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二年前のロンドン
英国ロイヤルバレエ団の取材にくるのは約二年ぶり。たったの二年という時間だというのに、それがとんでもなく大昔に思える。きのう、同じコヴェントガーデンにある、同じカフェで、同じようにエスプレッソをたのんで考えごとにふけっていたのだけれど。いやはや、二年前の自分はバカみたいに子供だったねぇと、とんまな記憶がよみがえってきて、ひとり阿呆みたいに薄笑いをうかべてしまった。
ただ二年たっても変わらないのは、どうにもこうにも、個人的にこの街が好きになれないということ。どうしても人が、自由に呼吸して生きている印象がしないのだ。それは日本人の不自由さとはまた違う窮屈さ。日本人は、いまめいっぱい自由に呼吸したら「死んでしまうのではないか」と思って、逆に呼吸を止めることでいっそう苦しくなっているような感じを受けるのだけれど。このロンドンの街の人たちは、いっけん自律的に呼吸はしているように見えるのだけれど、そのじつその酸素のすべてが人工呼吸器から送りだされているような印象を受けるのだ。
たとえば経済に関していうなら……時間を金のために切り売りして生きている、いや、切り売りして生きるよう制御されているような恐ろしさを感じる。金を得る手段にはおもに三つ。1)時間を売る方法、2)創造物を売る方法、3)利子で儲ける不労所得の方法。そしてこの街では3の人たちが、1の人たちをコントロールして儲けていて、しかも2のカテゴリーの人たちが自由に生きる空間があまりにもない。だからせっかく、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに現代彫刻家アニッシュ・カプーアの個展を見に行ったりしても、その作品が純芸術的な意味で圧倒的な美しさをたたえているだけに、そのまわりの些細なところで資本家の匂いを嗅ぎつけると、なんとも厭な思いにつつまれたりする。
また、この独特の窮屈さは、長きにわたりキリスト教の宗主国であったという宗教観とも関わるのかもしれない。行きの飛行機で、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、という世界で幅をきかせている三大一神教の本を読んでいたのだけれど。読後、キリスト教原理主義者のもっとも恐ろしいところは「自分はまったく変わらずに、他者を変えようとするところ」にあると感じた。しかもそれを完全なる善行だと思っている。
けれど、もちろんイスラム教のほうでは「別に変えなくてもいいじゃん」と思っている。なぜならイスラム教にはカダル(天命)という考え方があるから。もし神様がすべてイスラム教になるべきだと考えているなら、今の世界はすべてイスラム教になっている。でもそうなっていないということは、それも神様の思し召しであるから。ほかの宗教にも存在意義があるし、それはそれで共存して生きていけばいいじゃないと思っている。
またユダヤ教のほうでも「別に変えなくてもいいじゃん」と思っている。そもそも自分たちは絶対神エホバに選ばれし民で、ユダヤ人ならみな無条件に神に救われるという選民思想があるから。神の息子イエスを崇めるキリスト教徒に手をさしのべてもらわなくても、いっこうに構わないと思っている。
だけど、キリスト教では、たとえばすべてのユダヤ人をエルサレムに集めて改宗させないと「救世主が再臨しない」という不都合な考え方があったりするから。必死にいま米国の福音派クリスチャンたちなどがユダヤ人をイスラエルに集めたりしている。本当はむちゃくちゃエゴイスティックな自分たちの利益のためなのに。善行ぶって親切の手をさしのべている。
話が長くなったけれど、私はロンドンで、このキリスト教的な宗教観と同じうわべの親切心をよく感じる。もちろん心から親切にしてくれる人たちもいる。とくに田舎に行けば大勢いる。けれどもここロンドンでは……、なんだろう、やっぱり、そういう計算高くない素朴な英国人にはあまり遭遇しない。自分たちは絶対に正しくて、相手を変えることで、世界をよりよくする。よりよくしていると思いこんでいる。そういう環境に対する順応性のなさ、力ですべてをねじ伏せようとする態度が、なんとなく、経済システムとはまた別のところで、この街の人々の生き方を窮屈にしているように思えてならない。
私はこの2年で、他人ではなく自分をささやかに変えてみた。
そしたら世界がささやかに変わった。
他人ではなく自分を変えたほうが、世界は早くよくなる。
(November 3, 2009)
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