Interview 岩松了 / 劇作家・演出家

February 1, 2010

リアクションで言動は決まる

 86年に書かれたこの処女戯曲を突破口に、岩松は『台所の灯』(87)、『恋愛御法度』(87)と、町内劇シリーズ三部作と呼ばれる力作をたてつづけに発表する。さらに89年には『蒲団と達磨』で第33回岸田國士戯曲賞を受賞。抑えこまれていた創造的衝動のダムが決壊し、その奔流はたちまにちして演劇界を呑み込んだ。それまでの日本の演劇界にはなかった、町医者や魚屋を詩人の目で捉える清新な感性。我々の普段の日常生活には、課長補佐、英検一級、東大合格、年収五百万、といったみみっちい職能や肩書きが溢れているが、岩松の芝居の登場人物たちはこうした下世話な意味をほとんど背負わない。不動産屋の男も女優の女も、みな等しくせい一杯生きるすっぱだかの人間としてそこに立つ。その穢れなさがある種ポエティックで、狂気的に美しい。

「映像では職業に関係なく人物を描くことは許されないと思うんです。なぜなら魚屋はどうしても、魚屋の店先に立つことになるから。けれど演劇では、それをしなくてもいい。その人がたとえ魚屋であっても、他人の居間で会話してる様を描くことが許されるんです。となると劇作家である僕はその舞台からどうやって、魚屋の本質を観客に伝えればいいのか。これは……、そうとう難しい。それに職業を描いたからといって、そこに無条件にドラマがあるわけではない。むしろその場でその人が、どんな琴線に触れて行動しているか。そうした小さな感情の揺れにこそ僕にはドラマがあるように思える。で、そうして感情が揺れ動いている瞬間というのは、人は自分の職業なんて意識せず思考してると思うんです。俺は魚屋だから恋愛に対してこう考えるぞ、なんて人はいない。ただ男として、相手や環境にリアクトして感情を生み出してるだけだと思うんです」

 リアクト、リアクション。それによって人間の言動は規定される。これが岩松の作劇に対する基本姿勢。ゆえに彼の芝居では、誰かが口にした言葉に対するロジカルな反論はあまりなく、「えっ?」「何が?」「わかってるよ」という体から突発的に放たれる無条件の生理のような返答がよくみられる。ゆえに彼は自分の作品を「肉体的だ」と称する。これは自身が敬うチェーホフの作劇法にもつながる理論。逆に、シェイクスピアは「精神」を描く作家だと彼はいう。チェーホフは肉体派で、シェイクスピアは精神派。いっけん逆のようにも思えるこの理屈を、岩松はこう説明する。

「シェイクスピアは精神を描くからセリフがすべて事実なんです。たとえばリチャード3世は、俺はびっこだ、世界に復讐してやる、と本当のことを口にする。そしてそのまま行動に移す。だからシェイクスピアの劇では事件がたくさん起こる。人間の内面に複雑なドラマがないから、外的事件で物語を進めていくしかないんです。逆にチェーホフは、肉体をセリフにする。相手の投げかけた言葉に対しての身体的リアクションを言葉にする。だから口にすることが嘘なんです。すごく好きな人のまえでは言葉が変質してしまうのと同じことで、チェーホフは本音を隠す。だから彼の戯曲では外的になんら事件が起きなくても平気。登場人物の内面にドラマがふんだんにあるから、それだけで芝居が持つんです。で、僕は圧倒的にチェーホフ派。走っている人間ではなく止まっている人間にこそ、秘められたドラマがあると考えるんです」

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This entry was posted on February 1, 2010 at 22:55.

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