演劇と社会

【Article】バタクラン劇場の悲劇:違和感のあるドラマツルギー

Photo:AFP

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バタクラン劇場があるパリ11 区には、政治的要人や資産家はほぼいない。この地で暮らすのは近所のカフェで友人と語らうことを愉しみ、芸術をつつましい生活の同伴者として慈しみ、市民として共同体意識を深められる劇場に通う、ごく普通の人びとだ。移民が多い。芸術家も多い。わたしの友人知人の多くもこのエリアに住む。だからあのコンサート・ホールでの襲撃事件をかまびすしく喧伝するCNNニュースで知ったとき、なにか得体の知れない違和感に襲われた。

9.11 は「まるで映画のよう」と称された。だが今回の事件の違和感は、単なるバーチャルとリアルの反転よりも複雑だ。そもそも借景がアメリカではないし、ましてやテロを象徴する決定的映像が、当初は流れてこなかった。事件映像として報道されたのは、静まりかえった夜のパリに浮かぶ、サイレンとライトと機動隊の物騒さ。なんだかむりやり画像編集し、そこに恐怖を煽るナレーションを加えることで、ハリウッド映画的な事件を生成しようとしているようにさえ思えた。しかも事件当日、バタクラン劇場で演奏していたのは、カリフォルニア出身のメタルロックバンドだったというのだ。

9.11 のように「あの絵」がニューヨークの青空に似合わないのではない。絵はそもそもこの事件から不在だ。あるのは巧みに演出されたテロのドラマツルギー。そしてこの「ドラマツルギー」が地に足のついたパリの街並みにそぐわないのだ。不謹慎なことを承知でヴィンセント・ミネリ監督の映画にかこつけて言うなら、まるでこれは『An American Drama inParis(巴里のアメリカドラマ)』じゃないかと思ってしまった。

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【Books】<現代演劇>のレッスン:拡がる場、越える表現

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編集:鈴木理映子+フィルムアート社 発売日:2016年6月13日

【執筆陣】
平田オリザ(劇作家・演出家)、相馬千秋(アートプロデューサー)、藤井慎太郎(演劇学、文化政策学)、岩城京子(演劇ジャーナリスト)、森山直人(演劇批評家)、大堀久美子(編集者、ライター)、藤原ちから(批評家、編集者)、島貫泰介(ライター、編集者)、さやわか(ライター、物語評論家)、林立騎(翻訳者、演劇研究者)、片山正夫(公益財団法人セゾン文化財団)、田嶋結菜(劇団「地点」)、松井憲太郎(富士見市民文化会館 キラリふじみ)、三好佐智子(プロデューサー)、長島確(ドラマトゥルク、翻訳者)

【分担執筆箇所】

『「社会」に応答する日本の現代演劇史』と題した、論考を寄稿させていただきました。主に八〇年代からテン年代にいたる小劇場シーンの流れを、自分なりのフレームで解釈する論考になっています。キーポイントを、以下引用します。

「日本社会は3.11によって劇的には変わらなかったかもしれない。けれど、想像力の断層線にはなりました。震災以前をゼロ年代の想像力としてくくるなら、震災以後、勢いを増したのがテン年代演劇の作家たちです。二つの世代の作家たちは、外見的には似ているようで、大きく異なる時代精神を反映しています。ゼロ年代の作家たちは、了承可能性の敗北の先にある「ディスコミュニケーション」を描き、「未来への不安」を語り、「ディストピアとしての終わりなき日常」を俎上にあげました。テン年代の作家たちは、了承不可能性という前提を折り込み済みの「独話」を描き、「過去をノスタルジックに」美化し、「ささやかなユートピアとしての日常」を反芻していきます。もっとわかりやすく差異化するなら、ゼロ年代の作家たちは「戦後の想像力」を、テン年代の作家たちは「戦前の想像力」を基本オペレーション・システムとして使用しています。つまり前者にとっての「日常」は平々凡々といつまでもつづくはずの半永久的な物語であり、後者にとっての「日常」は、近い将来に喪失することを前提にした刹那的な幸せなのです。」

冒頭の2ページも、以下ウェブサイトにあるPDFで読めます。>>>http://filmart.co.jp/books/theater/gendai-engeki/

 

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【NEWS】Scene / Asia プロジェクト始動

さる 9月 8日、韓国最大級の文化施設として国内外から注目される「韓国・光州アジア芸術殿堂」が韓国光州市にオープンいたしました。Scene / Asia(シーン・アジア)の設立イベントとしてメンバーが一堂に介し、2015/2016年度のプロジェクト内容を発表いたしました。美術、演劇、社会学、といった複数領域にまたがるプロジェクトとして企画を発展させていきたいと考えています。

Scene / Asia とは、アジアにおける観客空間を活性化するべく立ち上げられたツール&プラットフォームです。アジアにおける芸術批評は、批判と同義語として受け取られ、ほぼネガティブな印象しか持ち得ていません。生産的な思考・批評空間をアジアに根付かせるためには、その前提条件として、クリティカルな視点で芸術を楽しみたい観客を発掘・育成する必要があります。そのような思索的観客空間を、アジア諸都市で活性化すべく立ち上げられたのが Scene / Asiaです。

Scene / Asiaでは、パフォーミング・アートとパフォーマンス・アートという、身体を用いた時間芸術にフォーカスします。アジア隣国間で身体芸術について語る際の共通言語が「西洋基準」という状況をすこしずつでも改善すべく、本企画ではアジアにおける「シーン」の理解を二重の意味で深めていきます。二重の意味 でのシーンとはつまり「社会状況としてのシーン」と「舞台場面としてのシーン」のことです。各地域での芸術表現を下支えする「社会」と「作品」をともに理解していきます。

Scene / Asiaは、5つの地域による国際共同プロジェクトです。現時点での参加地域は、中国、韓国、シンガポール、台湾、日本になります。これら5地域の「シーン」に根ざした複数のキュレーターが、年間共通テーマに沿ってリサーチ&キュレーションを行い、その過程や成果を、第一に4言語展開のウェブサイトで、第二に観客との共同イベントを介してアクティブに共有します。


【Scene / Asia 2015/2016年度キュレーショントピック】

変容する舞台:民主主義を翻案する

近年、アジア各国で民主主義を希求する運動がさまざまなかたちで浮上しています。オンラインとオフラインの二重生活を送る若者たちは、インターネットで見聞する西洋型民主主義が、フィジカルな日常で体現されていないことに不安と憤りを抱きはじめています。しかし、そもそも西洋近代からの輸入思想である「立憲民主主義」は、そっくりそのまま現代アジアに適合するのでしょうか。開かれた公共空間、個人と社会の共存、表現の自由といった概念が、身体ではなく頭脳のみで了解され、存分な議論がなされることもなく、「あやふやな民主主義」がインフレを起こしています。無条件に獲得すべきものとしてうやまわれている理想概念は、果たして本当にそのまま2015 年のアジアで機能するのでしょうか。「民主主義こそが理想である」という拙速な結論に待ったをかける議論をアジアのパートナーと展開し、そうした議論を促すアジア各国の芸術作品と社会理論を紹介していきます。


【Scene / Asia4つの柱】

1)アニュアル・キュレーション:年間テーマに即したパフォーミング/パフォーマンス・アートのオンライン・キュレーションを展開
2)アニュアル・シンポジウム:キュレーター、リサーチャー、観客が一同に会して、相互に思考を深めるシンポジウムを開催
3)リサーチ・プラットフォーム:アジア各地で展開するリサーチの公開アーカイブ作成
4)オーディエンス・イベント:キュレーターと観客が共に参加するアジア観劇ツアーやイベントを開催(2017年より実施予定)


【キュレトリアル・チーム】

チーフディレクター: 岩城京子(日本)
ゴン・ジョジュン、ファンツゥ・ツー(台湾)
キム・ヘージュ、ソ・ヒョンソク(韓国)
ジェイソン・ウィー(シンガポール)
ルイジュン・シェン(中国)
大舘奈津子、鈴木理映子、ウィリアム・アンドリューズ、相馬千秋(日本)

主催:特定非営利活動法人芸術公社
助成:国際交流基金アジアセンター、公益財団法人セゾン文化財団
公式 HP :

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【ARTICLE】国家神話や資本主義に抵抗するパフォーマンス・アート

演劇などの舞台芸術は、英語ではパフォーミング・アート。意訳するなら「演技する芸術」となる。ひるがえって、一九二〇年代の未来派やダダイズムの表現領域から勃発したパフォーマンス・アートは「実演する芸術」とでも訳せる。前者は演劇、後者は美術の分野から発達した表現であり、さらにいえば前者はおおむね非日常空間を構築することを目的とし、後者は日常空間に亀裂を入れることを目標に据える。

おもしろいのは、近年、このパフォーミング・アートとパフォーマンス・アートの領域が、欧州で再び接近していることだ。理由はいくつか考えうる。第一は、物質的な事情。二〇〇八年の「グレート・リセッション(大恐慌ならぬ大不況)」前後から、ほとんどの劇場や演劇祭では、大人数の俳優や大型舞台美術を要する作品をたやすくは制作できなくなってしまった。そのため資材費、人件費、運搬費が安あがりにすむ、身ひとつで作品提供できるパフォーマンス・アートがもてはやされるようになっていった。

第二には、第一の事情から派生する経済的な理由。一九六〇年代のシチュアショニストたちが資本主義社会における大量消費を「スペクタクル」とみなして批判したのと同様に、二〇一〇年代の作家たちは、一パーセントの勝ち組のために世界がまわる超資本主義社会を糾弾しはじめた。結果、ティノ・シーガルのように、絵画でも、彫刻でもなく、「構築されたシチュエーション(状況)」を批評的に作品化する芸術家がヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を獲得したりもした。もちろん、彼が美術マーケットが誇る最高権威からの賞を拒まず、遠慮なく受け取ったことを批判する声も同時にあがった。

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【ARTICLE】「政治的な言葉」とは:ベルリンでフクシマを問う

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短絡的な言葉が、欧州の国民感情を支配しはじめている。「移民を排斥して、仕事を守ろう」。「EUを撤廃して、経済を良くしよう」。読点の前後の文節が、イコールで結べる恒等式かどうか。その分析を経ることなく、見栄えのよいタグラインが即時的に伝播されていく。しかもこれら短慮な売り文句は、5月22日、恐るべき勝利を収めてみせた。この日の欧州議会選挙で、各国の極右政党が予想を超える大躍進を遂げたのだ。「AならばB」式の短絡的な言葉が、少なからず国を動かす力を持つことが立証されたのだ。

脅威的なスピードで伝染する、この言葉の短絡化を背景に、ベルリンのヘーベル・アム・ウファー劇場(通称:HAU)では、『 Japan Syndrome―Kunst und Politic nach Fukushima (ジャパン・シンドローム:フクシマ後の文化と政治)』と題した9日間に及ぶフェスティバルが開催された(5月20日~29日)。東日本大震災とそれにつづく福島第一原子力発電所事故から約3年を経たいま。改めて、フクシマ以後の日本において「社会と芸術言語がどう変化したかを問う場」を設けたい。また「Another way of putting the agenda(議題をかかげる別の言語)」を探りたい。そう、HAU芸術監督のアネミ・ファンアカラ氏は言った。洋の東西を問わず、ツラの皮の厚い大音声の言葉に水を差していくにはどうしたらよいのか。「AならばB」という簡略化された文句の、「ならば」の妥当性を問うにはどうすればいいのか。それを「フクシマ」という後期資本主義のシンボルともいえる出来事を契機に、再思考したかったというのだ。

このような設問をたてるフェスティバルの「理念」が、ドイツ連邦政府文化財団によって受容され、約3500万円という巨額の助成金(総予算の7割)を得て開催されたという事実は、単純に喜ばしいことである。しかしその「理念」が、果たしてどれだけ機能していたか。理念はさておき実相としては、ベルリンとフクシマを分断する言葉が「再定義される」というよりも「再強化される」むきが強かったようにおもう。つまりゲストの日本人は「外国人にはやっぱり肌感覚が伝わらない」と嘆き、ホストのドイツ側は「なぜ日本人はもっと政治的アクションを起こさないんだ」とやきもきする、という。辺見庸の言葉を借りるなら「表現のデキレース」が少なからず再生産されていた。

なお期間中、劇場外には「非常時」「仮説住宅」「想定外」と印字された垂れ幕がひるがえり、会場のひとつであるHAU1の客席は撤去され、土嚢袋、ブルーシート、仮設ベンチといった臨時事態の空間が設えらえられていた。このような、良くも悪くも「フクシマの記号」でポップに装飾された空間で、岡田利規や村川拓也の芝居がかけられ、サンガツや工藤冬里のライブがおこなわれ、高山明、藤井光、田口行弘、ニーナ・フィッシャー&マロアン・エル・サニ、そしてフフェスティバル名にもなった作品を制作した高嶺格による映像インスタレーションが展示された。いくつかの現地の劇評に目をとおすかぎり、工藤冬里や岡田利規など芸術的強度そのものが高い作品は、フクシマという文脈を超えて高評価を得ていた。ただこの万全にお膳立てされた空間に作品群が配置されることにより、個々に意志強い作品群が、ある意味、記号消費(ボードリヤール)化されてしまうという。全体が、不気味な紗幕に蔽われていた感がぬぐえない。

その気持ち悪さの原因は、装飾以上に、やはり「表現のデキレース」を企画が胚胎していたからではないか。もちろんここには震災直後の日本にあったような表現の窒息感、つまり自己規制のコードを内在化してしまったがゆえの息苦しさはない。ベルリンの春風のように心地のよい自由な意見交換がなされていた。ただ、なにか、スカスカに心地良すぎるのだ。つまりエリート芸術集団内でそれなりの理解が成立している感があり、ゆえに「こちら」と「あちら」の不可視な対立を炙りだし、そこから新たな了解言語を生みだそうとする「真摯な不案内さ」がないのだ。

「こちら」と「あちら」の断絶がもっとも浮彫りになったのは、5月25日に行われた討論会『Ende der Komfortzone? (安全地帯の終焉?)』であった。ここでは元ウィーン芸術週間現代演劇部門ディレクターであるシュテファニー・カープが司会を務め、ライプツィヒ大学日本学教授シュテフィ・リヒター、元フェスティバル/トーキョー・ディレクター相馬千秋、TPAM(国際舞台芸術ミーティング)ディレクター丸岡ひろみ、そして作家の高山明が登壇し、約3時間の議論がおこなわれた。

即座に感じたのは、発言内容の違いではない。そうではなく、発言以前の発話姿勢が、日本人とドイツ人の登壇者で確実に違ったのだ。具体的に説明するなら、日本人のそれは、よどみや、ためらいにあふれた、いわばカオティックな記憶の発話行為であった。翻って、独人で唯一のパネリスト(司会役のカープ氏は除く)であるリヒター教授の発話は、事実と数字をつめこんだ記録の秩序だった長広舌であった。彼女はまた「素人の乱」などを事例にとり「日本のデモ運動は社会を変革している」とロマンを語り、それに対し高山は「デモは空しい」と絶望を訴えた。さらに、最後のQ&Aセッションで、あるドイツ人の熟年男性は「なぜ日本人はもっと直接的な政治行為に出ないのだ」と詰問し、それに対しやはり高山は「三島由紀夫のようなアクティビスト的行為、テロ的行為、その熱狂を覚ます方向でぼくは戦いたい」と反論した。茫然自失の体験を経た肉体の言葉と、それを経ていない論理の言葉。あるいは岡倉天心も指摘した、日本の内省と西洋の理性の異なりが、いまだ手つかずのままの課題として、会場ではっきり開陳された。

寺山修司は「革命はダイナマイトによってでなく、小さな注意心によってなされる」と説いた。演劇が、つねに政治闘争の歴史と肩を組み歩んできたドイツの劇場ではあまり響かない言葉かもしれない。しかし現在の日本では、おそらく「小さな注意心」のほうが政治行為として機能するのではないか。大文字の革命のためのアクティブな行為よりも、内省的な個人革命を促すパッシブな詩的言語のほうが、いまの日本人には必要なのではないか。

なにが「政治的な言葉」なのか。表現が無化された3.11後の更地から改めて「議題をかかげる別の言語」を問う、という理念を掲げながら、少なからずここでは形式化された「AならばB」という議論に収束していた。無論、対話のすべてがそうだったたとは言わない。またもちろん、フクシマの土壌を改めてまとめて掘り起こす恰好の機会にはなった。これは素直に感謝したい。ただそこに断絶が存在するなら、決してそれを無視すべきではないし、ましてや、ざらりとした違和感を呑みこみ、笑顔で互いを抱擁すべきではない。東京やベルリンの文化人であれ、あるいはこの稿をロンドンで書いている自分であれ、とにかく、まずフクシマに運び入れられる土壌はすべて「客土」であることを謙虚に了解したうえで、短絡的な解決を導かず、小さく不案内な言葉に耳を澄ましていくべきだろう。

(新潮 2014年 8月号 初出 / 写真:Port B『光のないⅡ』)

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