耳たぶと朝靄の孤独

朝だというのにまるで黄昏時のような薄暗い陽がさしこむ異国のアパートで、女は、男の耳の裏を眺めていた。厚くぽってりとした愛嬌のある耳たぶと、生まれたての赤児のようにうっすらと産毛でくるまれた耳殻。静寂の室内に響く厳かな彼の寝息とともに、僅かながらその耳がぷるると振るえる。その臆病なうさぎのような振るえを目にして、女の目には涙が浮かぶ。この愛しい生命とわたしのあいだには腕一本の物理的距離もない。なのにそれに触れることができない。ちくしょう、ちくしょう。なにかくだらない呪文を信じるかのように、女は、相手と自分の呼吸を布団のなかで無心にあわせてみる。吸って吐いて、吸って吐いて。ばからしい。だからといって相手と自分の体があわさるわけではない。声をださずに「さびしい」とぶっきらぼうにつぶやいてみる。その行き場のない言葉は、いまの空気にそぐわぬほど陽気な、亜熱帯な南国果実の匂いのする男の脇下あたりに無残に吸い込まれていく。

眠りたいわけではない。だが、女はふたたび目を閉じて睡眠に身を任せてみようと試みる。そうすることでなにか問題が解決でもするかのように。無意識の闇に逃げこもうとする。けれど両目を閉じても、光の透ける瞼の裏にはつぎつぎと乱雑な思考が擦過するばかり。平穏な眠りは遠のいていく。女の意識が、女自身を決して静寂のなかに落ちつかせてくれない。いや、もっと真剣に、丁寧に、集中力をもって瞼を閉じればこの凍えるような冷たさが身から去ってくれるはずだ。そう思って再度、目頭にぎゅんと力を入れてみる。だがその眉間の無為な努力で得られる成果は、眠りとは真逆のやぶれかぶれな意識の覚醒だけ。なんてサガンのように孤独な朝だろう。と、阿呆みたいにセンチメンタルな言葉を心で漏らす。そのやさきに、なぜか、向こう岸から、なかば無自覚な男の腕が女の肩を引き寄せる。あ。声が漏れる。

その声が、室内にたゆたう朝靄と埃のなかに完全に消えてなくなるまえに。女のうちで、優しい涌き水のようななにかがみちてくる。さきほどまで鋭く痛々しく存在したあの孤独のかわりに、大地のような許容と、それを追う小さな拒絶が、心のなかで揺れうごく。そして女は、強烈に、一心に、まるで子どものように不器用に祈る。これ以上の拒絶はいりません。束の間ののち、温かな受容の海がすべての複雑さを呑みほしてくれますように。

(November 20, 2009)



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