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京都で呼吸しつつ想う
呼吸の勉強をしていて学んだことがある。吐けば自然の摂理でエネルギーが入ってくる。だから呼吸においては、吸うことよりも吐くことが大切。吐ききればスペースができて、そこに自然と新たななにかが充ちてくる。ふむ、確かにそれはそうかもしれない。
そう思いつき、思い立ったが吉日と、いろいろと身辺を簡素にしてみた。
衣服を捨てる、書籍を売る、家具を買い換えて整理する。その過程で、たとえば五年前に読んだにもかかわらず、漠然としたあらすじさえ記憶に留めていない書物に出逢い、いかに自分がいらぬ知識武装をしていたかを呆れるほど実感する。逆にここ最近読んだ書物は、日々の変化と綱渡りの連続を生き抜くため、すがるようにして読んでいる書なため、活字が細胞のすみずみまで異常なほど血肉化している。なるほどね。読書も、人生も、量じゃなくて質なのね。20年より2年、20冊より2冊のほうが、比重が大きくタメになることはある。そしてこれからは、サバイブするために必要じゃない知識は「捨てていこう」という結論にいたる。無駄に知識を入れこんでも、処理せねばならない情報だけが多くなり、不安にもなるし、行動への第一歩が鈍る。おそらく蓄積することによって固めていく安定ではなく、捨てることによってブレない骨組みの安定を得るほうがいいのだ。余剰時間、余剰消費、余剰知識。そういったものをなるべく捨てて本質だけで生きていこう。
そんなことを考えていたおり、祖母が突然亡くなった。そしていま葬儀のため京都にいる。92歳の大往生だったため葬式じたいは哀しくも幸せなものではあったが、いまこのタイミングで「死」というものを突きつけられると、わたしは人生の最後に、なにを持っていたいんだろうとド真剣に考えてしまう。未来をフォアキャストするのではなく、死からバックキャストしていくかたちで、じゃあ今をどう生きていきたいのかと考えてしまう。
それに久方ぶりに親戚一同などに会うと、人はこうして子どもから大人になり老人になりタダ死ぬのだな、という「生の道筋」が気持ち悪いほど明解に見える。その容赦のない一本道に怖ささえ覚える。だから個人的にはなるべく、危険にいっけん思えても、その一本道から脱線していきたい。また変にモノや財産や場所などに馴れあいから固執せずに、それこそ毎日の呼吸で、新しく細胞を生まれ変わらせながら気持ちよく前進しつづけていきたい。わたしが92歳になったとき、誰を想い、なにを抱き、生きているのかは正直分からない。でも、旅は行先がわからないからこそスリリング。人はそれを無邪気すぎる無鉄砲さだというかもしれないけれど、わたしはそれを蛮勇ぎりぎりの勇気だと思いたい。
(December 23, 2009)
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