある記事のためにネット調査をつづけていたら、おもしろいデータにたどりついた。内閣府が毎年実施する「国民生活選好度調査」。この調査が近年<個人の自由>について集計をとったところーー「秩序を保つためには個人の自由を多少制限するのをやむをえない」と回答した人が87.9%、そして「家族のために自分が犠牲になってもやむをえない」と答えた人が71.2%いた。

この回答から何が読みとれるか。
まず、個よりも和を尊ぶ日本人の美意識が端的にあらわれていること。また個人単位主義よりも家族単位主義がまだおおかたの人のなかでは根強いということ。そしてこうした調和意識は、一長一短あるにしろ、まちがいなく日本の安全性とインフラを促しているということ。あえて論を飛躍させるなら、ひとりひとりの人間が少しずつ「犠牲」を払うことで、家族の和と国家の和が保たれているというわけだ。

もちろん「和」が保たれるのは素晴らしい。けれどそれと同時に「犠牲」というあまりにも強烈な単語を耳にしてしまうと、その心理の奥の隠約の波乱を、懐疑的に読み取りたくなってしまう。実は世間的な道徳規範で本心をこぎれいにラッピングしているだけじゃないのか。実は犠牲が義務だと思ってしぶしぶ行っている人が多いんじゃないのか。いったいどれだけの人が納得づくで気持ちよく犠牲を払っているのだろうか。

「本当はこうして欲しいけど、しょうがない」
「実際はこうしたいけど、あきらめよう」
そしてもし仮に、その三拍後に「自分は犠牲を払ってるんだから、感謝して欲しい」
というわけのわからぬ傲慢さが顔を覗かせるのだとしたら、
この犠牲はあまり幸福な感情回路を導いていない。

理想論かもしれないけれど、私は、本当に愛する人のためなら何をしても「犠牲」とは思わないでいられると思う。どんなに傍目には自己犠牲的に見える行為であっても、時間や資本を無意味に浪費しているように見えても、本人は笑顔で能動的にその行動にまっすぐに向かうことができるはず。というかもし家族やパートナーを真摯に愛していながら、その人のために自分が「犠牲になるのもやむをえない」と思ったとしたら、そんな哀しいことはない。だからもしどうしてもこの文脈で「犠牲」という言葉を用いりたいのなら、人は納得づくで積極的に「ハッピーな犠牲者」になるべきだと思う。と、また勝手に口調が熱くなってしまったけれど。そんなことを大晦日にひとり思う。来年もこの身勝手ブログを、よろしくお願いします。

(December 31, 2008)

Posted by iwaki : 13:27 | Comments (0)


無作法と無思慮

 最近、気になる単語がある。"polite"という英単語だ。これは直訳するなら「礼儀正しい」「愛想がいい」「態度が丁重」といった意味。標準的な日本人の感覚からすると誉め言葉に取られるだろう。けど実は国によっては「He is polite」という形容は逆に、上っ面だけ調子がよくて腹の底が知れない嫌なやつ、というマイナスな意味になる。いったいポライトは良いことか悪いことか。このところ、人のポライト具合が普通以上に気にかかる。

 さて、季節は師走の忘年会シーズン。私もいくつかの恩義を感じる会に出席した。かなり久々に不特定多数の人間が集まる場に顔を出したこともあって、雑駁な会話のノイズにいろいろと驚かされた。なかでも改めて愕然としたのは、標準値・最大公約数・アベレージな会話の場をかっさらう豪腕な恐ろしさ。誰が何を取り決めているわけでもないのに、なんだかその場には「暗黙の会話法典」のようなものが定められていて。その宴の場で話の俎上にあげていいのは、主に仕事、次に病と食、少しがんばって家族の話という規約になっている。で、その法典を犯して不当に突っ込んだ会話をしようものなら、面倒くさい異端児め火刑に処すぞ、みたいな白眼視にさらされることになる。

 もちろん私もそれなりに大人になったので、さほど火の粉を無駄に振りまく幼稚な蛮行を犯すことはなくなった。けれどたまに気を抜くと、ほんの些細な会話のfaux pas(ミスステップ)を踏んでしまうことがある。先日実際にあった小事故は、中年男性に趣味の話をふったとき。「まあ寝てるぐらいかなー」という半笑いの答がかえってきて、それを完全にジョークだとふんだ私は軽く笑いあいづちを返しつづく答を待っていた。だがそれ以上の返答が彼の口から発せられることはなく、数秒の息の止まるような沈黙後、場は冷ややかな雰囲気に包まれた。こうなると私は完全にimpolite=無作法な輩である。

 もちろん私も郷にいれば郷に従えで、あえて無作法な会話を試みようとは思わない。けれどこの「ポライト会話術」には、実は大きな欠点がある。恐らくこの会話術を何の疑いもなく至上命令として身につけ、それ以上高等な会話法を身につけようと努力しないと、のちのち恐ろしい事態を招くことになると思うのだ。つまりーーいざ真剣な会話を真剣な席で迫られたときに、無作法ではないが思いっきり無思慮な答、を返してしまうことになると思う。これはたとえばテレビ番組などで貧乏舌な芸能人が、何を食べても「おいしいおいしい」を連呼するのと同じことで。確かにおいしいと語るのは無作法なことではないけれど、魂を賭して創られた芸術的キュイジーヌに対しての賛辞としては、工業用バキューム機で料理を丸呑みするようなもので、粗暴で無思慮すぎる言葉であるように思う。
 
 社交場での「へぇー」「いいね」「おもしろい」。こうしたポライトな相づちは確かに会話の潤滑油にはなる。けれど時と場合によっては、相手を唖然とさせるほどの無思慮さを露呈することに。そして今の私には、無作法さよりも無思慮さがとても恐ろしく思える。

(December 26, 2008)

Posted by iwaki : 00:41 | Comments (0)


Festival d'Automne 2

フェスティバル・ドートンヌ関連の連続ブログを書こう書こう書こう、と意気込んでいたら旅の疲れから風邪をひき。寝込んでいるあいだに、熱にうなされるままに、私の好奇心の矢はあちらこちらに散らばりつづけ。気づけば、まったくドートンヌとは違うことについて書きたくなってしまった。ので、とりあえず今日は思考のお掃除ということで、ドートンヌ関連のことを備忘録程度に書きとどめておく。

それなりにきちんと観たものとしては、
(1)ポンピドゥーで上演されたRégine Chopinot の『Cornucopiae』
(2) La Ferme du Buissonで披露されたBruno Beltrão の『H3』

(1)ショピノはゴルチェなどとの衣装コラボでも有名なフランス人振付家。私が観た作品も、あえて性差や個別差をなくしてみせる宇宙服のようなコスチュームが凝っていて、その衣服をまとったダンサー10人ほどが有機的にゆっくりとフォーメーションを変えつづける、という最初30分ほどの視覚的インプレッションはそれなりに整えられた美しさをたたえていたのだが。残念ながらその第一印象からの視覚的・思考的・身体的な広がりがあまりなく、全体を通して「雑駁な思考の切片をあつめて一本の舞台を作りました」という感じでアートとしての強度は低かった。

(2)ベルタオは現在二十代後半の若いブラジル人コレオグラファー。ヒップホップの動きをコンテンポラリーダンスに適応させたことで、いまどこのフェスティバルでも若手筆頭株の売れっ子だ。評判どおり感心したのはヒップホップダンサーの風来坊な身体をガラス細工のようなディテールまで抑制してみせた職人的手腕や、エゴを剥きだしにするヒップホップのアチチュードを薄衣で覆って個人力よりも集団力でみせるコレオグラフを作り上げたこと。ただこれらの美点は裏を返せば、ダンサーのプリミティブに躍動的な身体美を去勢し、個々の体が生みだす情報量を漂白洗浄してむりに人工的な型を押しつけたともいえる。なので美点も五分なら欠点も五分。まだ若いので将来的に化けてくれることを期待したい。


Régine Chopinot/Cornucopiae http://www.cornucopiae.net/

Bruno Beltrão/Grupo de Rua de Niterói  http://www.grupoderua.com/


(December 23, 2008)

Posted by iwaki : 01:07 | Comments (0)


Festival d'Automne 1

今月はパリにて取材がてらFestival d'Automne(フェスティバル・ドートン
ヌ)関連のステージやエキシビションを悠々自適に見てまわった。フランス
で37年間つづく老舗フェスティバルということで、結構、他にはないユニ
ークな創造物が観られるのではという期待もあったのだが。結果的には私
が目にしたものに関しては総じてクオリティは高いものの、強烈な衝撃波
を食らう、というほどのものは少なかった。


Ryoji Ikeda / Installations 「V≠L」@ Le Laboratoire

  アーティスト×科学者の垣根を越えたコラボを主目的に昨年開場した、パリのギャラリー「ル・ラボラトワール」。ここで日本人コンポーザーの池田亮司とハーバード大学の数学理論家ベネディクト・グロスによるインスタレーションが披露されていた。数字を究極美と捉えることから始まり終わる、あまりにミニマルなこのインスタレーション。穏やかな闇に覆われた暗室的空間に厳粛に入室すると、鑑賞者のひざ丈に、4mはあると思われる2枚の巨大なホワイトボードが寝かされている。興味津々にそのボードに近づくと、係員に虫眼鏡を手渡され、0.8mmのミクロ文字で印字されている、無数のデジタル数字を覗き見るよう指示される。説明によると、一枚目のボードには世界で何番目かに大きい700万2300桁の素数が刻まれ( A Prime Number, (2008) )、もう一枚にはコンピューターアルゴリズムでランダムに産出された700万桁のディジットが載るらしい(A Natural Number, (2008) )。素数は数学者にとっては宝石のように貴重なもので、ランダムな数字は無意味なもの。けれども数学的知識の皆目ないこちらにとってはまったく同じ視覚的要素しか伝わってこない。緻密で、シンプルで、エレガントで、不可解、という意味では実に池田亮司らしい作品なのだろうが。コアな池田ファンでもないし、数学オタクでもないこちらとしては、基本的には板に数字が印字されているだけなので「だからなにが美しいの?」と物申したくもなる。ラボラトワール=研究室という名の空間で見せる「アートと科学の境界線に挑戦する」作品としてはふさわしいのかも知れないけれど。個人的には象牙の塔で考案・思考・創作され、こちらが知識武装しなければ伝わらないアートはあまり好きではない。"闇"のなかに寝かされた数字を解読する上記二作品とは対極的に、隣室には、まばゆい"光"の回廊 Spectra III (2008)が展示されていた。

CF021456.jpg


Le Laboratoire
4, rue du Bouloi, 75001 Paris
http://www.lelaboratoire.org


(December 18, 2008)

Posted by iwaki : 00:59 | Comments (0)


アイソレーションと脳劣化

この仕事に従事していると、どこにいても基本的に独り。同僚や同族というものがいないため、海外取材に行っても「ウェルカム」と迎え入れてくれる人もいなければ、日本に帰ってきて「ただいま」というべき人もいない。だから外国のホテルにいようが、日本のアパートメントにいようが、いつも同じように空気が乱れぬ沈黙状態。言語や環境は違えど、さほど意識が変容しない。いうなれば人生のすべてが「仮住い」のような現実感の薄さに襲われる。このどこか地に足のつかぬ浮遊感は、束縛がなく生活の垢がつかない、という意味では非常に心地が良いものであり。誰とも深くきりむすばない根無し草という意味では不安なものでもある。まあ個人的に「生活臭」というものを身にまとうことをあまり好まないので。どこかに根をおろし、結婚、子供、ディズニーランド、受験、年賀状、スーパーの安売り、といったお手軽な日常に染まるよりは自分の性分にあっているのかもしれない。どこかで自分の精神が、手慰みの社交よりも、孤独を選んでいるところがあるようにも思う。

ただ最近ふと疑問に思ったことが。あまりにも独りで居続けると、脳の回転速度が落ちていく気がするのだ。ある種の人間は生物学的に放っておくと、孤独に向かう習性があるらしいが。その本能に甘えてずっと独りで居続けると、脳がどんどん同じルーティーンの思考回路しか使用せず萎縮していく感覚がーー実感としていまの私にはある。

そんな疑問を漠然と抱いていたら、まさにこの謎を科学的に説き明かしてくれるドキュメンタリー番組をみつけた。今年初旬にBBC TWOで放映された『HORIZON』というテレビ番組。ここでは6人のボランティア視聴者が、まるまる2日間48時間のあいだ、視覚・聴覚・体感覚のすべてを遮断された完全密室に監禁されることになる。まさに作家ブライアン・キーナンがベイルートで体験したのと同じ"アイソレーション状態"を強要されるわけだが。この実験結果からは、予想を遙かに超える驚きの事実が明らかになった。まず多くの人が二日目以降に、幻視や幻聴を体験する。また暗室から解放された人のほとんどが、記憶体系のが異常劣化を実感する。ある人は監禁から解き放たれた直後に「Fではじまる単語を答えてください」と言われ、一単語も思いつくことができなかった。ちなみに概して女性よりも男性のほうが、監禁の事後症状を端的にあらわに。やっぱり女のほうが環境的順応性が高いらしい。

さてこの番組結果から導きだされる推論とは、人の脳はなんらかの刺激にさらされていないと「即座に劣化する」ということ。つまり使用されない脳は、錆びついた自転車のように、回転速度が遅くなるということだ。かのアリストテレスはこうした科学的根拠が立証されるはるか以前に「人間は社会的な生き物である」と語ったが。これぞけだし至言。人は人としての知的水準を保つために、社会的環境に触れつづけて生きることが物理的に必要なのだ。

もちろん私はこの年齢で、脳の劣化などという恐ろしい症状に襲われたくはない。だから独りで居続けるという仕事形態を変えることはできないけれど、なるべく日常的に未知なる人に会い未知なる会話を開拓できるよう心掛けたい。刺激係数の高い日常を送るほど、脳の知能指数はあがるのだ。

(December 12, 2008)

Posted by iwaki : 10:56 | Comments (0)


光のアルペジオ

初台のICCで開催されている『ライト・[イン] サイト』に足をはこんだ。
光と視覚をテーマにするこの展示会は、ただぼんやり、その場に並べられている物体を眺め鑑賞するという足場が安全なアート展とは異なり、観る者の身体性にじかに打撃を与えてくるという意味でとてもスリリングなエキジビションだった。なかでもエヴェリーナ・ドムニチ&ドミートリー・ゲルファンドによる『カメラ・ルシーダ:三次元音響観察室』には、言葉も出ないほどの感動を覚えた。

特殊科学媒質が含まれた球体の水槽に、さまざまな周波数の音波を流すことによって、さっと刷毛ではいたような"筋状のルミネサンス"が水槽内に可視化されるという本作。観察者はまず、みずからの目を闇に慣らすため、暗幕でしきられた密室に作品と共にとじこめられることになる。東京の日常生活では絶対に出逢わない、完全なる闇に目をさらすこと3分。「それでは中央の水槽をご覧ください」という係員の指示にしたがって、見えない目を盲者のようにこらし漆黒の闇をじっとみつめていると、刹那の沈黙後ーー、うわぁと思わず涙声が漏れてしまうほどの圧巻美が眼前にあらわれた。浮かんでは沈み、生まれては消える、水槽のなかで奔放に泳ぐ細やかな光の生態たち。跳ねて、揺れて、旋回して、舞って。ふっと息を吹きかけるだけで儚く消えてしまいそうな、これ以上なく繊細な光の羽根が、目の前で秘やかに戯れている。それはまるで望遠鏡で眺める宇宙の散光星雲を裸眼で見つめるような体験でもあり、爽快に舞い上がるモーツァルトのアルペジオを光に変換して可視化するような体験でもあり。とにかくあまりの異空間体験に、日本の、東京の、初台に、自分は立っているんだという現実感が一瞬にして壊されてしまった。

こうしたテクノロジーを使うアートの場合、最先端技術をただ最先端技術として提示して、それですごぶって終わってしまう残念な作品が少なくない。あるいはそうした技術だけを見せる段階からは脱したとしても、「物質Aと物質Bを併せたら物質Cができて面白いんじゃない?」という科学式が完成品から透けて見えてしまうコンセプチュアルすぎる作品が多い。けれどこのドムニチ&ゲルファンドによる作品のように、真にストロングで美しいアートが奇跡的に創造されると、どれほどのリサーチや技術や計算式がその過程でなされていようと、ひとたびそれが完成の陽の目を見たとたん、難解なロジックはこっぱみじんに吹き飛んで、その存在自体が一篇の絶対純度の詩になってしまう。しかもその詩は他者の人生を変えてしまうほどの"体感詩"。これを一度読んだ人は誰しも、世界に対する自分の考えかた、あるいは日常の常態をガラリと変えられてしまう。

ほんの数分の奇跡的な『カメラ・ルシーダ』の体感は、まさしく、私の常態を変えた。
なにか自分の五感が、未開の感覚にとつじょ目覚めてしまった妙なむず痒さを覚え。なにか自分が、この地球上とは異なる特殊組成の空気を吸いはじめてしまった未知の経験を味わいーー。強烈に揺れる思念と、震える体感が、展示室を抜け出したあとも私に残響のようにまとわりついていた。


ICC『ライト・[イン]サイト』
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2008/Light_InSight/index_j.html


(December 8, 2008)

Posted by iwaki : 01:38 | Comments (0)


台風の目

無残な雨に降られつづけて一週間。ようやく取材旅行が終わった。
最終日の夕刻、タクシーの後部座席に疲れた体をあずけていると、アラブ系の運転手が「アー、ルガルド、ラバ!(ほら、あそこを見て!)」と、いきなり奇怪な声をあげる。火事か事件か犯罪かと思い彼が指さすほうを見あげると、トロカデロ広場の向こうに、先刻まで雲霧に溺れていた太陽が、ちらりと顔を覗かせている。ほんの一刻、白銀色の冬の陽射しがパリを透明に照らしだす。運転手が思わず声をあげるのも納得なほど、一週間ぶりに見る太陽は美しい。バカみたいに重い戦闘服をまとっていた自分の心が、瞬時にやわらいでいくのがわかる。

日本であれ、ヨーロッパであれ、どこであれ。取材をしつづけていると、いけないとは分かっていても、知らぬ間に心が戦闘態勢に染まっていく。なるべくニュートラルに柔和に、普段と変わらぬ自分で取材対象者に会いに行くよう試みてはいるものの、気づくとなにか余計な戦闘服を自分が着込んでいたりする。いけない。ちなみにどこに行っても思うことは、たいがい取材対象者本人はとても「普通」だということ。そしてむしろ、彼らをとりまくマネージャーやアシスタントやプレスといった関係者が、普通の人を普通じゃなくあえてまつりあげているということ。

今回の旅で、特にそれを感じたのが女優ジュリエット・ビノシュのアシスタントのローラン君。まだ20代半ばだと思わしき彼は、この仕事について1年ほどしかたたないのだが、まるで歩くコンピューターのごとく、1分1秒も無駄にすることなく、弾丸スピードの英語を駆使して、てきぱきと仕事をこなしていく。バジェットはいくらだ、取材時間は何分必要だ、ビノシュのこの本とこの絵とこの映画は見たか。そんなに矢継早に質問しなくてもさ、と逆に笑けてきてしまうほど息つく間もなく質問攻めにしてくる。彼自身、自分の若さをなめられないよう、あえてそうした「ザ・プロフェッショナルな態度」を過剰に装っている事情があるとはいえ。その事情を差っ引いても、彼の態度は高圧的にとられかねない。そして実際、この態度に威圧されてビノシュに会うまえに萎縮してしまう人たちもいるのだろう。

けれど実際に大女優に会うと、彼女自身はやっぱり、びっくりするほど普通の人。いや、これじゃ言葉があまりに足りない。あえて言語化するなら普通じゃない芯の強さを持つからこそ、逆に、誰の前でも普通でいられるしなやかさな人だった。優雅な飼い猫を膝のうえにのせ、純絹のように滑らかな声音でこちらの質問に丁寧に答えてくる。

台風の目はいつだって、静かで孤独で穏やかだ。おそらく人間もこれと同じで、凛々しく孤独に闘う人間のまわりには無風状態の静けさが漂う。ただ彼/彼女が一歩移動するたびに、まわりが過剰に「台風情報」を騒ぎたてるのだ。その過剰報道に煽られていては、その人、そのもの、真実の姿は見えてこない。そうならないためにも、私自身も強く地に足をつけ生きていく必要がある。

(December 6, 2008)

Posted by iwaki : 01:18 | Comments (0)


ピュターン!

パリにきて一日目。ああ、そうだフランスはこういう国だった、と改めて認識させられる"事件"に出くわした。とあるダンス劇場、夜8時。招待窓口でチケットを受け取り、いそいそと客席に足を運ぶ。と、なぜか私と同じ席番のチケットをもつマダムが既に着座していた。

「あら、まったく同じ席番ね」「なぜかしら」「変ね」

会話終了。おそらく日本なら相手を慮って「劇場係の人を呼んで、調べてもらったほうがいいですよね」「そうですね」という流れになることだろう。だがそんな他人まかせなことはフランスではおこらない。すべては個人の問題なので、その場での、個々の言い分の強さが状況に判決をくだすことになるのだ。そこで普段は弱気な私も、そうだここは東京じゃないんだぞ、と心を強く持ち「じゃあ、こっちの席に座ります。たぶん、大丈夫ですよね」と冷静を装い隣席に座った。マダムも「そうね、それがいいわね」とこちらの了見に納得する。

だが数分後、事態はさらに変な方向に。私が座りこんだ席の、さらに隣の空席のチケットを持つ20代女子がやってきて、私を目撃するや一息に次のようにまくしたててきた。

「なぜ、あなたはここに座っているの」
「ここの二席には私がボーイフレンドと一緒に座る予定なの」「どいてよ」

ーーーええ確かに、私はあなたが言うように正当な席には座ってございません。けれどいきなり私を目にしたとたん「どいてよ」とまで言いきれる、その迷いのないぶしつけさは、人間としていかがなものか。飢えをしのぐためなら他者の人肉まで貪りかねない、この横暴&傲慢な利己主義さには、あまりのことに唖然とさせられてしまった。

ただどうやら彼女の傍若無人さに唖然としたのはナイーヴなアジア人の私だけではなかったらしく、予想外なことに、さきほどのマダムが弁護を買って出てくれた。「あなたちょっと落ち着きなさい、彼氏とは1時間後に会えるからいいでしょう、この女性はここに座る権利があるのよ」。私もとりあえず、なるべく冷静に、ダブルブッキングされた席番事情の説明をこころみる。だが当然ながらその女の子は私の正当理論に1ミリも耳を傾けることなく「彼氏と座るの、彼氏と座るの、信じられない、ピュターン(フランス語のスラング)!」と劇場中に響くかのごとき大声で咆哮する。しかも当の彼氏は、そんな半ば狂乱状態にある彼女を放ったらかしにして、そそくさと空いている補助席に座ってこちらを振り返りもしない。ああ、もう。なんて身勝手なの、みなさん。

そんなやりとりが数分つづくなか、客電は無情にもずんと消えた。肉食獣のようにわめいていた彼女も闇のなかでとうとう堪忍する。草食動物系のメンタリティを持つ私は、なんとなく居心地の悪い思いを抱えたまま、光を放つステージに目を向ける。

誰もが自分の意見を持つ。それは確かに大切なことだ。周囲に「うんうん」と頷いてばかりで、多くのことを日和見主義にすましてしまう日本の風土に疑問を持つこともある。けれどは個人主義もいきすぎると、転じて、こうした醜い利己主義に陥る。いやこれはマチュアな自己主張でもなんでもなく、おもちゃが欲しいと泣いてぐずる子供のワガママと同じだ。

日々の生活のなかでたいがいの人は、肉しか食わん、野菜しか食わん、とは言い張らずに栄養バランスのとれた健康な食事をたしなむ。これと同じことで肉食獣的な個人主義も、草食動物的な集団主義も、いきすぎると機能不全をきたした宗教に近づいていく。そんなことを、零下の寒さが肌を射るパリの夜にふと考えてしまった。心が震えるぜ。ピュターン。

(November 30, 2008)

Posted by iwaki : 21:06 | Comments (0)


パリ・アゲイン

明日からまた仕事でパリに向かいます。
出版業界繁忙期のさなかに日本を離れるので、
ほうぼうの編集者の方にはいろいろご迷惑をおかけします。

ところでパリでも「ホリデーシーズン」のイルミネーションが、シャンゼリゼでライトアップされたそうです。でもおそらく、日本のほうが街中にイルミネーションがあるような気がします。しかも宗教が日本ではタブーでないから、堂々とクリスマスのみを全面に押し出している。なんだか妙な感じがします。妙といえば、このあいだ26歳女子の知人があるとても奇妙なことを理由に私に抗議をしてきました。真剣な眼差しでため息をもらした彼女は「今年はパーティーに3つしか呼ばれていないの」「数年前まではもっと呼ばれていたのに」と私に向かって嘆きを吐露してきたのです。これは……つまり女子にとってパーティーに呼ばれないという事実は、老化尺度のひとつになるということなのでしょうか。ちょっと興味深い現象です。

パリは雨ばかりのようですが、寒さに負けずに、普通に仕事をこなしてこようと思います。と、ここまで書いて、なぜか自分のことを報告するときだけはブログが「ですます」調になる癖に気づきました。パリからは、もう少しきちんとした内実のある「である」調のブログを発信できればと思います。

(November 28, 2008)

Posted by iwaki : 23:09 | Comments (0)


シャーデンフロイデ

ドイツ人の知人に面白い単語を教えてもらった。
シャーデンフロイデ。
逐語訳すればこれは「人の不幸を喜ぶ」という意味。
末恐ろしい単語だが、こうした負の感情が人間の内に存在することを素直に認め、
しかもその感情に、ひとつの別個のボキャブラリーを与えたドイツ人の正直さに、
私はある種の敬意を表したい。

我々の言語である日本語には、これにぴったりあてはまる単語がない。
だが、シャーデンフロイデは間違いなく日常のそこここに存在する。
とくにこの衆人環視の村社会においてルールに則して生きる人々は、
より「自由にオープンに、生きる人」が目の前に表れたとたん、
その人間の不幸をどこかで願う傾向があるように思う。

僕は私はこれほど単調な日々に必死に堪え忍んでいる。
にも関わらず、なぜおまえはそれほど自由で楽しそうなのか?
自由に生きることと背中あわせの苦を知るよしもない人間は、
そうして勝手に相手を憎みはじめる。あるいは、自分よりも劣る
「無邪気なもの」とみなし攻撃しはじめる。

しかもこの憎しみや攻撃が、影で隠れて行われたりするからタチが悪い。
むしろ「あ、それシャーデンフロイデじゃん」と口に出して、
笑っちゃえるような世の中がくれば清々しくて気持ちがいいのに。
あてはまる単語が存在しないことによって、
ないことにされている感情があるとしたら、
それはシャーデンフロイデという単語があること、よりもずっと怖ろしい。

(November 19, 2008)

Posted by iwaki : 20:10 | Comments (0)


スタンダールと日本人の幸福

読売新聞に<日本人の幸福感>についての統計調査が載っていた。
驚くべきことに、自分を幸せだと感じている人は88%もいる。
たださらに驚くべきは、その「幸福とはなんだ」という問いに対しての答えだ。
「何も悪いことが起こらないこと」ーーなんと69%にも及ぶ日本人の幸福感がこれ。
つまるところ、平穏無事・無病息災・現状維持、な生き方を多くの人は望んでいるわけだ。
確かにつつがなく生きることを望む人を、誰も責めることはできない。
けれど人生は一度こっきりなのに、本当にこんなつましい消極的な生き方で、
死ぬとき「満足だ」と微笑めるのか。

新聞読者を対象にしてアンケートを行っていることを考えると、
おそらく回答者の多くはネットよりも活字に親しむ中年以上の世代。
だから、無我夢中になって衝動を発火点に目標を追いつづけることや、
絶えざる変化や進化を求め夢中になり新しい何かに挑戦しつづけることを、
幸福だと答える人があまりいないことも仕方がないのかもしれない。
統計によれば上記のような言動、つまり「一つの目的に向かって
我を忘れて取り組むこと」を幸福だと捉える人はわずか3%しかいない。

確かにリスクを伴わない生き方は、安定という名のやすらかさを産む。
ただ世を捨てた仏僧でもない限り人生に絶対的な安定などまずないし、
ある種の生き方を好む人には、安定、はそく次の日から倦怠に変わっていく。
だからそれを心得ている人間は、あえてリスクのある選択肢をみずから選ぶ。
別の言い方をするなら、怖い、と思う方向性にこそ自分の闘場があることを知っている。

これに関しては先日、シュツットガルトでインタビューを行ったとき
ダンサーのアンナ・オサチェンコが名言を吐いていた。
「No Risk No Life」
リスクがないところに、人生はない。
心底、これには共感する。

ちなみに私個人は昔からスタンダールの以下の言葉を好んできた。
「魂はすべての単調なものに、完全な幸福にさえ飽きる」
人生のある時点で、平穏無事な幸せを望むことも悪くはないと思う。
でもその同じ場所に半恒久的にしがみ続けようとしても、時は過ぎゆき環境は変わる。
だから人は「何も悪いことが起こらない」という不自然な現状維持を望むのではなく、
自然の流れに則って、気負わず変化しつづけていくべきなのだ。
そしてその絶えざる地殻変動を奔放に愉しむプロセスにこそ
自分だけの幸福が宿っているのだと、私は信じたい。

(November 15, 2008)

Posted by iwaki : 00:09 | Comments (0)


個人主義礼讃のなぜ

最近、たてつづけに外国人と結婚している日本人女性に話を聞いた。
彼女たちが口を揃えて語るのは欧州の個人主義社会のすばらしさ。
私のものは私のもの、あなたのものはあなたのもの。
だから意見が合わなくても当たりまえ。
そんなマチュアな社会が私にはあってるの。
彼女たちは日本という過去を吹っ切るかのように清々しくそう言い切る。

ある女性が我が子をつれて日本にやってきたときのエピソードがふるっていた。
息子と一緒に久々に日本の電車に乗り込む。
と、隣で息子と同年代の少年が泣きわめいている。
社会迷惑だ。日本人は本当に躾がなってない。彼女は不快感を覚える。
ふと目をあげると、その号泣少年の母親が、彼女をぎっと睨んでいる。
なぜ、こちらを睨む? 数分後、どうやらその少年は、
我が子の持つお菓子を分けて欲しいがゆえにぐずっていることが判明する。

「もちろんでも、そんなのあげないですよ。シェアする必要なんて全然ないですから。
ヨーロッパの子はそんなことで泣かない。そんなの社会人失格ですよ。
そんなことには絶対にならない。それが躾でしょ」

彼女は鼻息を荒くして一息でこう言い切った。
あまりに歯切れのいい啖呵に背筋に震えを覚えた。
と同時に、確かに正論を言っているのだけど、漠然とした怖さも覚えた。
どこか彼女が無条件に個人主義を礼讃しすぎているように思えたからだ。

私も基本的に個が自律して生きる社会には賛成だ。
でもそれと同時に、他者に歩み寄る、他者を慮る、日本的な思慮深さにも愛着を持つ。
確かに電車のなかで泣きわめくがきんちょにお菓子を分ける必要はまったくない。
でも、その場の空気にまったく無関心に鈍感にいられるメンタリティというのは、
それはそれでどうなのか。何か日本人の持つ繊細な心情的機微を失っている気がする。

駅で行儀良く整列して待つ、狭い道路ですれ違うときは肩を斜めにする、
自分ひとりが席に座れたときは友達の鞄を膝にのせてあげる。
確かにこういう配慮が自然とできる日本人は少なくなっている。
それでも概してヨーロッパの人たちよりは他者を思いやる心が残っていると思う。
おそらくあちらは自然とこういった配慮ができない人が多いから、
ある種の紳士教育として、女性をもてなすマナーを学習したりするのだろう。

他者への配慮ができるか否か。
自然にできる人(10%)>自然にできないから学習する人(60%)>学習しない人(30%)
このパーセンテージはなんの統計学的根拠もない、私の直感だ。
ただ日本とヨーロッパでは、一番目と二番目の割合が少し変動する気がする。

いずれにしろ欧州と日本のどちらがいい悪いではなく、
双方のいいところを取り入れてみたらどうなのか。
個人主義礼讃の彼女にそう伝えてみたら、
「私はあなたの意見には賛成できないわね」
と、ばっさり言い捨てられた。
そこで対話は、哀しく終わった。

(November 10, 2008)

Posted by iwaki : 00:11 | Comments (0)


アノスミアと感情

アノスミアという嗅覚異常の病気があることを知った。朝いつもどおり目覚める。と、その世界にはこうばしいバタートーストの匂いも、朝陽を浴びるバラの花の香りも、隣りで眠る異性の甘く汗ばんだ匂い香もない。これだけでもかなりの悲劇なのに、多くの人はこうして嗅覚を失うと同時に、計り知れない量の感情表現を失うという。科学的根拠としては、嗅覚をなくすと、脳の感情を司る部位である海馬と小脳扁桃が刺激されなくなるから。怒り、怖れ、歓び、哀しみ、性的興奮といった原始的な感情から衰えていくという。

逆の観点から言えば、嗅覚に鋭敏な人間は、感情表現にも繊細なアンテナを持つ人間だと言える。様々な香気を察知しつづけることで、日々、彩り豊かに感情脳を鍛えることになるからだ。「香水であれ、食事であれ、ワインであれ、香りを愉しむことは人間性を豊かにする」とある科学者は語る。

またある科学実験によると、異性と親密なパートナーシップを築けない人間の89%は、なんらかの嗅覚異常者であるという。どうやら香りに敏感であるか否かは、異性に対して敏感な気遣いができるか否かの、判断基準にもなるらしい。確かに高くてドぎついブランド香水を水浴びのようにつけている男は、おそらく、恋愛の機微にも下品で大雑把だろうし。無味無臭で香りのエロティシズムにまったく関心を示さぬ男は、どことなく、異性としての危うい魅力に欠ける気がする。単なる匂いの話じゃんと軽視するなかれ。それだけで、人間の"感情品位"のようなものが暴かれてしまうのだから。興味深い。

(October 7, 2008)

Posted by iwaki : 23:29 | Comments (0)


個人的な啓示

目から鱗とはこういうことを言うのかもしれない。
心から尊敬する人生の先輩と話しをして、
人生の余剰価値ではなく、核心をずばっと指摘された。
もちろん以前から気づいていたことではあったのだけど、
改めて指摘されたことにより言語化できるほど考えがまとまった。
なので、今日はとても個人的な啓示をここに綴ろうと思う。

まっすぐに生きるというのは、責任を引き受けることだ。
それまでの自分の人生に対する、あるいはこれからの人生の決断に対する、重大な責任を。
でもこの責任を引き受けて生きることは、年を取るにつれ、だんだん難しくなる。
なぜなら、何かを選択して決断するというのはまっすぐに自分に向き合うことだから。
たいがいの人は、自分に向き合う恐ろしさから逃げて、自由を放棄して
だらだらのっぺり生きることを選ぶ。

でもそうすると日々の行動のすべてが徐々に、ごまかし、の積み重ねになっていく。
自分の人生を引き受けるよりも、見ないで目をつぶって生きるほうが、ラクになっていくから。どんどん「分別」という名の逃げ口上を語ることだけが達者になっていく。

でも、実は逃げても逃げても問題解決にはまったくならない。
見ないで生きようとしても、問題の根は死ぬまでずっとそこにあるから。
逃げても不安で、逃げなくても不安で、負のデフレスパイラルにはまっていく。

だからもしまだ幸運にも自分が、
一度も人生を変節しないで生きられているのだとしたら、
どんなに震えあがるほど怖かろうが、
深呼吸とともに覚悟を決めて、
真正面から、
その責任をひきうけて生きるべきだと思う。

言うはやすし、行うは難し。
あとは自分がどうなりたいか。
そして人とどう生きたいか。

でも大切なことをいくつも、
もっと大切だと判断した他のことのために犠牲にできることは、
人間として美しい光を放つ力になると思う。

その先輩は最後に「悩みなさい」と言って去っていった。
最高のアドバイスだ。

(November 3, 2008)

Posted by iwaki : 01:06 | Comments (0)


ちっちゃく大胆な告白者

おねぇさん!

秋空にせいいっぱい溌剌とひびく声で
どんぐり頭の少年に路上で呼び止められた。
おねえちゃん、でなく、おねえさん。
そこに芥子の粒ほどの色気が見え隠れ。

左手には列車模型
右手には百円チョコ
右目には青痣。

下唇をぎゅっと噛んだかと思うと、
ハイッと威勢よく左手を突きだし、
うわっ、しまったと、
あわて顔で次に右手を突きだし、
あげる、
というコトバがもごもご出ないまま、
仰向けにさしだした私の手のひらに
チョコレートをちょこんとのっけ
一瞬、
ドキリとするほど寂しい青痣の目。
そして子ネズミのように走り去っていった。

こんなちっちゃくも大胆な告白者に出逢ったのは初めて。
なんだかこちらがドギマギした。
まいったな。

(November 2, 2008)

Posted by iwaki : 00:02 | Comments (0)


結婚ミッション

日本とスウェーデン、ふたつの異なる国籍のほぼ同年代の女性に話を聞いた。テーマはパートナーシップ。このブログで以前書いたように「幸せな結婚」というものにモヤモヤとした疑問を感じはじめた私は、ある種のミッションとして、いま世界中の女性の結婚/パートナーシップ観を調べはじめているのだ。最初のターゲットはスウェーデン。この国は同棲する恋人同士が「サンボ」という法律用語で認められ、結婚カップルとほぼ同等の、完全なる市民権を得ているかなり恋愛リベラルな国家。話を聞いた女性も「サンボ」ではなく「サルボ」=離れて暮らすパートナーがいる関係を続行中で「互いに数年キャリアに専念して、将来的にはダブルインカム状態で一緒に暮らす約束をしているの」と笑顔で語ってくれた。確かに収入源がふたつあれば、おのずと可処分所得は増える。しかもそうして得られた経済力を、ただ老後のために貯蓄するのではなく、バカンスやサマーハウスなど「二人で分かちあう歓びを増やすために」使っていきたいと言う。これは退職後の福祉が完全保証されている国に生きるからこそ出てくる、あくせくしない余裕のある発想だ。ちなみに彼女は「一緒に暮らす」と述べただけで、いちども「結婚する」という言葉を使わなかった。

転じて、現在、彼氏/彼女の関係に3年間あるという日本人女性にも話を聞いた。彼女は丸の内で働くとても優秀なOLで、収入も安定している。緩やかな笑顔で「仕事は楽しい」と語ってくれた。にも関わらず、その木綿のようにふんわりとした笑顔からは想像もつかないことをパートナーに対して行っている。なんと彼の子供欲しさゆえに、秘密でコンドームに穴をあけてセックスをしているのだ。「なぜそんなことをするの?」「年齢的にそろそろ結婚しないとダメだから」。なんか、おかしい……。私は複雑な想いに駆られた。

日本では大半の人間がパートナーシップの最終形態を「結婚」というかたちで捉えている。無論、その概念を責めるつもりはもうとうない。国に保証された男女の生き方が他にないのだから、これは今の段階ではある程度、個人レベルでは受け入れるしかないことだと思う。けれど、今後はどうだろう。いつまでも頑固一徹に、たったひとつのパートナーシップの形態を、ご大層に守りつづけていく必要があるのだろうか。またその形態にむりくり自分の生き方を押し込めて、アベレージな「幸せ」を手にしなければと焦るのもどうなのか。
制度が自分の幸せを決めるのか、それとも自分が自分の幸せの主導権を握るのか。
個々人がもっと素直にこうした問いを自分に投げかければ、日本のパートナーシップのかたちもおのずと変わっていくと思う。もちろん、スウェーデンのように国家がその制度を認めて様々なかたちで後押ししなければ広く普及することは難しいけれど。まずは個人レベルの「なんかおかしい」の芽を大切に。少しずつ豊かな樹木に成長するよう努力していくべきだと思う。

(October 30, 2008)

Posted by iwaki : 00:15 | Comments (0)


レユニオン島とスルツェイ島

レユニオンという聞き慣れない名の、フランス領の島で暮らす青年に会った。
彼の職業は冒険家。そんな肩書きの職業があることにまず驚く。
大航海時代のコロンブスやバスコ・ダ・ガマ、
あるいは南極点に到達したロアール・アムンセンや
月面着陸を果たしたユーリ・ガガーリン。
彼らと同じようなことを成し遂げるのが夢なんだ、と青年はほほえむ。

そんな彼に、近年まれにみる美しい洞窟がラオスで発見されたと聞いた。
早速ネットで情報を探してみると、息をのむほど美しい荘厳なる風景写真に出逢う。
人類未到の闇の王国で、気が遠くなるほどの年月をかけ造形された石灰石のカーテン。
バーチャルの写真でもこれほど美しいのだから、
実物はどれほど凄絶な美をたたえているのか想像にかたくない。

レユニオン出身の若き冒険家の数年後の目標地は、スルツェイ島。
現在、国家的な経済破綻の危機にあるアイスランドのはずれの、無人島のひとつだという。
この小さな島はつい数十年前に海底火山の爆発により出現したらしく、
いまだ一部のサイエンティストしか入島を許可されていないという。
おそらくこの島にも、想像も及ばぬほど圧巻の自然物が造形されているのだろう。
各国の有名な観光地めぐりや、美術館めぐりもいいけれど、
できることならこうした世界の最果ての自然美を目の当たりにしたい。


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(October 24, 2008)

Posted by iwaki : 00:41 | Comments (0)


無意味さの意味

東京は<意味>に満ちすぎている。
帰国二日目にして早くも意味の雪崩に呑みこまれそうだ。渋谷のスクランブル交差点をぼんやり頭上から眺めてみる。誰も彼もが目的をもって、ある一点にむけ猛進している。なにをそんなに急ぐのか。一秒でも早く向こう岸に辿り着かないと、親戚の誰かがぽっくり死ぬとでもいうのか。それほどまっすぐ決死の表情でゴールに向かって突撃していく彼らからは、ぱらぱらと、なにか人生の大切な切片が風にたなびき皮膚表面から落ちていくように思える。

ヨーロッパのとある都市で、一日徹してギャラリーを見てまわった。意味はない。ただアートを意味もなく見まくろうと決めたのだ。はしごの三軒目あたりから、足が棒になるのと反比例して、頭が爽快に澄んでくる。そしてたいして意味もないものをたいそうに見ている客人たちが、なんだか珍奇に思えてくる。さらに五軒目あたりから、意味もないことのおかしさが、逆に圧倒的に素晴らしく感じられてくる。ある人間が五年なり十年なりの命をそそいで生み出した迫真の造形物、それはレバレッジやプロダクティビティといった観点からみればまったくもってゼロ価値だ。そして本当にどこからどう見ても、価値のない屑もある。でもなかにはその意味がないものが、ちんけな意味など背負わないからこそ、全身全霊、聡明で美しい作品がある。そうした無意味さの結晶物をまのあたりにしたとき、私はなぜだか痛いほどの感動を覚えた。

都会人の営みのほとんどは、意味で凝り固められている。仕事の業績アップ、保険料の支払い、子供の進学問題、検定の取得。こうして文字に書き起こしているだけで、意味意味意味に息苦しくなるほどだ。たまに外国で熟年の団体客などに会うと、彼らは異国の地に来ても、デジカメと一緒に意味を肩にかけ旅をしているのがわかる。意味を捨てさることは、舗装された道をはずれることであり、とても勇気がいるのだ。

だが一瞬でもその意味の鎧を脱ぎされる瞬間に出会えると、世界は、別の世界になる。職業、学歴、キャリア、給与明細。そうした世の中のご大層な意味では計量できない何かで、人間は実際のところ、生きる糧を得ているのだということに気づく。それは人とつながれる二ミリの瞬間であり、小さくも何かを創造しようとする勇気であり、自らに問いつづける日々の成長であり、人を愛し愛されたいという永遠の欲望。別に世界一、人を愛する才能をもって生まれたからといって、誰よりも有名になったり金持ちになったりするわけではない。(あるいは、なるかもしれないけれど…。)だが愛や創造はたいてい無償のことだからこそ、そこで純粋な人間の生き様、一個人の真正な生き様が浮かびあがるのだと思う。そしてーー、ここで話がもとに戻るのだが、だからこそ私はギャラリーにおいて無償の美しい造形物に感動したのかもしれない。

本当のところどうなのかは、まったくもってわからない。だからこの解答はとりあえず保留。でもいまの私には、世間で無意味であるとされるものにこそ、意味があるように思えてならない。

(October 21, 2008)

Posted by iwaki : 00:28 | Comments (0)


シュツットガルトの思索

シュツットガルトの夜は、耳が痛いほど静かだ。凍える風にたなびく葉擦れの音が、さらさらと、かろうじで窓外から伝わるが、あとは、山頂に立つ教会が1時間ごとに適確なピッチで時の経過を告げるだけ。おそらく、ゴーンゴーンと厳格に時を歌うこの鐘の音がなければ、私はこの街に完全にひとりぼっちに取り残されたと思うだろう。

こうした静けさは、必然的に人を思索へと向かわす。
地元の人々も「だからヘーゲルのような偉大な哲学者が生まれたのさ」と自慢げに語る。
これはあながち、おおげさな話ではないかもしれない。
東京のように10分歩くだけで、20種類の音楽と、50種類の広告看板と、100種類の店に出会うような刺激が外部にあると、あっちへこっちへと好奇心のアンテナが飛んでいき、退屈はしないが思索がまとまらない。だが逆にシュツットガルトのように、外環境が七十歳の老人のようにぐっすり静かだと、人はおのずと内へ内へと自分の思考を掘り下げていく。

だから三日間の滞在のあいだ、旅のともにと持ってきた私のスパイラルノートにも、信じられないほど多くの思考の切片が書きつけられた。しかも、街じたいが鷹揚とゆるやかな雰囲気をたずさえているため、じっくり焦らず徹底的にひとつの思考につきあうことができる。妙な体験だが、この街に数日間隔離されていたら、ぐんぐん考えがまとまっていき、夜中に、悟りの境地に辿り着けるんではないかと思えるほどの「思考のナチュラルハイ状態」に陥った。

一変して、今日、東京に降り立つ。
私の地元の下北沢はさほど煩い場所ではないが、それでも、シュツットガルトから到着するとあまりの騒がしさに耳をふさぎたくなる。スウェーデンの学校では生徒が勉強に集中できるようにと、校内の騒音レベルを30デシベル以下に抑える規律があるというが、はたして昼間の東京の騒音数値はいくつぐらいなのか。おそらく、学習や思索に適した環境ではないだろう。

最近よく、東京で忙しく仕事に明け暮れる知人に「とりあえず目の前のことをこなすだけで精一杯」「大切な何かをつかんだと思っても、日常のなかですぐに忘れてしまう」といった悩みを打ちあけられる。そして、日々の小事にかまけているうちに、時だけがどんどん過ぎ去り、気づけば何も解決しないまま年末を迎えているのだ。そんな悩みの袋小路に陥っている人はいちど、思いきって東京をたちきり、無音状態にひたれる田舎に自分を隔離するといい。科学的にどれほど立証された効用があるかはわからないけれど、体感として、自分の乱雑な思考が清らかに整理されていくのがわかるはずだ。

(October 18, 2008) 

Posted by iwaki : 19:03 | Comments (0)


パリの月と孤独

パリの夜、満月。
セーヌにかかる橋から、エッフェル塔を背にして空を見やると、そこに雲ひとつ陰らぬ優雅な月が浮かんでいた。気にとめず歩き去ろうと思ったのだが、あまりに見事にふっくらと美しいので、その場からどうしても動けない。ベンチに座りぼんやりと眺め惚けてしまった。なぜか私は子供時代から、月が無性に好きだ。太陽はみずから発光するけれど、月は相手方の太陽の熱を許容することで光を放つ。だから月にはいつでも、端然と光り輝く面と、その裏の闇の面がある。しかもその境目がおぼろにとけあい、ほんわり一体となっている。このなんとも不完全で人間的な感じが、私にはとても魅力的に思える。
マーク・トウェインも著書のなかで、次のように言っている。
「Every one is a moon, and has a dark side which he never shows to anybody.
(人は皆、月だ。誰もが誰にも見せない闇の部分を抱えている)」。

大概の人は、月が輝いているときしか目を向けない。逢魔がどき、闇が立ちこめはじめる頃、ぼんやりと緋色の空の向こうに、透けるように浮かぶ月に目をやる人はあまりいない。たとえ輝いていないときでも、月は同じようにそこにある、というのに。

人も、これと同じだと思う。輝いているときは、誰もが目を向けその美しさを賞賛する。あるいはその美しさを、逆恨みして嫉妬する。けれどその光の裏には必ず、計り知れない闇や痛みや孤独がある。他者はその裏面には、想像力をおよばそうともしない。あるいは、および得ないのかもしれない。せつない。また人は、夕暮れどきの透明セロファンの月のように、誰にも目を向けられずとも、ひっそりと空に浮かんでいる他者の営為には視線をそそがない。その無為の努力があってはじめて、月は、数時間後に輝けるのに。

私はこうした、月のけなげさが愛おしくてしかたがない。月のように生きる人は真に美しいと思う。痛みや孤独を底に抱えながらも、必死に、笑って生きている人を見ると心が破裂しそうになる。逆に太陽のように360度、ただあっけらかんと発光しているだけの人には、それができることじたいは素晴らしいとは思うけれど、さほど魅力を感じない。
私は、弱くて強い人間が好きだ。

そんな想いにぼんやり漂いながら、パリの夜はふけていった。と、少しかっこつけてポエジーにひたろうと思っていたら、目が飛んでる酔っぱらいのラトヴィア人にからまれた。月のような人間は好きだけれど「Lunatic(狂ったよう)」な人には、できれば構われたくない。

(October 15, 2008)

Posted by iwaki : 08:31 | Comments (0)


London-Paris-Stuttgart

ロンドンに来ています、、というブログを書こうと思っていたら、すでに3日ほどがすぎて、パリ経由でシュツットガルトに到着しました。ロンドンに到着した夜には、現地にいるイタリア人の友人カップルと食事をしてきました。彼らは温暖な気候で知られるナポリ出身なのですが「ロンドンは天気が悪すぎるし、物価が高いし、仕事をしすぎるから、もういられない」とぼやいていました。そして年末にはナポリに撤退するそうです。ロンドンは本当に物価が高い。しかも「働けど働けど貧乏人は金持ちになれないシステム」がある。つまり労働者階級が完全に、一部、資産家階級にコントロールされているのです。本当にグローバリゼーションが声高に叫ばれて以降、この状況はひどくなる一方。日本にも最近、進出して店の前に行列ができている「H&M」の洋服タグなどをロンドンの店舗で見ると、MADE IN ALBANIAなんていう表示が多くなされている。グローバリゼーションの名のもとに、資本家たちがユーロにいまだ加入していない後進国に進出し、格安の労働賃金で現地の人々を働かせ高い利潤を得ているわけです。ちなみにナポリの友人たちによると、ナポリには「カモッラ」という独自のマフィア組織があって、彼らはいちるの希望を求めてイタリアに流れてきたアルバニア移民の子たちを下っ端として雇い、犯罪組織の末端ツールとして利用したりするそうです。日本のヤクザが愛の欠けた暴走族の子供たちを「俺についてこい」と言って引き抜いていくのと同じ構図ですね。怖い。

ナポリの友人たちはボヤいていますが、今ロンドンを含む、ヨーロッパの天気はどこもとても快適で美しい。楽しく働こうと思います。

(October 14, 2008)

Posted by iwaki : 20:51 | Comments (0)


結婚と色気

町中でばったりと、数年来、会っていなかった知人の男性に会った。
彼は私が中学生の頃から知っている伊達男で、今どき少ない、
鋭利な原色の激しさのある色気が私は以前から好きだった。
けど久々に会った彼は、なんだか、丸くこじんまりとしてしまっている。
聞くところによると、結婚して子供が生まれたらしく。
それが残念ながら、あまり幸せではないらしい。
「こういうあなたになって欲しい」という妻の欲求を暗に感じる。
そうすると「その窮屈なビジョン」に自分がぐんぐん押し込められていく。
「でもそういうリミッターを設けないと幸せにはなれないからね」。
そう言って彼は肩をすくめ、ははは、と小さく笑った。

なんだか少し寂しかった。
魅力的な自分をこんなふうに小さな柵におさめてしまうのなら、
大きなお世話だが結婚なんかしなきゃいいのにと思った。
おそらく男という生き物は、自由を養分にして雄としての色気を開花させる。
挑戦して、絶望して、破壊して、変貌して、飛躍して。
自由に飛びまわることで雄としての香気をふくらましていく。
だから、その養分をリミッターで押さえ込んでしまっては、
結果的には男女ともに不幸だ。

もちろんすべての結婚がこんな自縛状態を強いるものだとは言わない。
ありのままの互いの姿をすっぱりと認めさらけ出したうえで、
男女ともにより美しい姿に成長していける結婚もある。
ただ知人とのふいの再会で、ここ数ヶ月もやもやと考えていた、
括弧つきの「幸せな結婚」というものに対して
ちょっとした結論が出た気がした。

そんな考えをたずさえて、蜷川幸雄演出による『から騒ぎ』を観に行く。
文豪シェイクスピアは何を考えていたのか、時代背景的に仕方がなかったのか、
自筆の喜劇はほとんどすべて、めでたしめでたしの結婚で終わらせる。
本作も例外ではなく、勘違いなカップルも、信頼感のないカップルも、
みな最終的にほわほわと手を取りあい婚礼の舞を踊る。
それを観て、高校生〜おばちゃんまでの女性が陽気に拍手している。
まあ単純に娯楽芝居として楽しめばいいのだろうけど、
タイミング的にどうしても私は、そこで描かれている男女の姿に
素直に笑顔を向けることができなかった。


(October 8, 2008)

Posted by iwaki : 23:25 | Comments (0)


RENTのインタビュー

今日ミュージカル『RENT』のキャストメンバーに取材をしてきました。
私が取材を担当したのは、エンジェル役の辛源さん、田中ロウマさん、
ミミ役のジェニファー・ペリさん、ロジャー役のKさん、Rhoheiさんの
計5人だったのですが。ちょっとこのブログで簡単に書くには
どうかと思えるほど濃いライフストーリーが聞けて、とても興味深かった。
HIV、ドラッグ、DV、同性愛、死、、、
『レント』で描かれるこういった世界観を
彼らは他人事としてではなく、リアルに実感して生きてきた人たちばかりで、
その波瀾万丈な人生譚に耳を傾けていたら、
作品に対する期待度がうなぎのぼりになってきた。

パンフレットは文字数が少ないの、あまり詳細には書けないですけど。
興味があるかたは、是非、読んでみてください。立ち読みでもいいんで。
彼らの、全力投球の生き様にすがすがしさを感じるはずです。

(October 3, 2008)

Posted by iwaki : 18:24 | Comments (0)


会話の優位感覚

私の毎日における日常風景のひとつです。
ある舞台を観終えたあと「どうだった?」と、知人同士で感想を求め合うことがあります。
そこで人々は、日本人らしくやや遠慮がちに感想を言いあうのですが。
これが、いつも一言二言のポツポツとした単語交換で終わってしまう。
別にそれぞれ意見がないわけではないのです。
ある人は照明や美術も含めた全体構成のことを言い、ある人は芝居全体を端的にひとつのキャッチフレーズで言い表し、ある人はなんとなく「こんな印象を受けた」と漠然とした言葉を返す。で、お互いに「なるほどね」とそれなりに相づちは返すのですが、
そこから会話がようとして進まない。なぜ、会話が進まないのか?

まずひとつ言えるは、そもそも大概の人間は
相手の意見なんてそんなに真剣に聞く耳を持っていないということ。
でもこれを言ってしまうと元も子もないので、
この基本条件はなんとかクリアできてる人間同士が集まっていると仮定して、
次の段階で言えるのは「会話の優位感覚系が違う」から対話に齟齬が生じるということ。

視覚系、聴覚系、言語感覚系、触覚系。
人には4つの優位感覚があります。
そして人はそれぞれ、これらの内どれかひとつの感覚に、
無意識的に寄りかかるかたちで世の中の物事を認識しています。

たとえばさっきの芝居の例で言うなら、
全体構成に目が行った人は視覚系、
端的に一語で感想を言い表そうとした人は言語感覚系、
なんとなくの受けた印象を語ろうとした人は触覚系です。
つまり皆それぞれ、自分の現実認識の仕方を元に素直に感想を語っているわけですが、
相手の優位感覚を認識したうえで会話をすることができていないため、
おのおの「ん? なんかおかしいぞ。うまく伝わってないぞ」と察知し、
早々に会話を引き上げてしまうのです。

視覚系の人は、全体図を把握してから徐々に細部に入り込んでいく、
という大枠のイメージをつかんだうえでの会話をしたがる傾向にあります。
言語感覚系の人は、自分なりに状況を咀嚼したキーワードで全体を捉えたがります。
前者は絵で、後者は言葉で、状況を理解する優位感覚傾向がるため、
その違いを認識していないとコミュニケーションに断絶が生じるわけです。

自分と異なる優位感覚系を意識して会話をするのはとても難しい。
だけど人は文字通り「世界を違ったかたち」で捉えているわけで、
自分と同じように人は世界を見ているに違いないと思い込むのは、
とても危険な罠なわけです。
まあ、こんな偉そうなことを言ってますけど。
これは私への戒めでもあります。
なんせ最近まで、こんなことみじんも意識せずに
無防備にコミュニケーションを交わしていましたから。

(October 2, 2008)

Posted by iwaki : 00:08 | Comments (0)


スウェーデンと日本

今日、ある雑誌の取材調査のためにスウェーデン人の男性に会ってきました。
彼は宇宙物理学者の卵で、なかなか私のまわりにはいないタイプ。
学者さんらしくとても物静かな語り口の人でした。
話自体は物理学について、というより
スウェーデン人のワークライフバランスについて聞いてきたのですが。
いまスウェーデンは右翼政権が政治の実権を握っていて、
かなり保守化傾向が強まっているそう。
女性の社会進出に対してもそれほど協力的でなく
デイケアの予算を削減したりしているそうです。
ちなみにこの物理学者の卵さんも「早く結婚したい」と言ってました。

そういえば日本でもいまは、大学を卒業する女性が
就職しない傾向が一部で強まってきているそうです。
就職しないで何をするかというと、花嫁修業をするらしい。
そして専業主婦におさまることが彼女たちの目標らしい。
これだけ不安定な世の中になってくると、
自力で稼がないで安定的な収入を得て、
幸せに暮らしたいと願う人間が増えてくるのわからなくもないけど。
いったい彼女たちは具体的にどんな結婚生活を思い描いているのだろう。
ちょっと最近、日本の若い女の子たちの話も聞いてみたいなと思います。

(September 24, 2008)

Posted by iwaki : 23:29 | Comments (0)


スコトーマ

視覚に「盲点」があることはよく知られています。
人の網膜は光を感じる特殊な細胞で覆われているのですが、わずか1.5mmだけ、この細胞のない部分がある。というのもその1点に血管と視神経の束が集中し、そこから脳へと指令が送られているため、構造上、このチューブと網膜との結節点が、盲点となってしまっているわけです。で、この盲点を、専門用語では「スコトーマ」と言います。

転じて、心理学ではこの「スコトーマ」という用語を別の意味で使います。ものすごくくだけた言い方をすれば「何をしたらいいのか見えない、見えない、と言い続けることによって本当に可能性が見えなくなっちゃう状態」。これが心理学的なスコトーマです。

簡単な例をあげるなら、よく外国に行くと無条件にパニックになる人たちがいます。
そんな人たちに現地で「スーパーに行ってコーヒーを買ってきてよ」というと、あらかた「ムリだよ」という答が帰ってくる。日本も外国もスーパーのシステムはほぼ同じです。コーヒーのパッケージだって、文字が読めなくてもデザインで分かります。支払いもキャッシャーに表示される数字を見れば、言葉が聞き取れなくても大丈夫です。でも私の知人で現に外国のスーパーに行って、コーヒーを探すことができずに、「やっぱりムリだった」と言って帰ってきた人間がいました。彼はこのとき、心理的なスコトーマ状態に陥っていたわけです。

こんなに極端な例でなくても、人は気づかずにスコトーマに陥っています。
「自分なりに考えた企画を上司に提出してみよう」「趣味でギターを習い始めてみよう」「自分の生活習慣をほんの少し変えてみよう」。そんなことでも大概の人は「よしやってみよう」と思う以前に「僕には、私には、ムリ」という答を自分のなかで生み出します。そして人間の脳は、その指令に従って本当にその可能性を「見えないように」してしまうのです。怖い。

ではこのスコトーマを取り払うためにはどうすればいいのか。ひとつ方法としてあるのは、絶対にいつもの自分ではムリだと思える「でっかい目標」を掲げることです。そしてその目標達成に向けて、少しずつ着実に行動する。そうすると人間の脳は、その小さな行動に快感を覚えていくようになり、気づいたときには「絶対にムリ」と思っていた壁を、突き抜けていたりするのです。

考えてみれば私も23歳のとき「物を書いて暮らしていく」と人に言ったら「絶対にムリだ」と言われました。常識的に考えれば確かにムリだったのかもしれません。でも私のなかには「ムリだ」という考えがまったく浮かんで来なかった。成功するイメージ、止められないエネルギーしか沸いてこなかった。そして、いま私は人にムリだと言われた生活を、まあそれなりに、成し遂げています。そして、さらにその先に向かおうと「やってやろうじゃないか」という気持ちで、甘えた自分を鼓舞しています。まあ、たまに自分に負けるけど。「できないかも」という不安は誰もが少なからず持つものです。だけどとりあえず「スコトーマ」という概念を理解しておくと、自分の限界なんて自分が勝手に決めてるだけじゃん、ということがわかって勇気が沸いてくる気がします。

(September 20, 2008)

Posted by iwaki : 19:03 | Comments (0)


カウチ・サーフィン

私は今日までまったく知らなかったのですが、
いまは若者の旅先での宿泊選択肢に「カウチ・サーフィン」というものがあるそうです。
これは文字通り、旅先で人の家のカウチに泊めてもらうというシステム。
Counch Surfingという非営利組織が運営するサイトに登録しさえすれば、
誰でも気軽にこのシステムを利用できます。

もちろん、どこの誰とも分からない人間の家に泊まるなんて、
「危険じゃないのか」という考えは誰もが最初に持つ疑問。
けどこのカウチ・サーフィンではなかなかうまいセキュリティシステムが作動していて。
あぶない人間は自動的に排除されるようになっている。

1 プロフィールシステム
  ゲストを迎えるためにはかなり詳細なプロフィールを記入する必要がある。
  しかもその当人であることを証明するためにサイトから自宅に確認の郵便物が届く。
2 メールシステム
  以前そのホストの家に泊まった人間に直接メールして質問できる。
3 保証書システム
  すでに3人の人間から保証書を得ている
  「直接顔見知りのメンバー」に認められることで、
  保証書つきのメンバーに格上げされる。

こうしてカウチサーフィンは今では世界70万人が利用するシステムにまで成長している。
しかもこのカウチサーフィンからは、ただ寝床を提供してもらえる以上の、
文化交流的な楽しみが得られる。サイトにも以下のようなことが書かれています。

「世界中にタダの宿泊所を設けるのが目的ではなく、
家と心を開き、異文化交流から生まれる、
幅広い知識の共有を助けることが私たちの目的。
旅のスタイルだけでなく、
人の世界とのつながり方を変えたい」

興味がある人、そして旅人を泊められるサイズのカウチが
家にある人は、以下のサイトを参考にしてみて下さい。

Couch Surfing http://www.couchsurfing.com/

(September 16, 2008)

Posted by iwaki : 23:16 | Comments (0)


座禅

昨日、今日、と朝6時に起きて広尾の香林院という
臨済宗のお寺で座禅を組んできました。
畳のうえでじっと座ること1時間。
たったそれだけのことが、いったいどれだけのもんなんだ、
と最初はかなり懐疑的でしたが、実際にやってみたらびっくり。
ただ心を静めて姿勢良く座るということが、
これほど心身共に難儀なことだとは思いもしませんでした。
来てる人たちも全然スピリチュアルな匂いのする人たちではなく、
出勤前の若いサラリーマンやOLさんが多い。
外国人の方が初心者に座禅の型を教えているのにもびっくりした。
とにかく「癒し」というより「克己」という
言葉がしっくりくる1時間でした。

そこのお坊さんの話を聞いたらやっぱり座禅は「癒し」ではないそう。
「瞑想では目を閉じるから別世界に逃げ込むことができる。
だからいっときの癒しを得られる。でも座禅では絶対に目を閉じない。
現実を見なきゃ意味がない。現実を見なさい」と。

あと「座禅と同じで、日常でも基本は我慢」という言葉が胸に刺さった。
私はこのところ、かなり依存的で甘ったれた人間になっていたから、
この言葉を聞いたときに目から鱗が落ちるというか。
思わずあははーと笑ってしまいました。

呼吸すること、朝日を浴びること、食事をすること、鼻歌を歌うこと。
自分にとらわれずに、まわりの人と生きること。
座禅でじっと我慢をしていると、
そのあとで行う行動のすべてに小さな喜びが感じられる。
さて、今日もきちっと丁寧な原稿を書き上げよう。

(September 12, 2008)

Posted by iwaki : 09:57 | Comments (0)


レセプター

レセプターという単語は元来、生化学の用語です。簡単にいうならこれは外界からの刺激を受け取り、情報として利用することができるよう変換するための細胞のこと。人はこのレセプターを通して、外部から多くの情報を体で受け取っているわけです。

さて私は最近、いろいろコミュニケーション方面の勉強をしているのですが。学んだところによると、レセプターというのはコミュニケーションの世界では「話をきちんと聞くための受信機」として定義されているようです。

簡単にたとえるなら、どんなにこちらが自分の話Aをしたいと思っていても、相手にその話Aにまつわるレセプターがなければ、必然的に相手は会話を聞き流すことになる。興味がない=レセプターがないから、話を受け取れないわけです。

そこで対話術では話が通じない相手にむりくり話を通じさせるために「レセプターを開く」という技術を使うそうです。ざっくり簡単に言えばこの技術は、相手の興味を引くようなキーワードをあえてちりばめて話をしながら、自然とこちらの話したい内容に持っていくとい対話テク。

たとえば取材である人と国際政治の話をしたいと思ったとする。でもいきなりこちらが興味のある国際政治の話をふっても大概の人は聞きやしない。そうではなく、その人の活動範囲、興味範囲にまつわるかたちで、自然と国際政治の話につなげていけば、大概の人は会話を拡げていく。

ただ、そう上手くいかない場合も多々あって。こっちがどんなに新しいレセプターを開こう開こうと努力しても、気づくと自分の興味のあるテリトリーの話にまいもどってる人たちが大勢いる。今週末には「対話の練習だ!」と思って4人ほどの人にこの「レセプターを開く技術」を試してみたのですが、何人かの人は、どんなに相手の好奇心をそそるかたちでこちらの話にしぜーんとシフトチェンジしていこうとしても、相手の好奇心をそそるキーワードを宙に放った時点で、そこからまったく異なる自分の身の上話を繰り広げていくのです。しかも、かなり無意識に&無防備に。

ということで、話が通じない人間に話を通じさせるのは、なかなか一朝一夕にはいかないなぁと。そんなことを漠然と思った、週末でした。

(September 9, 2008)

Posted by iwaki : 01:13 | Comments (0)


7月取材のブログ

今日は単なる報告ブログです。
先日、ドイツで取材をしてきたバレエダンサーたちの記事が
NBSのブログに掲載されはじめています。
今のところ「眠れる森の美女」のレポートと
芸術監督リード・アンダーソンの取材記事だけですが、
今後、ジェイソン・レイリー、アリシア・アマトリアン、
フリーデマン・フォーゲルの記事が随時更新されていく予定です。

昔、消防士になりたかったというジェイソン、
若い頃から情熱的な恋には事欠かなかったから
タチヤーナはとても演じやすいというアリシア、
そしてバレエ団唯一の地元っ子ダンサー・フリーデマン。
3人3様でなかなか取材もおもしろかったです。

ちなみにシュツットガルトの町は、
メルセデス・ベンツの本社があることで有名です。
周りを見渡せば走っている車も8割方ベンツ。
別に地元では日本のような高級車のイメージはないそうです。

あとこの町ではいたるところで地元の人たちが、
どんぶりのようなでかい器に乗ったパフェを食べていました。
あれはシュツットガルト名物なんでしょうか。
どうでもいいことですが、町のことを思い出すたびに
あのばけ物サイズのパフェが脳裏をよぎります。

シュツットガルト・バレエ 連載ブログ
 http://www.nbs.or.jp/blog/0811_stuttgart/2008/08/1.html

(August 31, 2008)

Posted by iwaki : 18:13 | Comments (0)


男の性欲と行動力

最近、私の友人の上司(男)が70歳にして新しく子供を持ちました。その人は元海外有名アパレル会社の豪腕社長さんで、今でも、年齢からは考えられないほど若々しく好奇心に溢れアクティブな人。友人はよく本気とも冗談ともつかぬ口調で「男の行動力と好奇心って、絶対に性欲と比例関係にある気がする」なんてぼやいています。ちなみに、私もこの意見にはかなり賛成。なにせ「英雄、色を好む」という、ことわざがあるぐらいですから。普段の行動が精力的な人は、性生活も精力的なはずなのです。

そう思っていろいろな書物を読んでいたら、面白い科学データにぶちあたりました。米国の精神科医クロニンジャーさんが唱えるパーソナリティ理論によると、人間は4つの個性ーー(1)好奇心の赴くままに探索する「新奇性追求」型 (2)危険を避けて行動する「損害回避」型 (3)報酬を得ようとする「報酬依存」型 (4)安定志向に暮らす「持続性」型に、わけられるそう。しかもその4つのタイプは人間が先天的に持つ「脳内物質の量を規定する遺伝子」と深く関わっているらしいのです。

結論から先に言うと、新奇性追求のタイプはこの特別な「遺伝子」の働きによって脳内のドーパミン量が多くなるらしい。このファクトを知ったときには、まあ驚きました。だってドーパミンといえば脳内麻薬とか脳内モルヒネと言われる神経伝達物質で、性衝動を促進することでもあまりにも有名。つまり、新しいことに目を輝かせガシガシ挑戦しつづけるアクティブな男性が、セックスにもガシガシ活動的なのは、脳内のドーパミン量によって同時にひきおこされていた自然現象だったわけです。

ただ、だからといってこれから人工的にドーパミンを吸収すれば、生活パターンが一気にアクティブに変わるのか、というとそんなに物事は簡単じゃないらしく。他の遺伝的なことや、後天的に培った生活習慣や思考法など、いろいろな要素も絡んでもいるらしい。詳しいことはわからないですけどね。でも、なんだかちょっとすっきり。「男の行動力と性欲の関係は、どうなってんだ?」という自分のなかにあったぼんやりとした疑問への解が、少し得られた気がしました。ーーという今日は、というか今日も、私の本職とはまったく関係のない科学と性のブログでした。

(August 26, 2008)

Posted by iwaki : 01:22 | Comments (0)


死刑問題

外国人の知人に「なぜ日本にはまだ死刑制度があるのか」と今日唐突に質問をされました。それに対して私は、明解な答を与えることができなかった。悔しかったので、少し死刑について調べてみました。

まず日本では06年に4人、07年に3人が死刑執行を下されています。先進国で死刑が増加傾向にあるのは日本だけだそうで。驚くべきことに、数年前の世論調査だと8割の人間が「死刑に賛成」。しかも00年代に入ってから「被害者遺族の感情を考慮すべき」という心情重視の考え方が世論で増えているそうで。これを聞いて、来年、裁判員制度が導入されたらどうなるんだろう…、とちょっと怖くなってしまいました。間違いなく、死刑が増えそうな気がする。

ちなみに世界の死刑執行回数第1位は、ダントツで、いま北京オリンピックで盛り上がっている中国。全体の97%を占めています。しかもYou tubeやLive Leakなどでいろいろ調べていたら、ろくに裁判もせずに無実の人間をどしどし「死刑キャンペーン月間」などの名のもとに公開銃殺刑に処していたりするようで。まったくの冤罪で殺された家族が打ち震える映像などを見ていると、この国の中央政府の横暴ぶりが痛いほど伝わってきます。第2位はイランで、ここはイスラーム法にのとって不倫や同性愛で死刑を下されることが多いらしい。私がいちばん憤りを感じたのは、16歳の少女が、51歳の男性にレイプされて、なぜか少女のほうが「不道徳である」という理由で死刑になったという事件。男性のほうは鞭打ちのみで釈放。イスラム諸国の女性進出は徐々に進んできているとは言え、まだまだ、彼女たちは男性にいいように扱われているのです。

さて我々の国ニッポンでは、残酷に2人殺せば、あるいは普通に4人殺せば、ほぼ「死刑」の判決が下されるようになっている。どんなことがあっても人を殺めてはいけない、と法律で定めているのに。なぜその同じ法律の下で、人を殺めているのか。詳しい死刑存置論者の意見は私にはわからないので、ここで軽率な結論は言えなですが、論理的には何か矛盾があるような気がします。いずれにしろ、最終的にどういう意見を持つのであれ、こういった問題に今まで無自覚に生きてきた自分に腹が立ちました。今度、知人に尋ねられたら、きちんとそれなりの説明ができるようになっていればと思います。本当に私は知らないことが多すぎる。いろいろ学ばねば。

(August 23, 2008)

Posted by iwaki : 00:41 | Comments (0)


恋する女の理性

マリー・アントワネットフェルゼン伯にしろ、ポカホンタスとジョン・スミスにしろ、メアリー・スチュワートとボスウェル伯にしろ、なぜか「身分違いの」命がけの恋に奔走する女たちの物語の多くは悲劇で終わる。ここにあげた女たちは恋に落ちるや途端に、身分も、家柄も、立場も顧みずに、感情の赴くまま、愛する男たちに身をなげうってしまおうとする。それははたから見ると、信じられないほど理性に欠けた愚かな行為に見える。にも関わらず、恋に溺れる女たちはそれに気づかない。恋は盲目状態なのである。最近の科学的な発表によると、恋煩いの状態は、強迫神経症障害の患者の状態に酷似しているのだという。どちらも、血液中のセロトニンレベルが激減するらしい。要は、人は恋に落ちているときは、精神病に限りなく近づいているわけで。そりゃ、理性的な判断も下せなくなってしまうはず。で、運命の悲恋とあいなるわけだ。

でも今日、歌舞伎座で観た野田秀樹脚本による『愛陀姫』では、中村勘三郎演じるところの濃姫が、激しい恋と嫉妬に燃えながらも、可能な限り理性的な判断をくだしつづけていた。彼女は唯一、劇中で、みずからの判断でみずからの行動を律している人間だともいえる。他の人間は占いを信じたり、運命に流されたり、するばかりでまったく自分の意志で行動をとっていない。濃姫の恋敵である愛陀姫もしかりで、ラストの場面を除いては本当に行動が受動的で観ていてちょっと苛立つところがあった。

で、濃姫。彼女は恋する女でありながら、自分の理性で行動を推し進める。そして愛する人を手に入れようとけなげに最善を尽くす。にも関わらず、最終的にはその自分の理性によってみずからの恋を滅ぼしてしまう。せつない。なんだかこんな物語を観ると、女の恋心と理性は、両立しないものなのか……とぼやいてみたくもなる。ちなみに少し劇評的なことを書くと、最後の濃姫の独白の場面でマーラーを流すのはいかがなものか。演目が『アイーダ』なのにマーラーはどうなんだ、っていうこと以前に、せっかくの力強いセリフの劇効果を薄めていた気がした。


(August 19, 2008)

Posted by iwaki : 00:27 | Comments (0)


ルグリと自己決断

先週マニュエル・ルグリさんにはじめて取材しました。
パリ・オペラ座のトップエトワールと言われる人は、いったいどんな人なのか。
考えを巡らせ、少し肩をこわばらせ、緊張しながら取材場所を訪れました。
でも実際に「ボンジュール」と会ってみたら、これが肩すかしなほど普通の人だった。
もちろん、これはいい意味で「普通の人」ということ。
変に偉ぶったり、頭の良さをひけらかしたり、もちろん人を上下で見たりしない。
一言でいって、とても気持ちがいい人でした。

一年中、取材をしていて思うのは、本気で何かを極める人ほど偉ぶらないということです。
考えてみたら、本気で何かを極めたいなら偉ぶってる暇なんでないのです。
それに彼らから一様に感じられるのは「ただ好きなことを全力でやって楽しんでいる」
という、どん欲で底つきない百万馬力のポジティブ・パワー。
自分自身で決断して選んでやっていることだからこそ、
努力が楽しみに、苦労がやりがいに、失敗が糧に変わるのです。
また自分は勝手に好きでやっているだけだという客観性もあるから、
変に人の生き方をジャッジして非難したりもしません。

ここで私が言いたいのは「好きなことを職業にすべきだ」ということではありません。
そうではなく私が思うのは「人は人生の道を自分で決断すべきだ」ということです。
自分がどうしたいかを確認することなく、なんとなく周りに流されて、
なんとなくあやふやにして、毎日を生きていると、
人生のステップを「自分で築き上げている」という実感がもてなくなります。
これはとても居心地が悪い。それに下手をするとその居心地の悪さを、
自分で決断したんじゃないもんね、と人のせいにしたくなる。
でも、人を責めても同情は得られても幸せは得られないのです。

ルグリさんは自分の意志で選んだ道を歩きつづけている人だから、
自分の失敗ステップも成功ステップも同じように語れる誠実な人でした。

インタビューがNBSのウェブサイトに載っています。
小出領子さんとの合同インタビューです。
小出さんもバレエに対する愛に溢れたとても素直な人でした。
もし興味と時間があれば読んでみてください。

http://www.nbs.or.jp/blog/news/contents/2008/08/post-55.html

(Augsut 14, 2008)

Posted by iwaki : 01:04 | Comments (2)


マチュー・ガニオ 最終回

ーー『エトワール・ガラ』では、とてもエモーショナルなパドドウを踊ります。『白鳥の湖』の2幕、『ジゼル』の2幕、そして『ロミオとジュリエット』のマドリガル。
ロミオはいつもバルコニーかベッドルームのシーンしか踊らない。だからこれはまた異なる視点からこの作品を切り取って見せることになる。また違った部分の愛、最初の出逢いの愛を見せられると思う。 このシーンはバルコニーやベッドルームの場面より少し短いけれど、やりようによってはとても深い感情が伝わるんじゃないかと思っている。ただこのパドドゥは最初はステップがほぼないなかで、感情を伝えなければならない。しかもガラ公演ではいきなりその場面の感情をポンと観客に伝えなければいけないから、とても難しいよね。とにかく出番のまえに感情についていろいろ考えて、ロミオとして自問自答したのにち舞台に出られればと思う。でもまあ、確かに簡単なことじゃないよ。ガラ公演で文句なく舞台上にロミオとしている、というのは…。これはチャレンジ。

ーー『ジゼル』と『白鳥』は。
ふたつとも全幕でもガラでも既に踊ったことのある役柄なのだけど、スベトラナと踊るのは今回が初めてだからとても新鮮。彼女とは『マルガルデ』をこのあいだ一緒に踊ったのだけど、それは素晴らしい体験だった。僕がパートーナーとの感情のエクスチェンジについてインタビューの最初に話したのは覚えてる? 彼女とはその感情のやりとりがものすごく上手くいくんだ。彼女があまりにも多くを僕に与えてくれるから、僕も彼女にもっと与えたくなる、そして彼女がさらに大きな感情をかえしてくれる。『マルガルデ』で起こったこうしたケミストリーが、『白鳥』や『ジゼル』でも起こるといいなと思う。

ーーブベニチェクの作品については。
明後日からリハーサルをはじめるところ。これが彼の作品への初挑戦です。数ヶ月前に作品のビデオをバンジャマンに見せられて「もしやりたいなら、僕に言って」と言われたんだけど。とても素晴らしい作品だったから「是非、僕にやらして」と即座に頼んだ。僕は日本に来るときはいつもオペラ座とは違うことをするのにいいチャンスなんです。オペラ座ではいつもわりとクラシカルな役柄を踊ることが多いから。だからこういったコンテンポラリーな作品にもたまには挑戦したい。あとは日本で王子様として見られてるところが多いだろうから…、それは別に嫌なことじゃないんだけど、普段もそういう目でスター扱いされると嫌だから。こういう男っぽい役がひとつぐらいないとね。僕も普通の男だっていうところを、日本のお客さんにたまには見せないと(笑)。

(August 10, 2008)

Posted by iwaki : 21:29 | Comments (0)


もうひとつのオリンピック

昨日、北京五輪がはじまりました。
と同時に、女優活動家ミア・ファローがウェブ上にて
もうひとつの「ダルフール・オリンピック」の放送を開始しました。

皆さんご存知のように、
現在でもスーダンの西部地方ダルフールでは紛争が続いています。
一説によると現在に至るまで30万人が死亡し250万人が避難民となっている。
欧米ではこれはもう「民族浄化」の域に達する大虐殺だと言われています。

ダルフール紛争の基本構図を少し説明すると、
これはスーダンの中央政府が、高位な職業に、
アフリカ系よりもアラブ系の人間を極端に優遇することに
アフリカ系国民が怒りを覚え反乱を起こしたことが始まりです。
これに対し中央政府は即座に反撃。反乱を鎮圧するため、
ジャンジャウィード(馬に乗った男の意味)と名乗る民兵を放ちました。
そしてこのジャンジャウィードたちが、ダルフール一帯から
黒人系アフリカ人を浄化しようと、
男を殺し女を強姦し村を焼き払っているのです。

さて、これとオリンピックがどう関係するかというと。
中国はスーダンの石油のほぼ2/3を買い占め、
その代わりにダルフールで使われている武器の大部分を供給しているのです。
つまり、中国と虐殺を繰り返しているスーダン中央政府は利益関係にある。
これに対してミア・ファローをはじめとする活動家は怒りを示し、
五輪開会前から中国政府に
即座にスーダンへの対応を改めるように要求したのです。

しかし中国政府はそれを聞き入れず、
人権活動家やユニセフなどから非難囂々の嵐を受け、
スピルバーグが良心の呵責から開幕セレモニーの演出を辞退するなか、
昨日、はなばなしく、開幕したのです。

オリンピックの競技者たちが悪いとは言いませんが、
とにかく北京オリンピックの裏には抑圧された
さまざまな政治事情があります。
にも関わらず日本選手団は開会式の入場に際し、
無邪気にも中国国旗と日本国旗を両手に持ち
楽しそうに振っていました。
あれを世界の人は、どんな目で見るのでしょうか。

The Darfur Olympics http://www.darfurolympics.org

(August 9, 2008)

Posted by iwaki : 11:34 | Comments (0)


マチュー・ガニオ4

ーー自分が30歳になったときに「この作品を踊っていたい」という展望はありますか。
まったくわからない。なぜなら、多分30になったときには僕は今とはまったく違う視点を持っているだろうから。もっと大きく世界を捉えられるようになっているんじゃないかな。といのも、5年前の自分といまの自分とではまったく異なる視野で世界を見ているから。今よりもっと若かったときにはなんでもかんでも「やらなくちゃダメ、やらなくちゃダメ」という感じだった。だけど今は「どうやってできるか。どうやって自分の身体にそってうまくできるか」と考える。ただ「やるぞ」とがむしゃらに考えるだけじゃない。

ーー若いときはなんらかの理想像があったわけですね。
まさにそう! で、今になってようやく、その理想の男性には到底なれないということがわかった(笑)。僕は僕にしかなれない。それがわかると、自分の長所もわかるしそこを伸ばせる。欲しいものがあって、それに何年もトライして、できないということがわかったときに「オッケー、ここは僕の得意分野じゃない。他のことをしよう」って思える。

ーーオペラ座のダンサーは皆ユニークですが、そのなかで自分の特性をどう生かすべきか分かってきた?
少しずつね。自分の良さを発見できてきた。だからエトワールという大きな肩書きにも自分なりに対処できるようになってきた。本当に、よかったよ。でも僕はやっぱり僕だから……、今でもやっぱりなんらかのストレスを抱えている。僕にはストレスが必要なんだ。なぜならストレスがないと僕は少し怠け者になる(笑)。ストレスの負荷があるときにはじめて、限界を越えることができるんだ。

(August 7, 2008)

Posted by iwaki : 20:54 | Comments (0)


マチュー・ガニオ3

ーー若いダンサーはコンテンポラリーよりも古典作を多く踊る傾向がある。あなたもそうですが、それはなぜでしょう?
 僕個人の意見を言うなら……まず歴史ある古典作は、代々すぐれたダンサーたちが踊ってきていて、それが自分にもできるかどうか試したいという欲求があるから。しかもそれを上手く踊りこなすことができれば、自分のレベルを観客に示すことができる。それはいい宣伝になるよね(笑)。ただ僕はどちらかというと「より新しい古典」が好き。ラ・バヤデール、ドン・キホーテ、ラ・フィユ・マルガルデなんかがだね。ただ古典作は、毎回毎回新たな解釈を施すのがとても難しい。もちろん新たな解釈を生み出すために努力はすべきなのだけど、1〜2回踊ると、さほど劇的に変わることがなくなってくる。だから歳を重ねると、ダンサーたちは古典作から離れていくのかもしれない。だってこの世界には古典作に固執していてはもったいないほど、いろいろな選択肢があるからね! 特にある一定の振付家の作品は、ある程度のマチュアさを得たときに初めて踊れるものであったりするから。そのフェーズにいつか辿りつくためにも、まずは若いときには古典作を踊りこなして、自分の存在を証明する必要があるんだ。

ーー古典作を踊りこなすことの大変さを言葉にすると?
 アダージオがあってバリエーションがあってコーダがあって……、しかもまわりの人間はみな僕が踊り終えるまで後ろでただ座って待っている。これは古典作ならではの緊張感だね(笑)。しかも2幕なり3幕なりを、完璧なテクニックで踊りこなせる体力をキープしなければならない。だから毎日のクラスに真剣にとりくまなくては、すぐに古典作のレベルは落ちるし、それこそ今よりも歳をとったときに身体が適応できなくなる。でもコンテンポラリーな作品は、これとは少し事情が異なるんだよね。僕の英語力ではどう説明していいかわからないけど。そうだな…、いや、フランス語でも説明できないな(笑)。でもいずれにしろ一番大変なのは、昨日はモダン、今日はクラシック、明日はコンテンポラリーと、身体を対応させていかなくてはならないこと。筋肉の使い方がそれぞれ違うから、これは本当に大変。

ーーでもオペラ座ではそれをしなくてはならない。
そう、でもそれがとても大変であり、面白くもある。なぜならダンスに対して、おのずと広い視野を持つことができるからね。それに新しいことに次々に挑戦できてワクワクするし。でもだからといって、なんでもかんでもやるわけにはいかない。それをやったらすぐに身体を壊すし、いくら若いといっても身体がついていかなくなる。でも今僕はこのカンパニーにいれてとてもハッピーだよ。日々いろいろ学べるし、さまざまな振付家に出会えるからね。

(August 5, 2008)

Posted by iwaki : 21:26 | Comments (0)


マチュー・ガニオ2

ーープティ振り付けの『プルースト』であなたがサン・ルーを踊るのを見ました。プティとの作業はどのように進んでいったのでしょう。
 彼が僕に教えてくれたことは簡単にいって3つ。まずキャラクターの性格づけについて説明してくれ、僕がどういう人間になるべきかについて教えてくれ、僕が何を伝えるべきかについて詳しく語ってくれた。つまり、このムーヴメントを使ってこういうことを観客に伝えるべきなんだとか、パートナーとはこういった関係性であるべきなんだとか、そういったことを教えてくれましたね。

ーーサン・ルーとモレルのデュエットは、二人の男性が鏡像のように踊りながらも、互いに相手のコピーであってはならない。とても難しい振り付けですね。
 そう、そこが難しいところなんだ。自然とサン・ルーらしさが僕の踊りから滲み出てこなければいけないからね。僕の考えではサン・ルーという男は、どこか男性的な勇敢さや強さを持っているキャラクター。だけどそれとは裏腹に、モレルに対しては精神的にとてもフラジャイルな状態にあって。まるで感情的な綱渡りをしているような感じ。そこから落っこちないように、つねに集中していなくてはならないような、ギリギリの精神状態を表さなければならないんだ。

ーーしかも、あのデュエットはとても長いですよね。
 そうだね。しかもその前に自分のバリエーションがあるから、なおさらね。でも僕はどんなに大変でも、大きな役をもらったときのほうが好き(笑)。確かにそうした大役がふりかかってきたその瞬間には、不安やストレスでおかしくなりそうになるけど。どんどん稽古が進んでムーヴメントが身体になじんでくると、観客にうまく伝えたいことが伝えられるようになって面白くなる。でもそれはもちろん、すぐできるようになることじゃない。これはとてもゆっくりと本番の経験を積むことで育まれていくことなんです。ちなみに、これは僕に限っていえることかもしれないけど…、僕は舞台上での「疲労感」から新しい感覚が生まれてくることもあります。というのも、そういう疲労がピークに達しているときは、自分の踊りに対する変な自意識がなくなっているから。いっさい脳でステップを分析しなくなって「ただ踊っている」状態になるから。頭ではなく身体の記憶が、勝手に踊りをかたち作っていくようになる。で、そういう無我の境地のような状態になったときには、素晴らしく美しい小説を読んだあとのような後読感を観客に伝えられることが多いんだ。

ーーサン・ルーの役柄では、モレルとのホモセクシュアルな関係性についても伝えなくてはなりません。
 そうなんだ。つまりサン・ルーはここで女性の役割を演じているとも言える。だから女性のようなロマンチックな愛に対する「純粋さ」や「ナイーヴさ」を表現することが大切。モレルとの関係性においてはすべてが彼にとっては新鮮で純粋な愛なんだ。だけどモレルは逆に、そんなサン・ルーの考えのすべてを掌握していて。しかもモレルは実はそうしたサン・ルーの思考に疲れきっている。辟易している(笑)。だからモレルにとってこれはただの「LUST(肉欲)」。だけどサン・ルーにとっては大文字のLつきの「Love」。巨大な愛なんだ。そこが二人のすれ違いの発端で、そこから二人の感情的衝突が生まれてくるわけだ。

(August 4, 2008)

Posted by iwaki : 00:32 | Comments (0)


マチュー・ガニオ1

このあいだパリに行ってマチュー・ガニオに取材をしてきました。
今週発売の「アエラ」や「シアターガイド」などに記事を書かせてもらったのですが、
なにぶん「エトワール・ガラ」のパブリシティ記事となると、
公演の宣伝になるようなお行儀のいい内容しか執筆できません。
これはつねづね思ってきたことなのですが、ほとんどの取材では、
宣伝記事に採用しないような雑談にこそ
取材相手の人柄が滲み出ていて面白かったりします。
なので、このブログを利用してマチュー君のインタビューを
全文掲載しようと思います。宣伝記事では伝わらない、
彼の本音が少しでも伝わればと思います。

ほぼテープ起こしの状態から手を入れずに掲載するので、
多少、読みづらいところもあるかもしれませんが、
そこらへんは、ご了承くださいませ。

マチュー・ガニオ インタビュー 5/22/2008

ーー今日はなんのリハーサルを終えてきたのですか?
 いまは「椿姫」のリハーサルをしているところです。6月7月のどこかで上演する予定です。これが僕にとって3度目の「椿姫」になりますが、過去2度の「椿姫」もとても楽しい経験でした。確かにアルマンはとても多くのことを要求される難しい役ですけど、要求されることが多いがゆえに、それと同じぐらい多くの感情を観客に届けることができる。そうしたドラマティックなバレエが、いま僕はとても好きなんです。妙な感覚なんですが、物語じたいが僕をうまく踊れるよう助けてくれるんです。しかも毎回、踊るたびに何かが変わる。毎回、何か違う物語が伝えられるんです。ちなみに、そのときそのとき舞台上でおこる感情は準備できないものです。いまのリハーサル段階で「さあ、ここ泣こう!」と準備してもそれはまったく意味がない。本当に泣きたい気持ちになるかどうかは、そのときその場になってみないと分からないんです。だから本番では、リハーサルで準備していたのとはまったく別の方法で感情を観客に物語っているということがあります。

ーーでは本番で、なにか自分も予期していなかったような感情に出くわすこともあるのでしょうか?
 舞台上でパートナーが僕の目を見つめているとき…、とても感情的な目で僕のことを見つめているとき…、その瞬間に「オー、マイ、ガッド!」と叫びたくなるほど巨大な感情にふいに襲われることがあります(笑)。これは、まったく予期できない感情です。でも僕はそうした体験を舞台上で味わうのが本当に好き。特にパートナーと一緒に踊っているときに、僕が彼女に何かを言って、向こうも何かを言い返してきて、その繰り返して徐々に互いに感情が大きくなっていく。そうした感情の構築作業が好き。ただし、感情に溺れすぎてはダメ。なぜなら「椿姫」で言うならば、ジョン・ノイマイヤーはとても美しくてとても難しいリフトを発明する人だから(笑)。そのステップをきちんとこなすためには、感情に溺れすぎている暇はない。逆にいえば、稽古段階でステップはすべてオートマティックに完璧にこなせるぐらい練習を積んでおけば、少しぐらい本番で感情に流されても大丈夫ということになります。

ーー昨年あなたはフォーサイス作品、プティ作品、「椿姫」、「ラ・フィユ・マルガルデ」など様々な演目に挑戦されました。それらの演目のうち、あなたの先シーズンのハイライトは?
 それは難しい質問ですね。というのも僕はすべての作品に何かしらの面白さを見いだせるから。
それにそもそも僕はまだかなり若いので、ほとんどが初役で挑戦ばかりなんです。だから、どんな演目のどんな役でも、つねにエキサイティングな状態でいられる。たとえば古典モノならきちんとフォルムを保ってテクニックも完璧に踊ることに課題を見いだしますし、ローラン・プティとの斬新なバレエ創作なら、偉大な振付家と一緒に仕事をすることに名誉と喜びを覚える。だから、どれがハイライトとは一口に言えない。もちろん、作品によって難しくて大変とか、私生活が大変で集中できないとか(笑)、そういうこともたまにありますけど。ほとんどの場合はバレエは僕に刺激と喜びを与えてくれます。

(August 3, 2008)

Posted by iwaki : 00:14 | Comments (0)


宮本亜門の人生

宮本亜門さんの「人生」をインタビューしてきました。
ざっと話しつづけて1時間半。
ノンストップで語り続けてもらいました。
亜門さんの話は本当に速度があって面白い。
それにひとつひとつのエピソードが、
人を楽しませるための落語の小噺のように練られていて、
こちらも取材だということを忘れて聞き惚れてしまう。

今回の取材でおもしろかったのは、
亜門さんが高校のときに数年間引きこもっていたときの話。
部屋に閉じこもって、何度も何度もすり切れるほど
同じミュージカルのレコードを聴き続ける。
そのたびに、体が震えるような感動が押し寄せてくる。
で、その活火山のような震えによって体が高揚を増していって、
最終的にはあまりの興奮で「吐いた」っていうんですね。
これは別にたとえでもなんでもなく。物理的に吐いたんだそうです。

人間が感動で泣くとか震えるとかは聞いたことがあるけれど、
それを極限まで推し進めていくと「吐く」のかと。
そのことにまず驚いた。で、ここに亜門さんの創作活動の原点をみた。

亜門さんは多分、そのときの身体感覚をまだどこかに残していて、
そうした「人の精神状態を壊してしまうような感動」を
他者と分かち合いたいがために今でも創作活動を続けている。
つまりものすごく強い身体的衝動をエンジンにして、
舞台に愛を注いでいる。そんなふうに思えた。

人と人とは一瞬なら、理解しあえるかもしれない。
そのために僕は舞台を作り続ける。

そう言って話し終えた亜門さんの表情が印象的でした。

(August 1, 2008)

Posted by iwaki : 23:27 | Comments (0)


クイーン・ラニア

「アラブ=イスラム=テロリズム=戦争」
そんなステレオタイプな思い込みを打破するために、
ヨルダン王妃であるクイーン・ラニアがみずからYou Tubeに
チャンネルを立ち上げたことは、皆さん、ご存知でしょうか。

ここで王妃は、中東地域の人々に対する、
十把一絡でおおざっぱな知識、既存メディアにより作られた偏見、
などに対してオープンな質問を視聴者からつのり、
それに対してひとつひとつ丁寧な答を返しています。
編集やフィルタリングのかかっていない、
本物の視聴者の声がここにはあります。

日本に住んでいると、
中東地域で起こっている紛争や、
イスラムに対する差別が、
完全に違う世界の出来事のように思えてきます。
けれどこのチャンネルに寄せられる声に耳を傾けていると、
いかに彼らが理不尽で愚鈍で無知な差別や暴力に
日常的に会っているかということが
すべてではないですが自分なりに理解できます。

MBA取得者であり、シティバンクやアップルで働いた経験もある王妃。
その洗練された美貌と物腰で、世界一写真に撮られることの多い王妃
ともうたわれています。彼女はその美貌と知名度をうまく利用して、
世界中の人々に中東地域の真実を語りかけているのです。

ぜひ皆さんも一度、彼女のHPを覗いてみてください。


You Tube Queen Rania's Channel
http://uk.youtube.com/queenrania


(July 27, 2008)


Posted by iwaki : 21:01 | Comments (0)


Kamikaze sperm

ロンドン滞在中にとても面白い恋愛心理学の本をみつけました。
「LOVE SICK」というタイトルの本で心理学者のフランク・タリス博士が執筆しています。
ここでは、恋愛にまつわるいろいろな事象が、科学的に、文学的なおもしろさを交えながら説かれます。
たとえば結婚にまったく興味のなかったかのダーウィンがいとこのエマに一目惚れするや人が変わったような愛妻家となり子供を10人もうけるまでにいたったエピソードから恋愛の心理作用を分析したり、ギリシャ神話の「パリスの審判」を引用して人間がなぜかくも絶対的な美に強欲かということを探求したり、スタンダールの「恋愛論」から"結晶作用"を用いて、なぜ恋人同士があばたもえくぼ状態に陥りやすいかということを説いています。

まだ読み進めている最中なのですが、特に私の興味をひいたのは「Kamikaze Sperm」という精子の存在です。女性器に放出された精子は俗世間的には24時間で死滅すると思われていますが、現在の研究ではいくつかの精子は、膣内の小さな穴に生息するかたちで最長で1週間生き延びることができるそうです。そしてこの精子のなかには、卵子に向かって競争をする通常のおたまじゃくし型の精子とは別に、他の男性の精子が膣内に万が一進入してきたときに、その突入を自爆テロ的なアタックによって食い止める「カミカゼ精子」という勇敢な精子の存在が認められているそうです。しかもこれは女性が広く不倫を楽しむようになってから、男性が進化の過程で体内で生み出した精子なんだそうで。あえてマッチョな言い方をするなら現代社会で男性がいい女をモノにするためには、オフェンスだけでなくディフェンスも固めなきゃいけない。どちらの能力も強い精子を持ってはじめて女性を手に入れることができるのです。

ただでさえ「性格差」が広がっている、現在の男社会。精子の世界にも強いの弱いのという格差があるなんて知りませんでした。そのうち科学が進んだら、精子のオリンピックなんてものができて、世界一強い精子を選ぶようになるかもしれませんね。

(July 22, 2008)

Posted by iwaki : 01:45 | Comments (0)


シュツットガルト

一昨日からバレエ取材のためシュツットガルトに来ています。

この街の人々はとても穏やかで、歩くスピードもロンドンやアムスに比べるとゆったりとしている。ショッピング街などにあるエレベーターのスピードもとんでもなくゆったりしている。水や緑も豊富で、歩いていると草いきれの香りが鼻をついてきます。また驚くのが電車の乗車システム。乗るのも降りるのも、どこにも改札というものがないのです。しかもほぼすべて無人駅。だから心さえ痛まなければ、無料乗車し放題。とりあえずここ数日間、誰も販売機で切符を買っているところを見たことがないのですが、どういうシステムになっているのでしょうか。

バレエの幕間時間も30分もあって、とてもゆったり。みんな劇場の外に出て、ドイツ人らしくプレッツェルなんかをほおばっています。私もものは試しとトライしてみたのですが、これが予想以上に喉の乾く食べ物で、なるほどこれを食べながら、喉を潤すビールとを飲むとさぞ美味しいのだろうなと合点がいきました。

取材自体に関しては、また後日書きます。
シュツットガルト・バレエ芸術監督のリード・アンダーソンと、プリンシパルダンサーのフリーデマン・フォーゲル、アリシア・アマトリアンにインタビューをしてきました。皆さん、ひとつ質問すると5分ぐらい解答を返してくれる人たちでとても取材が楽だった。

明日には東京に戻ります。
とても暑い日々が続いていると聞くので、覚悟して帰ろうと思います。

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(July 18, 2008)

Posted by iwaki : 00:42 | Comments (0)


THE DIVER

今日、ロンドンで野田秀樹さんに取材をしてきました。取材内容は、野田さんがSOHO THEATERで上演している「THE DIVER」に関して。野田さんは開口一番、この芝居の観客のリアクションはおもしろいんだよ。俺が遊眠社で芝居をしていた20歳の頃のリアクションにどこか似てるんだよね、と笑いながら語ってきました。要するに、確かに観ているものは面白いのだけれど、どう解釈していいかわからない、という。そんな芝居をロジックで処理しきれないことに対する戸惑いが、観客に見てとれるのだと言いました。ちなみに英国新聞『THE GUARDIAN』の劇評もそんな戸惑いが顕著に現れているものでした。THE DIVERを観たことを決して忘れることはない、けれど、あまりにも内容が多義的で複雑すぎる…、という内容のコメントが載っていました。

私自身、こうして色々な国をまわっていると、イギリスの劇場文化の特異性に自分なりに気づくことがあります。ひとつ言えることは、この国の人々は、なぜか言語というものに全幅の信頼を寄せていて、言語化できないパフォーマンスに対しては明らかに低い評価をくだす癖があるということです。どんなにアブストラクトな身体言語を使うダンス公演でも、それをむりくり言語化して、ストーリー的に説明しようとする。これはかなりイギリス特有の、ある意味、傲慢で荒っぽい対処法です。個人的にはこういう劇評を目にすると、そんなすべて何もかもが言語で処理しきれてしまうのだったら、わざわざ芝居やダンスなんか作ろうと思わないだろと反論したくなります。

野田さんもこうしたイギリスの劇評には違和感を覚えていて「すべて言語化して表現してみせろ、という態度は劇評文化として間違っている」と言っていました。『THE DIVER』は明らかに、言語化できない要素が多分に含まれている芝居です。テーマもふんだんに含まれていて、ひとつの大きな結論に結びつくわけではない。だからこそ、そういった芝居を見慣れていないイギリスからは、いろいろと反発が来ることもあるようです。

これからドイツのシュツットガルトに向かいます。ドイツ人は果たしてどんな文化を持っているのか。いろいろ探検してこようと思います。

(June 15, 2008)

Posted by iwaki : 03:24 | Comments (0)


アムステルダムの窓

アムステルダムの町を数日歩きまわって、いまはロンドンに来ています。ロンドンという大都市に比べると、アムステルダムは人が住むのにちょうどいいサイズの町です。だからかショッピング街も、大きなシステムに制御された商業地区という感じではなく、この町を愛する人たち個々が、店を持ち、売りたい商品を選び、町を手作りで創成しているという印象を受けました。一言でいうなら「ハンドメイドの町」。こういう場所に住む人々は、おそらく自分たちの町を「自分たちが作り上げているんだ」という気概を持ちハッピーに暮らしていけるのだと思います。
ちなみにアムスの人たちは、驚くべきことに、窓にカーテンを引きません。だから夜になると、家のなかが外から丸見えです。でも地元の人の話によると、これはそういうお国柄なんだそうです。向こうもこちらを見る、こちらも向こうを見る。そうやって人と人がコミュニケーションしているのだそうです。また家のなかをいつでも自由に部外者が覗き見れるからか、アムスのインテリアはとても洗練されていました。特にライティングは面白くて、一般人のアパートが町の景観を作りあげるインスタレーションのようになっている。おもしろい。今回はあまり観光ができなかったのですが、今度また来る機会があったら、そのときはアムス特有の夜の大麻の匂いに漂いながら、さらに町の深いところまで探求することができればと思います。

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(July 14, 2008)

Posted by iwaki : 17:16 | Comments (0)


雨雨雨

イギリスのタンブリッジウェルズという本当に穏やかな田舎町を昨日出発して、今日はオランダのアムステルダムにいます。イギリスで天気があまりよくなかったのでアムスではなんとか晴れないかな、と願っていたのですが、やっぱりここも雨です。しかも2ヶ月前にヨーロッパに来たときよりも、格段に寒い。ジャケットが手放せない。せっかく日本の梅雨を抜け出してきたのに、雨雨雨に見舞われて、ちょっと残念な気持ちです。

ちなみに、この町の人たちは、まあまだ着いたばかりなので詳しいことは分かりませんが、とてもシャイで物静かな印象があります。夜になればまた別の顔が見えてくるのかもしれませんが、昨日まで一緒にいた、まっぴるまから下ねたを連発しつづける、クレイジーなイギリス人とウクライナ人に比べると、格段にジョークの瞬発力が低い。国によって人々の日常会話のトーンといのは、本当に異なるので面白いです。

(July 10, 2008)

Posted by iwaki : 22:42 | Comments (0)


イギリスのインフレ

イギリスに到着しました。この国に来るのは今年1月以来、約半年ぶり。降り立ってまず何より驚くのは来るたびに信じられないほど物価があがっていることです。最近のBBCニュースによると、一般家庭の生活費は今年上半期のみで6.7%も上昇、スーパーでの食品価格は過去1年で7.8%上がったそうです。お米やパスタの値段は店頭で倍近い値段がついています。キオスクで小さな500mlペットボトルの水を買うと約300円もふんだくられ損した気持ちになります。

さらにひどいのは、学費問題。大学進学を希望する生徒は、去年よりも、13%も多くの学費を納めなければ勉学に励めなくなりました。平均的な学費が3000ポンド(約635万円)というのだから、これはもう日本でいうと音大とか医大にせまるバケモノ価格なんじゃないでしょうか。
食費が高騰して、学費が高騰して。要するにこの国では、それなりの物を食って、それなりの知識を得たいのなら「金持ちになれ」という図式があるのかもしれません。

ちなみに、この国は一般人に対する医療制度もあまりよろしくない。私は以前イギリス滞在中に、運悪くインフルエンザにかかったことがあるのですが、そのときに駆け込んだ一般病院でひどすぎる対応をされた苦い思い出があります。あとあとイギリス在住の友人にそのときの怒りをぶつけると「イギリスでまっとうな医療を受けたいなら金持ちにならないと。税金も納めていない外国人に対してイギリスの医者がいい対応をするとは思えない」と一蹴されました。なので日本に帰国してから、地元のお医者さんに、とてもとても丁寧に対応されたときには、心からの感動を覚えました。詳しいことは分かりませんが、日本ではまだ、一般庶民の納税額でそれなりの医療を受ける制度が残っていると思われます。

ロンドンはいま、とても景気がいい。不動産価格も世界の他のどの土地よりも高い。けれど、その景気の恩恵を授かっているのは、おそらくほんの一部の金持ちだけ。一般庶民はむしろそうした人々にコントロールされ、人並みの食事や学費や医療を受けることにも不自由し苛立ちを覚えているのです。どんな職業の、どんな階級の、どんな人間であれ、それなりにまっとうな生を送る権利があるという理屈は、国を動かす地位にあるイギリス人には届かない言葉ないんでしょうか。ちなみに、今年「世界でいちばん幸せな国」に認定されたデンマークでは、バカ高い税金を支払わされるとはいえ(確か25%)、医療も、学費も、すべてタダ。家賃もとてもdecent(まっとう)だそうです。

そういえば以前、英国人ジャーナリストと話をする機会を得たときに、彼は肩をすくめながら、こんなことをボヤいていました。
「イギリスではいったん物事は悪いほうに進んだら、それはもう絶対に逆戻りしない。回りはじめた車輪を、止めることができないんだ」
彼の言葉がもし本当だとしたら、この英国の作為的なインフレは、さらに進行するはずです。

(July 8, 2008)

Posted by iwaki : 06:37 | Comments (0)


また渡欧

来週の頭から、またヨーロッパに取材旅行に行ってきます。
現在『THE DIVER』という公演をロンドンで上演中の野田秀樹さんや、
ドイツのシュツットガルド・バレエのダンサーたち、などに、
現地におもむいて取材をしてくる予定です。

ただ段取りが決められた取材以外にも、
実際にそれぞれの国に足を踏み入れて、
その場で興味を持ったことがあったら、
自分なりにその対象物にアプローチをかけて来ようと思います。

最近よく思うのですが、決められた対象者に会うために
海外に行って記事にするのは、それはそれでもちろん面白い。
でも逆に、現地で偶然出逢った「おもしろ」にそそられて
探究心を深めていって記事としてまとめる、という方法論も
いいんじゃないかと思っているのです。

手綱を手放し、レールを外れ、自由に歩き始める。
そうやって自分で靴をすり減らし歩いて見つけ出した情報のほうが、
決められた予定調和な情報に当たり前に出逢ったときよりも
衝撃度がよっぽど大きい。それに世界も格段に広がります。

なんであれ、新しい人と物と街との出逢いにワクワクしながら
約2週間の旅を過ごして来ようと思います。

(July 4, 2008)

Posted by iwaki : 01:16 | Comments (0)


愛撫の効用

現在発売の『NUMERO』でセックス特集の原稿を書いているのですが、そこで身体心理学者である山口創さんへのインタビューを掲載させてもらっています。山口さんは、触覚・皮膚感覚・愛撫、といったことが科学的に人にどのような影響を及ぼすのかということを真摯に研究なさっている方で、私は『愛撫・人の心に触れる力』という一冊の興味深い著書でその存在を知りました。

私はこの本を読む前からつねづね、人にハグしてもらったり、愛撫してもらったりすることは、健康に良い気がする、という個人的体験からの勝手な持論を掲げていました。子供の頃アメリカに住んでいたときに親しい大人にハグしてもらったときにはなんだか体が温かくなった覚えがあるし、恋人と豊かな愛撫があったうえでセックスを楽しんでいるときには、データ的にみても確実に体を壊す機会が少ない。

どうしてなんだこれはー、とぷすぷす燻る疑問から色々と情報収集していった結果、山口先生の著書に辿り着きました。そしてそこには愛撫をされることによって「免疫力が高まる」というファクトが書かれていたのです。これには「!」という驚きと共に「やっぱりね」という納得が自分のなかで生まれました。

ちなみに山口先生は取材時に、とても面白いエピソードを語ってくれました。雑誌には書けなかったので、ここで紹介します。これはまだ仮説の域を出ない話なのだそうですが「子供時代に親に触れられないと、その飢餓感が怒りとして無意識の領域に抑圧され、その怒りが発疹や湿疹として皮膚に出てくる」そうなのです。なので慢性的な湿疹などに悩まされている成人患者のデータをとってみると「子供時代にちゃんと愛情を持って親に触れられなかった」ということがあるらしい。

日本人は身体の距離感がとても遠い国民ですが、それなりに親しい間柄だったら、握手をしたり、肩を叩き合ったりするぐらいはできるように思います。また夫婦間などだったら、お互いの肩をもんだりするのもいいかもしれません。それだけでも相当、互いの触覚を刺激することになると山口先生は仰っていました。触覚の世界はとにかく、奥が深いのです。面白い。

(June 30, 2008)

Posted by iwaki : 20:23 | Comments (0)


タロット占い

私は占いというものを、ほぼ信じません。けれど、先日タロット占いができるという知人に久々に出くわし、タダだから、という理由でものは試しと占ってもらいました。プロセスとしては占うテーマを決めてからカードを「H」のような形に配して、そこから運勢を読み解いていくのですが、これがまたなんでっていうぐらい見事に心当たりのあることばかりを言われて、ちょっと気持ちが悪くなりました。ちなみにこの知人は私の近況をほとんど知らないので、推測して言葉をつむいでいるだけでは、勘が良すぎるって話になるのです。しかし彼女の話によると占いは「その日」のその人の心を反映するので、また別の日にやったら違う運勢が出るそうです。ものすごく悪いことも言われたので、ぜひ、また別の日に、今度はいいことを言われるためにやってやろうと思います。

その方にネット上でできるタロット占いのサイトを教えてもらいました。
まあ当たるかどうかは別にして、娯楽としてどうぞ。
http://www.facade.com/

(June 28, 2008)

Posted by iwaki : 11:22 | Comments (0)


思考停止と差別


皆さんは「人種差別」ということをどの程度ふだん意識していますか。
私は幼少のころニューヨークに住んでいたとき、かなり理不尽な差別攻撃を受けたことがあります。
何をしたわけでもないにも関わらず、通りがかりのドライバーに「ゴー・バック・トゥー・ヒロシマ。ジャップ!」と言って車の窓から石を投げつけられたのです。これには正直、面食らいました。というより、自分のなかに何か処理できない「困惑」に近い感情がそのときから残っているのです。大人になってからこの事件を再考してみても、なぜそのドライバーがそんな行動に出たのか論理的な解答が出ません。そこから導き出せる答えは今のところただひとつ、人種差別はある種の「思考停止状態」と同じで、さほど大きな理由はいらないということです。

最近はアメリカ大統領選で、初のアフリカ系アメリカ人候補であるバラク・オバマ氏が奮闘しているため、いろいろなところで人種差別問題が再び顕在化してきています。CNN.comでは最近「RACISM IN SPORTS」と題し完全に能力主義でフェアな職種であるべきプロアスリートの世界でも、いまだ人種差別問題が明らかに残る、という意図の特集記事が組まれていました。特にフットボールのセリエAでの差別はいまだにかなり酷いそうで、数年前にはFCメッシーナ所属でコートジボワール出身のMarc Zoro選手が観衆からのあまりにも堪え難い人種差別的なヤジに抗議の意をあらわすため、ボールを抱えたままピッチを去る、という行動に出たことがあったそうです。その果断な行動により、少しはセリエA内でのレイシズム問題が人の口にのぼるようにはなったそうですが、いまだ差別撲滅からは程遠い状態にあるようです。

また数日前のニュースではオーストラリアのアボリジニが政府から理不尽な人種差別扱いを受けたことに怒りをあらわにし、エアーズロックとして有名なウルル(アボリジニの管轄下にある)を観光客に対して今後いっさい閉ざすという声明を発表しました。なんでもアボリジニの子供たちが性的虐待を受けている、という報告が政府にこのところなされていたそうで。それに対して政府は調査もそこそこに「野蛮なアボリジニの大人たちが、自らの子供たちを虐待している」という結果をかなり独断的に下したそうなのです。これは人種差別的な決断以外の何ものでもありません。

さて世界ではこれほど「人種差別」ということが問題になっているにも関わらずす、日本ではさほどこうしたニュースが話題にのぼりません。果たしてそれでいいのだろうか、と自問自答してしまいます。自分が人種差別主義者か否かということに対してあまりにも意識を巡らさずに暮らすことは、前述したニューヨークのドライバーと同じで、なんらかの思考停止状態に陥ってしまう気がします。

そこでちょっと自分の人種差別意識を顕在化すべく、調べてみたところ、ハーバード大学研究所が「IATテスト」というネット上の人種差別度測定テストを行っていました。これはアメリカやイギリスなどでは既にかなりステータスのある調査らしく、自分のなかの無意識的な信念や選好を自覚化させてくれるツールとして、多くの人がテストをみずから受けてみているらしい。私も、ものはためしとネット上でテストをトライしてみたところ「あなたは結果、黒人よりも白人に対してわずかに自動的な選好を示しました」という結論が出ました。これはかなり意外でした。
皆さんももし時間があったらトライしてみてください。日本語でできますし、10分ぐらいで終わります。
自分のこと、あるいは自分の生きる世界のことを再考するうえで、なかなか役に立ちます。
https://implicit.harvard.edu/implicit/japan/index.jsp

(June 24, 2008)

Posted by iwaki : 01:00 | Comments (0)


ダンスとアートとセックス

先月1ヶ月欧州に滞在していたのは、別に仕事のためではないのですが、理由はなんであれせっかくの機会なので、いろいろなカルチャーにそれなりに触れてきました。どんなものを見てきたのか(全部ではないですけど)とりあえずここに一度まとめておこうと思います。

 PHILIPPE DECOUFLE「COEURS CROISES」
 巨匠振付家ドゥクフレの新作です。一言でいえばちょっとキッチュな
 ストリップティーズ。あまり笑えないフレンチユーモアが全編にちり
 ばめられたアートというよりも俗っぽい娯楽作で私はあまり好きじゃ
 なかった。「シャザム!」の頃の冴えていたドゥクフレはいずこへ。

 YELLE&SES INVITES
 これはダンスじゃなくて、フランス人女性のエレクトロポップ音楽。
 なんでもいま現地で大変な人気なんだそうで。私はちょっと会場に
 寄ってみただけなのですが、ティーネージャー女子が狂ったように
 テクトロニック(おしゃれなパラパラみたいなもの)を踊っていた。
 しかも歌詞がすごいのね。「私はあなたのことが見たい。ポルノ映
 画で。ちんこのアクションつきで」って。これが堂々サビですから
 ね。フランス人の女の子たちのセックスへの奔放さがアグレッシブ
 で過剰になってきている、という知人の話は嘘じゃないようです。

 SOPHIE CALLE 「PRENEZ SOIN DE VOUS」
 言わずとしれた自己愛アーティスト、ソフィー・カルの個展。彼女
 が元彼にふられたとき、その別れの手紙の末尾には「PRENEZ SOIN
 DE VOUS (TAKE CARE OF YOURSELF)」と記されていた。そこで
 本当に自分を大切にTAKE CAREすることを心に決めた彼女は、その
 別れの手紙を107人の女性に手渡し分析&表現してもらうという
 暴挙にでる。他人の別れの手紙を題材にとると、人はこんなにフェ
 イクに演じちゃうのか。それが私の個展の第一印象。だから個人的
 にはリアルな痛みというより、フェイクのおかしみと哀しみが際立
 ったエキジビションだった。

 DANIEL LEVEILLE DANSE 「LA PUDEUR DES ICEBERGS」
 カナダのダンスカンパニーです。数人の男女の裸体を、ナレティブ
 な作品としてではなく建築的&造形的に見せるというコンセプトの
 作品。動きじたいに驚きはさほどなく、身体でアーキテクチャーを
 作り上げるというワンアイデアに途中で少し飽きてしまった。

 MUSEUM EROTICA
 デンマークにある性にまつわる美術館。置いてある美術品はさほど
 目新しくはないものの、デンマーク出身の童話作家であるアンデル
 センの性にまつわるエピソードなどがわりと事細かに書かれていて
 面白かった。彼が終世、童貞だったという話は有名ですよね。あと
 面白かったのはヴァチカンに世界一巨大なセックス書庫があるとい
 う話。猥雑情報をキリスト教地域から一切抹殺しよう戦った結果、
 ここに情報が行き着いたそうで。で、誰も一般人はなかには入れな
 いらしい。でも入ってみたい。

 RICHARD SERRA「MONUMENTA 2008」
 モミュメントのような巨大彫刻を作りあげるリチャード・セラの
 個展。微妙に傾いたり、かしいだり、前倒しになったりしている
 数枚の見上げるサイズのスティール板がグラン・パレに一列に配さ
 れていて、そのあいだを観る側が歩き抜ける形で堪能する。客観視
 しているときには分からない、めまいのような異質な身体感覚が、
 作品のあいだを実際に歩き抜けてみることではじめて襲って来て、
 興味深い。こちら側が能動的に働きかければかけるほど、身体と
 頭脳への衝撃度が増す、シンプルで美しく異様に力強い作品。

 あとは以前のブログにも書いていますが、
 山海塾の新作『TOBARI』と
 ヴィム・ヴァンデケイビュスの『SPIEGEL』などを見ました。
 ヴィムさんの作品は図抜けて面白かった。

 以下に情報のリンクを張っておきます。
 PHILIPPE DECOUFLE Companie DCA http://www.cie-dca.com/
 YELLE&SES INVITES http://www.myspace.com/iloveyelle
 SOPHIE CALLE  http://www.bnf.fr/pages/version_anglaise/cultpubl/exposition_825_eng.htm
 DANIEL LEVEILLE DANSE http://www.danielleveilledanse.org/
 MUSEUM EROTICA http://www.monumenta.com/2008/
 SANKAI-JUKU http://www.sankaijuku.com/
 WIM VANDEKEYBUS/Ultima Vez http://www.ultimavez.com
 
 

(June 20,2008)

Posted by iwaki : 01:12 | Comments (0)


カウンセリング

皆さんは普段、人との「対話」にどのていど意識的ですか?
私はインタビュアーという仕事柄、人と話をする機会がとても多いのですが、それにも関わらず、今までかなりのどあい無自覚に「対話」を行ってきていました。なのでここにきて遅ればせながら「対話」の勉強をしはじめているところです。精神対話士の本や、カウンセラーの傾聴の本、心理学の本などをしこたま買ってきては、人とコミュニケートする術に、少しずつ繊細に緻密に自覚的になろうと勉学に励んでいるところです。

さらに、ものは試しとこのあいだ自らカウンセリングを受けてきました。で、これがかなり面白かった。なにが面白かったって、まず普段の生活では考えられないほどエントランスから柔らかな物腰で対応されるんですね。それに、私にカウンセラーが質問するときも言葉のトーンもぬくぬくの湯豆腐のように柔らかい。にもかかわらず、使う言葉じたいはかなり強烈なインパクトのボキャブラリーだったりするのです。要するにセッション後も、私の脳内にあえて言葉が残るようにするためか、かなり強い言葉を選んで、私の言動を肯定しにかかるのです。言われて一番面白かった言葉は「あなたには安全感が足りない」という言葉でした。これには少し笑ってしまいそうになりました。不謹慎ですけどね。
しかしカウンセリングというと、日本ではわりあいネガティブなイメージをもたれがちですが、もっとみんなライトな気持ちで試してみればいいのにと思いました。私も自分の考えをいったん言葉にして相手に投げかけることで、思考が客観化できて、とてもクリアになりました。

ちなみに私自身、いま自分の「対話プロジェクト」の勉強台になってくれる人を募集中です。勉強台って言われても一体何をするの?って感じでしょうけど、もし少しでも興味がある方があったら連絡をください。詳しいことをメールします。

Posted by iwaki : 00:00 | Comments (0)


デザイナーズ・セックストイ

今日は『NUMERO TOKYO』の取材のため、女性のためのセックストイ・ショップを訪れてきました。セックスショップと言うと、人によってはぎょっとして引かれる方もいるかもしれませんが、実はこうしたお店は近年では、さほど後ろめたい匂いのする場所ではなくなってきています。裏路地や寂れた暗がりの匂いのする場所……という偏見は、まだ残るとはいえ、かなりなくなってきていると個人的には思います。
世界的にみてもセックストイ産業はとても洗練化されてきていて、たとえば数年前には、ロンドンのファッション学校セント・マーティンを卒業したシリ・ズィンの最高級デザイナーズ・トイ(写真)が「セリュックス」(ルイ・ヴィトン表参道にある高級会員制クラブ)で展示されたりもしました。またイギリスのセックス・ブティック『MYLA』はトム・ディクソンやマーク・ニューソンなどにセックス・トイをデザインしてもらったりもしています。欧米では今や一部のセックストイは、デザイナーズ・グッズに変貌を遂げつつあるわけです。
ちなみに今日、取材に行ったのはLOVE PIECE CLUBという本郷の東大横にあるお店。店長の北原みのりさんもとても柔らかでユニークな方でした。ちなみに雑談で話してもらった「韓国人女性はあそこが緩まないようにするために、ほとんど帝王切開で子供を産む」という話にはビックリ。性の世界は表立って語られないだけに、とても興味深いのです。今後はこのブログでも、定期的にセックスコラムを書いていこうと思っています。

shirizinn06.jpg


MYLA http://www.myla.com/
LOVE PIECE CLUBhttp://www.lovepiececlub.com/

(June 12, 2008)

Posted by iwaki : 21:20 | Comments (0)


究極の理解

今日はBunkamura Magazine 7月号に掲載される『エトワール・ガラ』の原稿を書き上げたのちに、1歳児の母親となった友人宅に遊びに行ってきました。ちなみに最近、私は個人的にコミュニケーション力にとても興味を持っているのですが、この友人宅に遊びに行って、彼女と息子のあいだで行われている究極のコミュニケーションを見て本当に驚いた。子供がアーと言えば「はい、テレビの時間ね」とすぐに理解し、子供がブーと言えば「ごめんごめん、トマトは手で食べたかったんだね」と相づちを打つ。他者である私にはまったくわからない、子供のすべての行動に対する精査なデータがあって、そのうえに絶対的な母子関係が築かれている。「すごいね、完璧な意思疎通だ」と私が友人に賛辞の言葉を投げると、彼女は「そんなことないよ、生まれてから四六時中一緒にいても、今でも間違えることはある」と答えてきた。そしてそのとおり、赤児の言葉や態度を少しでも間違って捉えたときには赤児はびえーっと泣き出した。
でもいずれにしろこれは書物や研究からは学べない人間本来に備わった(でも多くの人が軽視いしてる)ものすごい能力だと思う。人は人のことが分からない理解できないというけれど、片時も離れず一人のことだけを全力で見続けていると、こんなにも人間同志は理解しあえるらしい。本当に素晴らしい。「まあそのかわり、自分が女でいつづけることは捨てざるをえなかったけどね(笑)」と笑った彼女の顔は、なかなか私には美しく映った。

(June 9, 2008)

Posted by iwaki : 23:23 | Comments (2)


帰国

日本に帰国しました。怒濤の情報量にさらされた1ヶ月で、まだ頭のなかの整理がついていません。でもそんなことはおかまいなしに日々はすぎていくので、とりあえず日常生活に少しずつ慣れていこうと思います。セックス特集に関しても、もう少し頭が落ち着いたら詳細を書こうと思います。ざっくりと言うと、身体心理学者の山口創氏と人類学者のヘレン・フィッシャー氏にそれぞれ電話取材をして、科学的スタンスからセックスにおける愛撫の効用について、セックスと恋愛の相関関係などについて語ってもらいました。とても興味深い取材がとれたので、記事にするのが楽しみです。

(June 6,2008)

Posted by iwaki : 23:25 | Comments (0)


パリ再臨

北欧や東欧の街をいくつか転々として、今はふたたびパリに戻ってきています。20分もあれば街の中心部を歩き抜けてしまえるような場所で暮らしてからパリに帰ってくると、この街は人も車も騒音も多すぎると本当にあきれてしまいます。あとこれは人口密度が少ない場所に行ってみてあらためて思ったことなのですが、ここでは他者に対する意識がとても低い。確かにパリや東京などの大都市で周囲の他者全員に対して意識を配っていたら、とてもじゃないけど脳みそが情報を処理しきれなくて、すぐに音を上げてしまうと思う。だから人を物として見て処理するようになってしまうんでしょうけど、やっぱりこれはちょっと人間として自然体な状態じゃない気がします。東欧のある街などは、あまりにもダルでやることがないことから「人間」そのものがいちばんの好奇心の対象になっていて、カフェのテラスに座って目の前を歩く人たちを見る"アトラクション"が根付いていた。まあその街は世界でもまれにみる美人量産都市で、くる人間くる人間みんなが美人だから成り立つアトラクションだったのかもしれませんがーー。
パリでは昨日、ヴィム・ヴァンデケイビュスの『スピーゲル』という作品を観てきました。体と体がクラッシュするような男臭い攻撃性と、心理的異常行動を表すような繊細なディテール、そしてヴィムさんの向日性をもった遊び心が、破綻なくひとつの作品のなかに盛り込まれていて、観終えたあとスリリングな疾走感から鼓動が高まるのがわかりました。あと音楽もとても完成度が高かった。珍しく観終えたあと「おもしろい!」と心から思うことができる作品でした。
そして今は『NUMERO TOKYO』のセックス特集に向けての取材や執筆を進めています。今まで私はダンスや芝居に特化したジャーナリストとして記事を書いてきたのですが、ここ最近「セックス」という題材に興味を広げて勉強をつづけてきました。その勉強の成果となる記事第一弾が、このNUMEROの仕事です。これに関してはまた後日、詳しく書こうと思います。

(June 1, 2008)

Posted by iwaki : 19:01 | Comments (0)


エトワール・ガラ 取材

パリ・オペラ座のダンサーへの取材が今日、終わりました。
インタビューを受けてくれたのはマリ・アニエス・ジロ、マチュー・ガニオ、そしてバンジャマン・ペッシュの3人。彼らとはガルニエ宮の近くのカフェ・ド・ラ・ペでおちあい、それぞれ約1時間ずつおしゃべりを楽しみました。

マリ・アニエスは舞台上の力強いイメージからすると別人かと思えるほど、シャイで柔らかな印象の女性でした。自分とナタリー・デセイ(!)のために振り付けた新作バレエの話や、『エトワール・ガラ』で特別に世界初演する……かもしれない未発表演目についてなどなど、30分の予定だったところを20分以上も延長していろいろと話してくれました。
マチューもこれまた愛らしいほどシャイな男の子で、私が持参した電子辞書で英単語を生真面目に検索しながら「ごめんね、慣れない英語で」と断りを入れつつ熱心に取材に応えてくれました。個人的にはローラン・プティとの最近の仕事である『プルースト』のサン・ルーの解釈話がとても面白かったです。
最後に話したバンジャマンは前日までスペインで仕事だったそうで、シャルル・ド・ゴール空港に着いたその足で取材場所を訪れてくれました。でもまだ体はスペイン時間のままのようで、カフェでブラディーマリーを頼んでは「スペインでは今頃がカクテルタイムだからねー、飲みながら話すけどいいよね」と陽気な雰囲気で応じてくれました。話自体もスペイン人顔負けの熱さで、彼がアーティスティック・ディレクターとして、どれだけ『エトワール・ガラ』に心血を注いでいるかが分かるパッショネイトな内容の話でした。
しかし個人的にひとつ残念なことが。バレエとはまったく関係ないのですが、彼らフランス人のジョークに私が今ひとつきちんと対応できなかったのです。バンジャマンなんてあまりにも生真面目な顔でジョークなのかジョークじゃないのか分からない線の笑いを会話の随所に落とし込んでくるので、いまひとつ突っ込みどころがつかめないのです。もう少し外国人のジョークに瞬発力を持ってウリャッと突っ込める方法(と語学力)を獲得せねば、と思いました。
彼らのインタビューはとりあえずは『エトワール・ガラ』の公式プログラムに執筆予定。あとはどの雑誌にどの程度、書き分けられるかまだ分かりませんが、詳細が決まり次第このHPでも発表しようと思います。

(May 22, 2008)

Posted by iwaki : 05:11 | Comments (0)


MULTI-CULTURE

東京をたってからちょうど10日が経ちました。
たったの10日だとは思えないほど、肉体的にも精神的にも密度の濃い日々を送っています。生活のテンポ自体は日本にいるときよりもゆったりしていると思うのですが、やるべきことが毎日違うため、一日として同じ日がありません。

会う人々も実に多彩です。
スペイン人の女の子は「今住んでいるフランスでは知人や同僚はいるけれど、フレンドと呼べる人間はいない」と寂しそうに語ってきました。どうやらスペイン人とフランス人の対人距離感はかなり異なるようです。ポルトガル人の男性は「ポルトガルでは20歳前後で結婚するのは当たり前」という驚くべき事実を教えてくれました。ポルトガル人は欧州のなかでもひときわオールドファッションな国民のようです。またイタリア人の女の子は、若い女性の雇用制度がとんでもなくひどいことを教えてくれました。そこでちょっとデータを調べてみたら、確かにイタリアで仕事を持つ女性のパーセンテージは低いようです。デンマーク71%、フランス58%に対し、イタリアは45%。同じくイタリアでベルルスコーニの政治体制はある意味独裁に近い、ということを皮肉なユーモアを交えて話してくれた男性の話もとても興味深かったです。そして、その話から私はイタリアという国がとてもとても不安に思えてきました。
今日はパリにいます。パソコンを開いていたら、隣りの老夫婦が「ここではインターネットがただでできるのですかマドモアゼル」と聞いてきました。「ウィ」と応えると男性のほうが「近所に住んでいるのに知らなかった、明日からパソコンを持ってこなきゃ」と楽しそうに笑います。
こうして今日も異国の地での夜がふけていきます。

明日からはパリ・オペラ座バレエのダンサーたちへの取材がはじまります。
楽しい取材にできればいいな。

(May 18, 2008)

Posted by iwaki : 02:54 | Comments (0)


日本ーイタリア

犬がシロツメクサと無邪気にたわむれ、レモンの鉢植えにぶんぶんとハチが飛びかい、ミントの木が気持ちよさそうに日光浴を楽しんでいるーー。そんなイタリアの田舎町で、今日はゆったりと目覚めました。とても気持ちがいいです。でも根っからの東京人な私は、そんなときにもメールチェックしてしまう。今日も私のMac Bookには地球の裏側からメールがたくさん届く。なんて私はせわしない人間なのだろう。

でもそんななか、とても嬉しいメールがひとつ編集部から届いていました。なんでも私が日経トレンディネットに書いた草なぎ剛さんの『瞼の母』の記事を、とても多くの方が読んでくれているのだとか。本当にありがたいことです。稽古場におじゃまして、ぼんやりと通し稽古を見ていたときに、不覚にも涙を流してしまった私。その感情の根を探っていったら、あのような記事になりました。舞台を実際に見て、いろいろ私が書いたことに対して「違うんじゃないか」といぶかしく思われる方もいるでしょうから。何か別角度の意見があったら、ぜひご指摘下さい。

私も帰国したら実際の舞台に臨んで、またこのブログにでも感想を書こうと思います。

(May 15, 2008)

Posted by iwaki : 20:28 | Comments (0)


9時半日没

パリに到着した日にテアトル・ド・ラ・ヴィルで山海塾の新作を観て、今はフランスのとある田舎町に来ています。ここは本当に小さな町で、15分も歩けばシティセンターの賑わいはほとんど見つくせてしまう。今日は天気が良かったのでカフェに席をもうけて、あれこれと考え事をしたり、仕事をこなしたりしていたのですが、気づけば2時間ほどたっていて「ああいけない、ぼんやりしてしまった」と一瞬焦ってしまった。けど、ふと顔をあげて周りを見渡せばカフェ客の顔ぶれが着座したときとほとんど変わっていない。しかも彼らはいまだ席を立つ気配がみえない。
今フランスは本当に日が長い時期で、夜9時半頃まで日が暮れない。すると彼らの何割かはこうやって日中の多くを、のんびりとカフェで過ごし、会話を楽しんでいたりするのです。
こんな場所にくると逆説的に、東京という街の巨大さと、刺激の多さと、とんでもない速力の忙しさに改めてきづかされます。別にどちらがいいということではないと思うのですが、ただこういう場所に来ると、東京で普通だと思っていた自分の生き方が、いやおうなく異色なものに思えてきてしまう。こんなこと誰もが外国にくると感じる凡百なことなんでしょうけど、やっぱり私もごたぶんにもれず同じようなことを考えてしまった。まあそんななんだかなぁ、という一日でした。

(May 10,2008)

Posted by iwaki : 06:46 | Comments (0)


はじめてづくし

明日から、人生30年ではじめてづくしの旅に出ます。
まず1ヶ月も家をあけることがはじめて。
欧州の小さな町を点々とするのもはじめて。
ちょこっと向こうで取材もするとはいえ、
これだけの期間、仕事を切りはなすのもはじめて。

こんなはじめてづくしの旅に出たときに、
自分ってものがどうなるか、見ものです。
人は知らずのうちに生活のなかで
「こういう時にこう対応するのが正解な自分」と
行動パターンを制御しがちです。でもそうすると、
どんどん人生での驚きや発見が少なくなってくる。
だから今回の旅では、なるべく自己規定せずに、変に大人ぶったりせずに、
未知の世界で未知の体験をいろいろしてこようと思います。
そうすれば自分に対する些細な発見がいっぱいあるはず。

余談ですが、ここ最近、フランス語を習い直しています。
飯田橋の日仏学院に通っているのですが、
ここで習ったフレンチがどれだけ通用するかも勝負です。
取材することになっているマチュー・ガニオに
挨拶ぐらいはフランス語でできればと思っています。

(May 7, 2008)

Posted by iwaki : 20:28 | Comments (0)


あたりまえに感謝

とても個人的なことですが、先週末に自分の人生観が変わるような「事故」に遭いました。それは本当に思いもよらない方向から、思いもよらない大きさで、自分に衝突してきて。まさに事故という言葉がふさわしいような状況でした。正直、30年生きてきてこんな衝撃に遭遇するのは初めて。自分のなかでこうした異常事態に対処する武器がなくてパニックに陥るのではないかと思いましたが、意外に平常心を保っていられた自分にも驚いたりしました。

でもこうしたことに遭遇したときに何よりも驚いたのは、まわりの「あたりまえ」と思っていた日常風景がいとせずして一変したこと。

毎日の通勤風景、毎日の見慣れた商店街、毎日の友人とのくだらない会話。そんなあたりまえなことが、あたりまえではないことに気づき、すべてに寛容な目をもって感謝したくなった。私はほんとに未熟な人間で些細なことにもグチグチと文句をたれたがるほうなのですが、そんなちっちゃな悩みは「まあ、かわいいもんじゃないか」と許せるようになった。

昨日の次には今日があり、今日の次には明日がある。人はあたりまえのようにそう思いがちです。だけど実は今日の延長線上に明日があるとは限らない。日本はとても平和な国なので、1、2、3と整数を刻むように平凡な日々が続いていくと考える人が多いですが、実はそうじゃないということに気づかされた。

何かのニュースで最近、今の20代の5割超が「今を楽しむ」より「将来に備える」というトピックを読んだ覚えがあります。これは裏を返せば、ほとんどの若者は普通に生きれば普通に老いて普通の将来が訪れる、と考えているということです。まあ確かに、今までは私もどこかでそうしたレールに乗っかって思考していた部分があったように思います。だけど今回のような事件にぶつかって人生のレールがぶったぎられたときに「そっか、将来はやって来ないかもしれないんだ」という甘えのないリアリティに気づかされた。で、そうなったら俄然、私の思考法は「今を楽しむ」に傾いていった。だって来るかどうかも分からない将来に備えても意味がないですからね。

ちなみにここで事故事故って言いまくってることは、今となっては、事故未遂っていうか、事故未満っていうか、最終的には大したことにならなかったんで、まあ、よかったんですけど。とにかく私はいろいろ考えたすえ「備えあれば憂いなし」よりも「一寸先は闇」という言葉を心に刻み生きていきたいと思いました。とりあえずこれからの私は「あたりまえ」に感謝しつつエゴイスティックにハッピーをむさぼって生きてやろうと思います。

(May 3, 2008)

Posted by iwaki : 00:52 | Comments (0)


バレエ取材ラッシュ

今週末から5月半ばにかけてバレエダンサーへの取材が続きます。
まずは吉田都さんへのSKYPE電話取材にはじまり、
同じくロイヤルのマリアネラ・ヌニェス&ティアゴ・ソアレス、
Kバレエカンパニーの清水健太さん、宮尾俊太郎さん、
そして5月半ばには『エトワール・ガラ』に出演する
オペラ座のダンサー数名に話を聞きにパリに飛ぶ予定です。

バレエは言うまでもなく絶対的な型が決まっているダンスです。
でも一流と呼ばれるダンサーほど、その型を自分流にリアレンジしている。
ルールを守ったうえで、自分にしかできない身体表現を編み直している。
で、その「自分流儀」の話を聞き出すのがこちらの第一目標になる。

ポライトな挨拶にはじまって、どこまで突っ込んだ話が聞き出せるか。
正直、出逢って30分強で自分流儀を根ほり葉ほり暴くほどつっこんだ質問をするのは
「取材」という形の会話形態でもなければ、かなりデリカシーに欠ける話です。
しかもその限られた情報だけで彼/彼女の思考方法に、ある程度、
こちらで勝手に目鼻立ちをつけて「こういう人です」と記事にしちゃうのだから、
これはある意味、恐ろしい作業だとさえ言える。

もちろん、なるべくバイアスのかからぬ人物像を記事にしようとは思ってますが、
私がインタビューをしている時点で主観は否応なく入りこんできます。
取材記事はそういう主観の上に成り立っているものなんだという事実を考慮して、
読者の皆さんには読んでもらえると嬉しいです。

いずれにしろなるべく真摯に丁寧に、
ひとつひとつの仕事に取り組んでいこうと思います。


(April 24,2008)

Posted by iwaki : 21:14 | Comments (0)


サビタと家族

今日は「サ・ビ・タ」という韓国産ミュージカルの取材に行ってきました。
出演者は駒田一さん、山崎育三郎さん、原田夏希さんの3人。
私はこの作品をこのあいだソウルで見てきたのですが、
現代日本では少し考えられないほど王道に直球に
家族愛を歌い上げる作品で少し驚いて帰ってきました。

韓国に詳しい知人によると「家族愛」は韓国人の十八番ネタなんだそう。
だからこの作品も万人受けして10何年もロングランしてるらしい。
でもだからといって韓国のファミリーが、
みな幸せ家族計画を地でいってるわけじゃない。
むしろ、韓国人の離婚率は今50%に迫る勢いだと聞いたから。
2人に1人が幸せじゃないと思って離婚しちゃうわけだ。

日本よりも圧倒的に「世間体」の概念が強い韓国。
だから誰もが周囲に押されて結婚せねばと急いてしまう。
でもいざ結婚してみたら、あれれ、なんか違うぞと。
で、すっぱり離婚しちゃう。私の主観だとおそらく、
女性から離婚を迫ることが多い気がする。

そんな韓国で作られた幸せ家族ミュージカル。
彼らの理想の家族像がここから見えてくるのです。

(April 20,2008)

Posted by iwaki : 22:01 | Comments (0)


記憶

ここ数日、阿佐ヶ谷スパイダーズの新作公演の取材をしていました。
私が担当したのは奥菜恵さんと伊達暁さんのふたり。
「記憶」という大きなテーマを掲げ、お二人の現在に至る記憶について
具体的なエピソードをいろいろと語ってもらいました。

話を伺っていて面白かったのは、お二人の記憶に対するアプローチの違い。
奥菜さんはどちららかというと「衝動的な感情」を鮮明に覚えていて
伊達さんはどちらかというと「能動的な行動」を記憶化していた。

あととても面白かったのは「自分を作り上げてきた記憶」というテーマで
質問をしたときに二人からさほど「仕事=役者業」の話が出て来なかったこと。
やっぱり人にとっては恋人や恩師や家族や友人との記憶のほうが大事なんですね。

詳細は『失われた時間を求めて』(http://asagayaspiders.net)の
公演パンフに書くのでそちらを読んでみて欲しいのですが、
他者の記憶を2時間もかけて取材することなんてめったにないので、
なかなか面白い体験でした。

周りの人間にも今度やってみようと思います。
誰かボランティアで自分の記憶を取材して欲しい人がいたら是非連絡ください。

(April 17,2008)

Posted by iwaki : 16:22 | Comments (0)


アエラ

今週の月曜日(4/7)に発売になった「AERA」に記事を書かせてもらいました。
タイトルは「バレエ献身愛を貫く女子たち」。
たった1ページの記事ですが、
多くのバレエファンの方たちにメールで取材をしたり、
直接お会いして話を聞かせて頂いたりして、文章を書き上げました。
取材に協力してくださった皆さん、本当にありがとうございました。

しかし取材させて頂いて改めて感じたのは、
皆さんのバレエに対する心からの深い愛です。
私は幸か不幸かバレエダンサーに会って取材することを
趣味ではなく職業にしてしまったために、
気づかぬうちに少しバレエに対する愛を
失ってしまっていたかもしれません。
でもこの取材を通して、バレエを理屈なく愛していた
原点の気持ちを再認識できた気がしました。

記事は一般誌向けに、あえて分かりやすく書きました。
その結果は、賛否両論です。
でもフィードバックはなんにせよ意見としてすべてありがたいです。
このブログにもようやくコメント欄をつけたので、
何か意見があったら是非、書き込んでいってください。

(April.13, 2008)

Posted by iwaki : 00:18 | Comments (0)


手を見る

何かの本で読んだのですが、
人は顔の表情はコントロールできても
手の表情は制御しきれないそうです。
だから顔では朗らかにゆったり笑っていても
手は緊張で汗ばんでいる、なんてことがよくあるらしい。

だから私は取材時に、
取材対象者の手をよく見るようにしています。
そうすると、意外に、いろんなことが読み取れてくる。

今日も4人のかたに取材をしてきたのですが、
いろいろな「手の会話」が読みとれて面白かった。

ざっくばらんなトークとはうらはらに
断固として膝のうえで丁寧に手を重ねそれを崩さない人。
顔ではリラックスしてしゃべっているふうなのに、
両手ではペットボトルを握りつぶさんばかりに持ち続けてる人。
あるいは質問をうーんと考えているときには
いつも左手の結婚指輪を不安げに触り続けている人などなど。
なかなかこうした非言語コミュニケーションから
読み取れる情報は面白い。

何やってんだ取材に集中しやがれ、
と文句を言われるかたもいるかもしれませんが、
こういうことを見るのも私はインタビュアーの仕事の一部だと思っています。
だってインタビューは字義どおりINTER「VIEW」であって
INTER「HEAR」ではないわけですからね。
でも私は、本当にまだまだです。
プロのインタビュアーとして、
もっとちゃんと相手を誠実に見る技術を培いたいと思います。

(April 11,2008)

Posted by iwaki : 17:57 | Comments (0)


コリア

アニョハセヨ。
約1年ぶりに韓国に行ってきました。
主な目的はFESTIVAL BO:Mというコンテンポラリーアート全般を紹介する
公演に足を運ぶこと。KOREA NATIONAL UNIVERSITY OF ARTSのなかで行われた
このフェスティバルは、まだ立ちあげられて間もないものなのですが、
アジア圏のフェスティバルにしては珍しく「真にコンテンポラリー」な
才能が集められていて、去年などはクリスチャン・リッツォ、
ロメオ・カステルッチ、ジェローム・ベルといった
コンテンンポラリー・ダンス界のそうそうたる面子が集結したそうです。
なかなか目敏いプロデューサーさんが場を仕切っていると見ました。

でもそんなアバンギャルドなアートフェスとはうらはらに、
韓国の町並みはまるでチャルメラの流れる20年前の東京のように素朴。
まだ生きる人たちが「正しく身の丈にあった生き方」をしている気がしました。

現在の東京は情報が多いぶん、庶民ひとりにいたるまで、
成功への「イメージ」が無数に与えられています。
でもそれはあくまでも「イメージ=虚像」であって
決して自分が生きるべき、生きなければならない「現実」ではない。
そこを多くの人がはき違えていて、世間一般の考える
「成功のイメージに近づかなければ」という妄想にとりつかれ、
誰も彼もが自分の手でコントロールできないほどの、
身の丈にそぐわぬ巨大なサクセスを追い求める。
これではいつまでたっても、心の健康は得られないように思います。

聞く話によると都市部のエステは、バカンス地のエステよりも
指圧のレベルがきついそうです。日々、強い刺激にさらされ続けている
都会人たちの皮膚感覚は知らないうちに麻痺しているそうで、
より強い刺激を与えなければ快楽を得られなくなるらしい。

で、これを持論で演繹すると、心にも同じことが言えるように思います。
くる日もくる日も強烈な刺激の雨粒に打たれ続けている東京人の「心感覚」は
たぶんかなり麻痺している。逆にソウルにはそれほどの強い刺激がないからこそ、
人の心の感覚が、素直にパワフルに敏感に、新しい刺激にビリビリと反応している。
アートフェスの反応も、他国では見られないほどパワフルでした。

どんなにアバンギャルドで斬新なアートを見せても、
それに反応する心を持っている人がいない限り、それは豚に真珠ってもの。
素晴らしいストレートをピッチャーが投げ続けているのに、
なんで誰も打ち返してくれないんだ!とちょっと寂しくなってしまう。
で、私も含めた東京人の多くは、こうしたストレート球を打ち返せなくなってる気がする。
自分の成功=自分がメジャーリーガーになって成功している像は
入念に思い浮かべられるのに、逆に、目の前を通り過ぎる球に対してはどこか盲目。
これじゃあ、バッターボックスに立つ毎日が敗北感の連続ってもんです。

もっともっと「身の丈にあった」「小さな変化」に目を向けること。
メジャーリーグのオールスター選手になることをいきなり夢見るのではなく、
草野球で1塁に出塁することからまずはじめてみること。
それこそが些細でも幸せな手応えを感じられる日々につながるのではないかと、
韓国での数日間はそんなことを私に思わせてくれました。

(April 4, 2008)

Posted by iwaki : 13:58 | Comments (0)


幸福論

今日、とてもインテリジェントで美しい女性に取材をしました。
とはいえその方は、役者でも演出家でもありません。
私と同業の文筆家です。そして私よりもずっと、あらゆる意味で大人です。
そんな彼女と話の流れ上「幸せとは何か」という地点に辿りつきました。

彼女はそこで
「醜いアヒルの子になることを恐れず、
 お金と権力に束縛されない生き方をすること」
と即答しました。

こういうことを口にする人は大勢います。
けど、彼女の場合はその言葉が他人の借り物ではないことがすぐに分かった。
つまりその実践哲学に則って、彼女自身、目に見えて素敵に歳をとられていた。
そしてだから、まるでホメオスタシスのぶっこわれた人間のように、
このところ「幸せ哲学」について無駄に非論理的に懊悩しつづけ、
完全にメンタリー・アンステイブルな状態になっていた私には、とても響いた。

職業や地位や年齢にまったくもって関係なく、
自分に嘘のない哲学をもって生きる人は美しい。
私はそういう人を、心から尊敬する。

(March 27,2008)

Posted by iwaki : 23:18 | Comments (0)


ありのまま

アルバート・エリスという著名な心理学者が開発したセラピー術に、
理論感情行動療法というものがあります。
その療法でエリスさんは、他者(特に恋人や夫婦)と
良好な関係を構築するための第一条件として
「ありのままの相手を受けいれること」をあげています。
これは言葉で聞く以上に、とても難しいことです。

まずだいたい、ありのままの自分ってものが確かにあるかも定かでないのに、
ありのままの相手なんてものを受け入れることができるのでしょうか。
それにありのままの相手を「見る」だけでも大変なのに。
ありのままの相手を「受け入れろ」っていうのは。
これはもう相当にシビアな眼とタフな覚悟が必要になってくる。

現代日本では20代の独身女性の7割近くに恋人がいないと聞きました。
確かに自分ひとりでも相当に生きづらい今の世の中、
パートナーに対するこうした責任感を背負うのは面倒くさいのかもしれません。
その顕著な例としてある30代の女性がこんな発言を私にしてきたことがあります。

「仕事は投資したぶんだけ確かな見返りがあるけど、
 恋愛はどれだけ投資しても
 何も返ってこないかもしれないから面倒くさい」

確かに恋愛は決して安定株とは言えないしろものです。
先が読めなくて難しくて七面倒くさい。
けれど「面倒くさい」って言って切り捨てたら、
それこそ世の大概のことは前に進まなくなる。
自分の世界がちっちゃく安全に閉じてしまう。

面倒くさいっていうのは、
実はとても個人的な感情に思えて、
社会に悪影響を及ぼす罪なエゴだと思う。
とにかく私自身はこの「面倒くさい」となるべく戦っていきたいと思います。

(March 22, 2008)

Posted by iwaki : 23:37 | Comments (0)


ベイビー・レイヴ

気づけば周りの友人の多くが「コブつき」に。
子供が生まれ育児に追われる日々を送っています。

で、いつも思うのだけど彼女たちの話に耳を傾けていると
ここ東京ではベイビーたちと一緒に遊びに行ける場所がとても少ないらしい。
特に私のまわりにたむろしていたようなカルチャーフリークたち、
学生時代にアートや音楽にのめり込んだ女たちが、
子連れで遊びに行ける場所があまりにもないらしい。

そこで個人的な好奇心から
世界の赤児娯楽産業はどうなってんだ、と調べてみたら。
いやはや、英国近辺のベイビー市場が
とんでもなく面白いことになってました。
特に私の専門である、パフォーミング・アーツ市場で
赤児&子供をメインターゲットにした娯楽産業がむちゃくちゃ加熱してる。

たとえばアイルランドのベルファストでは「BABY RAVE」なる
イベントが毎年開催されているらしい。
これはその名のとおり、赤児とその親をターゲットにしたレイヴイベント。
このあたりの国民のクラビング好きはつとに有名ですが、
子連れでも行ったるぜ!というこの骨太な気概が素晴らしい。
ベイビーと一緒でも胸元ざっくりなセクシー服に身を包んでいくのでしょうか。

またロンドンのOILY CARTというカンパニーも、
どでかいバルーンを膨らましたような仮設テント小屋をって、
「multi-sensory trip(多触覚体験)」なるものを目指した
とてもハイクオリティなライブアート体験を提供しています(写真)。

ナショナル・シアターのトム・モリスを中心としたカンパニーは、
「OOGLY BOOGLY」という名の45分間の即興パフォーマンスを、
ARCHITECTS OF AIR(建築家アラン・パーキンソン率いるアート集団)が
作り上げたとても審美性の高い芸術空間のなかで行っています。

これなら私も子供ができたときに一緒に遊びに行ってみたい。
エッジのきいたプロデューサーさん、
一緒にこういうものを日本に呼びませんか?

PB070102_012A4.jpg

(March 18, 2008)

Posted by iwaki : 21:34 | Comments (0)


I'D DO ANYTHING

だんだんと春が近づいてきてますね。
恋がしたくなる季節です。
仕事をしなくちゃいけないのに、
ぼやぼやと窓から外ばかりを眺めてしまいます。

さて、そんな春の訪れとともにイギリスでは面白い
演劇リアリティTVがスタートしました。
その名も『I'D DO ANYTHING』。
芝居フリークの方ならすぐにお気づきでしょうが、
この題名はミュージカル『オリバー!』の名曲から取られています。

この番組では今年末から英国ドルリー・レーン劇場で上演される
『オリバー!』の開幕に向け、オリバー役とナンシー役を公募。
3人のオリバー少年と、1人のナンシーを、番組内で選んでいきます。

実はこの番組、今年ですでに3シーズン目を迎える人気シリーズ。
06年には『HOW DO YOU SOLVE A PROBLEM LIKE MARIA?』と題し、
パラディアム劇場で上演された『サウンド・オブ・ミュージック』のために
完璧なマリア役=新星コニー・フィッシャーを発掘。
07年には『ANY DREAM WILL DO』の番組名のもと、
現在アデルフィ劇場で上演されている、
『ヨセフと不思議なテクニカラーのドリームコート』の
主役リー・ミードをスターの座に押し上げました。

で、今年は『オリバー!』。
審査員のひとりはあのアンドリュー・ロイド・ウェバー。
この人は本当に作曲家のくせに商売上手ですね。

ただこれ、ひとつネット上で物議をかもしていることが。
実は今回はオリバー役をテレビ投票に関係なく、
ロイド・ウェバー氏が独断で選ばれるそうなのです。

番組を放映するBBC1によるとその理由は、
「9歳から14歳の少年を公の場で裁くのはかわいそうだから」
何万人という観衆にフェアに裁かれるのと、
ロイド・ウェバーひとりに番組内で冷静にジャッジされるのと、
一体どっちがかわいそうでしょうかね。

ちなみにナンシー役は18歳以上の大人が審査に臨むので、
普通にオンライン投票を受けつけるそうです。
詳しいことを知りたい人は、こちらのページをご覧あれ。
放映は日本時間の今日、現地時間の3月15日から。

http://www.bbc.co.uk/oliver/

(March 16,2008)


Posted by iwaki : 18:32 | Comments (0)


JOB AND WORK

ダスティン・ホフマンがとあるインタビューでこんなことを語っていました。

僕はいつもJOBとWORKを区別化するようにしている。
JOBは毎日5時になったら、すぐさま帰りたくなるもののこと。
でもWORKはそれとは違う。WORKはいつまでも辞めたいと思わない。
僕はWORKに従事してるとき、それこそ死を感じないんだ。

最近、多くの人がこのJOBとWORKを混同している気がします。
やりがいがないと仕事じゃない。あるいは仕事じたいを愛したい。
表面的な言葉だけを聞くと、これはとても素晴らしいことに思えますが、
果たして本当にそうなのでしょうか。
JOBの域にWORK的なクリエイティビティを求めたり、
逆にWORKのほうにJOB的な賃金報酬を求めたりしすぎると、
人はだんだんと苦しくなっていくのではないでしょうか。

自分の仕事はJOBなのかWORKなのか。
このインタビュー記事を読んで、
そんな問いかけを自分にも、ふとしてしまいました。
(March 14, 2008)

Posted by iwaki : 21:17 | Comments (0)


ホームページ開設

皆さん、こんにちは。
ようやくホームページを開設することができました。
これからここで、私が日々の仕事や愉楽のなかで感じたことを
気のおもむくままに徒然に書いていければと思います。
本職はおもに、演劇やダンスの記事を執筆することですが、
それ以外にも世の中には興味をそそることがたくさんあります。
フリージャーナリストという職業は
本来は文字どおり「フリー」であるわけで、
なるべく自由にこの刺激的な世の中を泳ぎまわり、
目に止まった情報や、心の網にかかった疑問を、
発信していければと思います。

たとえ取材仕事でなくとも、新しい人と出逢うことは楽しい。
このホームページでも、そんな新たな人との出逢いを望んでいます。
(March 12, 2008)

Posted by iwaki : 15:42 | Comments (0)


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