Report / フェデリコ・レオン「未来のわたし」

November 26, 2010

pgm-10-1人間の過去は、必ず美化される。ある一瞬の笑顔が時のなかで倍加され、他の無表情で退屈な時間を呑みこんでしまう。若きアルゼンチン人演出家フェデリコ・レオンは、この甘やかに倍加された記憶時間に観客を誘ってみせる。そして特別な一瞬が、一時間にも、一生にも感じられる時空を紡いでいく。

気の長いアヴィニヨンの太陽がようやく天頂から復路を辿りはじめる、七月の午後五時。タンチュリー通り十二番地にある「Salle Beno?t-XII」に足を踏み入れると、一瞬にして南仏のぎらつく太陽時間とは異なる時を体感する。舞台上手では老年の女性が独りピアノ曲を演奏中。遙か昔の夕暮れどきに、どこかで耳にしたようなノスタルジックな旋律だ。演出家は、その音色ひとつでプルーストのごとき「時と記憶」の物語のはじまりを予感させる。

客席が徐々に溶暗していくと、舞台上に10代の男女、30代の男女、70代の男女の6人がひとりまたひとりと登場する。男性は男性、女性は女性で、それぞれ似かよった装い。つまり観客は、彼3人と彼女3人を、同一人物の過去・現在・未来の姿と見なすことができる。あるいはまた彼らを、血縁でつながるひとつの大家族と捉えることもできる。いずれにしろ後方スクリーンに投影される「想い出のアルバム」からも理解されるように、演出家はあきらかにここで、ある特別な時間芸術を彫塑しようとしている。

あどけない少年と少女の、軽いファーストキスの刹那。その映像がいくども舞台上でリピートされる。その小さなキスの記憶は心で想起されるたびに強められ、何十年という時のあいだに無限の重みを与えられていく。10代の子どもと70代の老夫婦では、同じ過去が異なる記憶になる。この記憶の錯覚作業を演出家は舞台上で多用していく。ロジックや知識といった意味記憶というより、キスや笑いや抱擁といった強烈な情動記憶を、ほぼセリフのない45分の作品のなかで喚起していく。そして気づけば観客は、笑顔ばかりが集められた自分の家族アルバムを眺めているときのように、幸せな記憶を想起して「ふふ」と小さく微笑んでいる。

人生とは辛いものだ。だからこそ人は稀にしかない幸せの記憶の尾をなるべく長引かせることで、どうにか日々の笑顔を保っていく。そんなすべてが錯覚かもしれない人生の残酷な幸福感を、フェデリコ・レオンは教えてくれる。

京都国際舞台芸術際 KYOKO EXPERIMENT 2010 公式パンフレット掲載

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