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難儀な三つ子の魂
子供のころ水泳教室に通っていた。完全カナヅチな私にとっては毎週のその時間は恐怖体験に近い。プールに突き落とされるたびに毎回ぶざまに溺れ沈む。でも「あの子、やっぱり泳げないでやめちゃったね」とまわりに囁かれるのはあまりに悔しい。さらにいえば自分が恐怖心を克服できないのはもっと悔しい。なにかに負けたくない一心で、通い溺れつづけた覚えがある。三つ子の魂百までというけど、私の強情っぱりは、このときから始まっている。
この水のなかでの恐怖体験以上に、鮮明に記憶に刻まれているのが、プールに入るまえの準備体操。紺色の水着に着替え、タオルを肩に、プールサイドに子供たちが集まる。そして持参したタオルを目の前の床にポイッとおき、みんなで「おいっちに」と身体を動かしはじめる。けれど私は自分のタオルをどうしても床に置くことができなかった。母親が買ってくれたキキララのタオルが死ぬほど大切だったから。それを床に放置などしたら、他人に素足で踏みにじられるんじゃないかと怖れ、どうしても手放すことができなかったのだ。けどあたりまえだが、この子供理論は先生には通じない。キョウコちゃん、タオルを置きなさい。何度もたしなめられる。それでも、ぎゅうと、タオルを胸に抱き続ける私。困り果てる先生。確かに、それを手放さないことには、ことの主眼である体操ができない。引いてはいつまでたってもプールに入れてもらえないわけで。自分でも馬鹿だと思うけれど、大切なものを過剰に大切に思うあまり、さらに自分を難儀な状況に追いこんでいたわけだ。
大人になってからも、これと同じような状況に、自分を追い込んでいることに時たま気づく。なにかを手放したくないあまり、自縄自縛の状態にみずからを追いやっているのだ。たとえば恋愛。自分が惚れれば惚れるほど、そこには喜びと同時に不安や怖れが起こってくる。でもそれでびくびくしていては、自分もまわりも窮屈になる。相手の目を見て心でゆったり溶けあうように生きられなくなる。相手が好きなのなら、不安だろうがなんだろうがその愛に殉じないとね。いまの私なら、不安をよそに、にっこり笑ってタオルを床に置いてみせる。そんな世のからくりが、ようやく、本当にようやく心に落ちてきた。
(June 14, 2009)
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