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お金と人間の主従関係
「デッド・キャット・バウンス」(死んだ猫の跳ね返り)という奇妙なネーミングのアメリカ+ドイツ合同ユニットによるパフォーマンスを観た。これは「金融ドキュメンタリー演劇」とでも名づけられる見世物で、公演当日、その日のボックスオフィスでさばかれたチケット代が、舞台上でネットを通じてすぐさまロンドン証券取引所に投資される。目標は、公演終了までに1%の収益を出すこと。よって観客は1時間半にわたり、株式トレーダーが使用するダイアグラムやグラフの映像とにらめっこ。自分たちが投資した株銘柄が、1ペンスあがれば喜び1ペンスさがれば悲しみ、喜怒哀楽がふんだんに取り込まれた即席ドラマのいっちょあがりというわけだ。
そんなあけすけにお金のことで感情を高ぶらせるなんて、と思われる方もおられるかもしれない。けれど当日、劇場にいた客は誰もが少なからず金に心を乱されれていた。そして引きこもりのような生活を送るデイトレーダーが、一日中いっさい社会と関わりを持たず誰とも口を聞かずに働きながら、運のいい日には「並のサラリーマンの3ヶ月分の給料を稼ぐ」と聞いて、労働の対価として金をもらうという経済システムが完全崩壊していることに怖気を覚える。しかし本当にいったい、お金ってなんなんだろう。
たいがいの人は生活費を稼ぐために仕事をする。でないと、食事をしたり、家賃を払ったり、旅行に行ったり、衣服を購入したり。つまり生活をそれなりに人間らしく送れないからだ。けれどたとえば、ダンナさんが地方に単身赴任をしている夫婦の場合。互いにひとりぼっちはやはり寂しい。じゃあ赴任先でいっしょに住めばいいじゃない、と思う。けれど奥さんも東京に仕事場があったらそうもいかない。こんな事情が、現代ではあたりまえのように存在する。でも本当にこれは「あたりまえ」として看過すべきことなのだろうか。
ショウペンハウエルは「すべて物事を局限するのが幸福になるゆえんである」と説いた。噛み砕いていうなら、できるだけ行動範囲を狭くすることが幸福への早道だよといってるわけだ。現代は情報に溢れている。日本の寒村で暮らす男の子が、インターネットで情報を得てスウェーデンの家具職人を目指すことも可能だ。けれどこのポテンシャルの無限膨張化のすえ、人間関係の物理的距離が遠く離れてしまうことがある。端的な例をあげるなら、このあいだ知りあったオランダ人女性は、3人の子どもたちがそれぞれ、アムステルダムと、東京と、ニューヨークに散らばっていて、パートナーとも離ればなれで月末にだけ会うのだと話していた。「仕事場がそれぞれ別の場所にあるから、しょうがないわよね」。確かにそうだ。仕事は人生の大きな部分を占める。でもこんな話を聞くとたまに、人間はお金によって生活を「コントロールして」いるのか。あるいはお金によって生活を「コントロールされて」いるのか。金と人間の主従関係に、疑問に抱いてしまったりする。お金と権力にコントロールされない生き方を選んでいきたい、とつねづね思う。そして自分の愛する人たちに囲まれて、日々を楽しく過ごしたい。
ところで話は変わるが、最近、日本における輸入チョコレートの物価高に驚かされている。フランスで買うと200円ぐらいの板チョコが日本では480円。単なるスーパーの板チョコが、日本では高級嗜好品だ。この頃、毎日ダークチョコの欠片を味わうことが些細な幸せにつながっているのだが。買うべきか、買わざるべきか。ちいちゃなところでも人は、お金によって悩まされる。ああもう、めいっぱい美味しいチョコが食べたい。
(November 27, 2009)
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