Interview ロメオ・カステルッチ / 演出家

December 11, 2009

Romeo Castellucci

——今回、日本で上演されるダンテの『神曲』三部作(地獄篇・煉獄篇・天国篇)は08年度のアヴィニヨン演劇祭で世界初演され絶賛された作品です。地獄篇がヴィジュアルシアター、煉獄篇が物語演劇、天国篇がインスタレーションと異なるかたちで発表されました。なぜこのような創作手法をとられたのでしょうか。
ロメオ・カステルッチ(以下RC):ひとつ言えることは、私はここで『神曲』の解説を試みようとしたわけではないということです。ダンテはあまりにも偉大であり、あまりにもその作品が壮大なため、それそのものを形にしようとすることがまず不可能。そこで私はダンテに挑むにあたり、ダンテの本を閉じることから始めました。そしてこのイタリア語の父とされる国民的詩人が、その想像力によりこの世に存在しない世界をつむぎあげたのと同様に、私も自分の想像力を頼りに創作の旅路に挑むことにしたのです。そして最終的には、インフェルノ(地獄)、プルガトリオ(煉獄)、パラディソ(天国)という三つの言葉が象徴する「人間の状態」を描くことに決めました。とはいえ地獄、煉獄、天国は、個々人のなかに異なるかたちで存在します。また個々の生活のなかでも異なる時間に存在します。こうした理由からおのずと、三つの作品は別々の手法でかたちづくられていくことになりました。




——『地獄篇』では名もなき無数の人々が登場すると共に、アンディ・ウォーホールが現れます。なぜウォーホールなのでしょう?
RC:ダンテは地獄の案内人に古代ローマの詩人ウェルギリウスを選びましたが、私はウォーホールを選んだのです。なぜなら彼は、今日の芸術の「匿名性・無名性」という素晴らしい概念を発明した人だから。たとえば彼は自作において、毛沢東の肖像画とバナナの静物画を等価なものとみなしました。つまり彼は描く対象をアイコン化することにより、歴史的背景や文化的な重みというものを無化してしまったのです。そして、すべてを表層的なイメージで捉え「未来には誰もが15分は世界的な有名人になれる」という言葉を放った。私の考えではこの一文は、現代の地獄の門に刻まれる文言にもなりえます。だからこそ私も『地獄篇』において、ウォーホールのように表層的なイメージを収集するかたちで作劇を進めていったのです。




——『煉獄篇』は家族劇。しかも家庭内の暴力の物語でありギリシャ悲劇を連想させます。
RC:そのとおりです。ギリシャ悲劇において暴力はおもに、血縁関係の物語で頻出します。私はこの事実を参考に、みずから物語を考案しました。と同時に本作では、神学的なテーマも多く採用されています。たとえば「父が息子を生贄にする」という話は、旧約聖書のアブラハムの例を出すまでもなくキリスト教文化に多く見られるテーマです。ですから、劇中、息子が父と登る舞台後方の階段は、生贄を捧げるための山とも捉えられますし、ダンテの描いた煉獄山を象徴する山とも捉えられます。『煉獄篇』は他の二作に比べると、いっけんオーソドックスな演劇的時間が流れているように思えます。けれど、ある目にみえない隠された暴力の瞬間をきっかけに、芝居の性質が急変します。そして写実的な方法論がいっぺんして、夢想的な、まるで子供の夢のような場面がくりひろげられていくことになります。いずれにしろ、私はここで現実世界の何かを説明したいわけではありません。演劇とは、別世界との出逢いであり、この世の解説ではありませんからね。




——『天国篇』のインスタレーションは、どちらかというと美しい至高天よりも地獄の常闇を思わせる作品ですね。
RC:ダンテの描いた『天国篇』は光への旅路でした。しかし私の作品では、あえて光を否定的な観点から捉えてみました。つまり観客をいったん闇の空間に入れてみることにしたのです。暗闇に包まれた観客の目は、徐々にそれに慣れていきます。そして時の経過とともに、周囲の情報に敏感になっていき、そしてあるときある物体がゆっくりと姿を現してくる。私はこのプロセスそのものを、光のひとつのかたちとしてとらえ提示したかったのです。

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This entry was posted on December 11, 2009 at 02:37.

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