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家族と彼氏とプティタミ
明治末頃から日本には「家族あわせ」というカルタ遊びがあった。一家族、各四枚。トランプのように対戦者数人と車座となり、札を配布し、隣人に見られぬよう手元で持ち札を確認する。そして「山井さん家のお母さんをください」「ありません」「民尾さん家の息子さんをください」「はい、どうぞ」と、淡々と家族を交換していく。勝敗は、誰よりも早く同じ苗字の父・母・娘・息子の札を手元に集めることで決まる。四人揃えば「一丁あがり」。実に素朴な子供遊びだ。
学生時分、私は、裏千家の分家筋にあたるという、ある立派な門構えの友人宅でいちどこの遊びを体験させてもらったことがある。夏のさなか。降りしきる蝉しぐれ。茜色にくれなずむ美しい空を縁側の向こうに見上げながら淡々と札をきる。お母さんをください。お父さんをください。最初は物珍しさからこの遊びを楽しんでいたものの、なんだか途中から、そうした言葉を発すること自体が不気味に思えてきた。父、母、娘、息子。一家そろえば、それであがり。きちんとあるべき札が揃わないと「一家」として認めない。きちんとした家族であらなければ世間様になにを言われるかわからない。そんな個人よりも世間体を気にする実に日本的な心裡を、端的にこの子供遊びがあらわしているように思え、私は途中で札を投げ出し離れの手水場に逃げてしまった。自分が幸せだと思うなら娘4人で「あがり」でもいいじゃない。あるいは、友人4人、男1人に愛人3人、老人1人に犬3匹、なんて「あがり」があってもいいじゃない。そんなセンチメンタル・リベラリストな女心を根に持つ私には、かなり堪える遊びだった。
さて最近、そんな心の奥にしまい込まれていた記憶がふと蘇る事件にたてつづけに遭遇した。まずはある二十代後半の男性。彼は優秀な四大を卒業し、働きながら暇を見つけては勉学に励み、毎年司法試験を受けている。だが彼は真面目すぎて、視野が狭くなりすぎてしまうことが玉に瑕。このところ彼女がいないことに非常に引け目を感じているらしく、試験に自分が受からないのは「彼女がいないからだ」と突然告白してきた。いい年をして彼女がいないから、俺は勉強に身が入らないんだ。私には、まったく理解不能な価値観で唖然としてしまった。
また、ある三十代前半の学歴の高いインテリ女性。彼女は数ヶ月前に「婚活」というものに目覚め、以後、月に何人もの男性と食事を繰り返していた。そして最近、努力の甲斐あって、ある方とお付き合いを開始。それは良かったと、私も朗報に心をなでおろしていたところだったが、数週間後、彼女からの怒りの電話が鳴り響いた。「聞いてよ、あの人ったら私の彼氏なのに、私の誕生日にプレゼントをくれなかったのよ。別れようと思うわ」。いったい彼女は三十年も生きてきて「彼氏」というものに、どんな定義をほどこしてきたのか。誕生日を忘れると、プレゼントをくれないと、一人前の彼氏にはなれないのか。おそらく彼女は彼を愛しているのではなく、彼氏という「札」が欲しかっただけなのだろう。自分の常識こそが正義であるという、視野狭窄なエゴイズムが見えて哀しくなった。
蛇足だが、フランスでは恋人のことを「mon petite ami」モン・プティタミという。直訳するなら、私の小さな友達。日本の「彼氏」にあたる単語はないと地元の大学生に聞いた。(もちろんMon amourモン・アムールという単語を選ぶ、一部情熱的な人たちもいるけれど)。と同時に、フランス語では「mon ami」モン・アミといえば親友、「un copain」アン・コパンといえば友達、「un pot」といえばスラングで壺のなかにいっしょくたに入れるような不特定多数の友人のことを指すという。友達にも淡彩画のような微妙な色分けがある、というこの発見が実におもしろかった。と同時にそれに輪をかけて、そのグラデーションの濃淡の一部に恋人が取り入れられていることが興味深かった。恋人を人間関係の別枠にカテゴライズするのではなく、いちばん今のところ濃密な関係性を持っている友人として位置づける。つまりフランスでは「友達」の札が、あるとき「恋人」の札にもなりうるわけで。その逆も、またしかり。愛は束縛ではない、というルールをきちんと心得ているのだ。おそらくこの国の人々に「家族あわせ」の話をしたら、目を剥いて驚くことだろう。
*人に指摘されたので追記。フランス語でも「mon cheri」という「彼氏、彼女」にあたる言葉があるそうです。失礼しました。
(August 13,2009)
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