フェスティバル/トーキョー

【Article】真実という名の禁忌を暴く「魂のポルノグラフィー」:アンジェリカ・リデル インタビュー

撮影:石川純

撮影:石川純

演出家・俳優・詩人のアンジェリカ・リデルは「真理の受難者」だ。偽善と体裁が猛威をふるう、見てくればかりの現代社会で、官能と精神という眼にみえないなにかを舞台に結晶化しようとしてきたがゆえに、結果、因襲からはずれた異端者として現代社会から排斥されてきた。それゆえ、母国スペインの少なくないフェスティバルは、リデル作品の上演を控えてきた。93年に設立されたアトラ・ビリス・テアトロ(ラテン語でアトラ・ビリスは暗い感情の意)の転機は2010年に訪れる。アヴィニヨン演劇祭で『El ano de Ricardo(リチャードの年)』と『La Casa de la fuerza(力の家)』を上演し、フランスの知識人たちに衝撃を与えてから、おもにアンダーグラウンドで評価されていたリデルの活動領域は一気に世界へと広がったのだ。

「憤怒のスペイン人」(ルモンド紙)「観客を恐怖に陥れる」(リベラシオン紙)と、フランス各紙はこのカタルーニャ出身の演出家の登場をセンセーショナルに煽った。だがリデル本人は、なにも「センセーショナルなこと、前衛的なこと」をするつもりはない、とじつに淡々としている。「中世の典礼劇や神秘劇」に影響を受けているという彼女は、新しいものよりもむしろ古いものに惹かれ、例えば、ニーチェ、バフチン、バタイユ、アルトーなどを引用しつつ、まるでベッリーニの宗教画のように戦慄的な美しさを誇る「残酷な美学(Aesthetico Brutal)」の画布を舞台上に描きあげていく。
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【Interview】マレーシア特集『B.E.D.(Episode 5)』 リー・レンシン インタビュー

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「天下り」ならぬ「回転ドア」と呼ばれる政府と大企業による癒着の連鎖により、マレーシアでは公共空間が次々に、娯楽施設やショッピング・モールなどの商業地に変貌しつつある。そんな社会情勢を背景に、「公共空間」に焦点を当てたダンス・パフォーマンスを作りつづけているのが若手振付家のレン・シン。今年のフェスティバル/トーキョーでは、プライベートな空間を象徴するマットレスを様々な場に配置する『B.E.D.』シリーズを改訂上演することになる。

——幼少期にバレエを習いはじめてから、コンテンポラリー・ダンスの振付家として活躍するようになるまで、ご自身の経歴を詳しく教えてください。

母親が中国文学の大学講師、父親が太極拳の師範、というマレーシアの中流家庭で育ったわたしは、なんのためらいもなく、ただ「姉妹が習っているから」という理由だけで、バレエ教室に通いはじめました。振り返ってみるとわたしの人生の最初の16年は、とても無邪気なものでした。自分の感性は東南アジアで培われた内省的で繊細なものであること。またその繊細さはバレエなど西洋の舞踊技術では表現しきれない部分があること。そんなことにはなんの疑問も持たず、ただ踊っていました。踊ることへの批評性は母国を離れることにより、徐々に培われていったように思います。 初の海外生活はシンガポール。16歳のときにASEAN奨学金を得て、まずはAレベル(大学進学コース)課程に進み 、その後、シンガポール南洋芸術学院ダンス科で、グラハム・メソッドから南東インド古典舞踊クチプディまで、様々なダンスを学びました。またシンガポールではT .H .Eダンス・カンパニーの準団員として、芸術監督クイック・スィ・ブンのもと振付家として小さな作品を作りはじめたりもしました。ただこの頃のわたしはとても優等生で「ルールに則ってダンスを踊ること、作ること」に必死だったように思います。 Read more

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【Interview】自らの最悪の「糞」を身体化する、アンジェリカ・リデルの叫び

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Cinra.netに、スペインの演出家アンジェリカ・リデルさんへのインタビューを執筆させて頂きました。以下、リンクから記事を読むことができます。

>>> https://www.cinra.net/interview/201509-angelicaliddell

 

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【Essay】受動態の詩的言語:「ユニバーサルな演劇」を越境するF/Tの試み

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ユニバーサリズム(普遍性)が西洋演劇界の専売特許であることはまちがいない。なにが普遍性の仲間入りをはたし、なにが爪弾きにされるのか。選別作業のすえ検印する職権は、西洋演劇人により長らく独占され、また、いまだ寡占状態にある。しかもいまはその選別作業が「寛容さ」の衣をまとってなされるぶん、よりいっそうたちが悪い。かつての統治国による旧植民地への有無をいわさぬ弾圧のように、西洋文明を玉座に位置づけそれをパフォーマティブに反復するよう強要してくるのでなく、他者性を寛容に認めるそぶり、つまりは儀礼的なパフォーマンスのうちに、懐に相手を抱えこみ笑顔で文化を歪めていく。しだいに日本を含むアジア、アフリカ、ラテンアメリカ、中東の演劇作家たち――とくに歴史的な理論武装を拒み、アーティストとしての必須条件だがそれだけでは方手落ちな同時代的な感知器だけを頼りに創作をすすめようとする作家たち――ほど、西洋演劇界の視座を無批判に内在化し、好んで「わたしの与り知らないわたしの物語」を語るようになってしまう。

だからこそいま欧州の劇場や演劇フェスティバルで邂逅する作品の多くは、どこの国から選別された作品であれ、その知的精度におもわず感服するという経験はあっても、頭脳がおっつかずに唖然とさせられ帰路につくという衝撃は、片手で数えられるほどの例を除き、あまりない。というのも西洋の演劇コードに則り譜面を読む訓練さえきちんとつんでいれば、ある程度、なぜそのようなテーマや方法論に達したかを解読できてしまうものがほとんどなためだ。つまり「ユニバーサル」であるとの評価のもと、西洋に採用される演劇機構はたいがい道具箱がひとつあれば解体できてしまう。あるいは実際はできないのに、その西洋大工道具だけでむりやりこじあけることを余儀なくされてしまう。逆に西洋の演劇コードに引っかかりもしない作品は、じつに横暴な話だが、解読不可能な土語として闇に葬りさられてしまう。

日本の演劇界は、この括弧つきの「ユニバーサル・コード」をかなり無邪気に無視しつづけてきた。あるいはコードの存在さえも知らないままにここまできた。だから鈴木忠志や蜷川幸雄など、弁がたち才のある特定の個人が、東西の演劇言語をみずから融合させコードを援用したうえで、例外的に西洋市場で認められるしかすべがなかった。つまり一部のアカデミズムと作家を除く日本現代演劇界には現在にいたるまで、ある文化的成熟が決定的に欠けていたのである。それはつまり演劇と社会の相補関係を基底にすえたうえでの、西洋の「ユニバーサル・コード」と対話/対応/対峙する演劇コードの確立を試みる思考の欠如であり、またそのじまえの演劇コードに則して作品や作家を「点ではなく面で」紹介してみせようとする行為の欠落である。

このようにあまりに無防備な日本の舞台演劇シーンにおいて、フェスティバル/トーキョーは極めて特異な立場をこの5年で確立してみせた。つまりF/Tは西洋の演劇コードを手落ちなく自覚したうえで明確なストラテジーをもち、ときにそのコードを巧みに利用しつつ、ときに疑義をなげかけつつ、アジア人ながらも「ユニバーサル・コード」で対話可能な組織集団として、いわゆる芸術の覇権諸国に認知されるようになったのだ。その結果、いままでであれば西洋の専門家が「ユニバーサル」でないと看過していた作品も、相馬千秋氏とF/Tによる世界の同時代と深く切りむすぶプログラミングと、日本発の異なる見方=コードの提示とともにある程度受容され、欧州演劇シーンの批評文脈に少しずつではあるが採用されていくようになった。ようするに、相手の喧嘩言語をこちらがそれなりに対等にしゃべれるようになったことで、国外に出たとたん部外者にあけわたしていた「日本人作家の生殺与奪の権」を日本人が取りもどしかけた、あるいは、はじめて保有しはじめたのである。個々の作品評に移行するまえに、まずなによりこのF/Tによる戦略的文化構想、つまり西欧視点で改竄されていた「日本演劇という物語の自律性」を奪還しようとした試みを評価したい。[以下続く]

< フェスティバル/トーキョー13ドキュメントより 一部抜粋掲載>

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【BLOG】リミニ・プロトコルの「顔のある統計学」

以前のブログ投稿に書いたレバノン出身作家 ラビア・ムルエにつづき、今回は リミニ・プロトコル紹介をします。とはいえ来週東京で『 100%トーキョー』を上演する彼らのことは、とっくに良く知っている人も多いはず。彼らはいわばドイツの「ドキュメンタリー演劇」シーンの代名詞的存在とみなされる人たちで、コアメンバーはシュテファン・ケーギ、ヘルガルド・ハウグ、ダニエル・ヴェッツェルの3人。彼らの作品は日本でも、何作か紹介されています。

01_Rimini1                                Das Kapital / Photo © Sebastian Hoppe

鉄道模型マニアの老人たちが、自国スイスの歴史とそこで生きる自分たちの人生を物語っていく『 ムネモパーク』(2008年来日)。マルクス研究者たちが昨今の貨幣や労働価値の破綻を実人生にあてはめて痛快に説いていく『 資本論』(2009年来日)。観客がまるで貨物のようにトラックの荷台に積まれて、東京近郊の消費物流ルートを見てまわる『 Cargo Tokyo-Yokohama』(同年来日)。またゼロ歳でドイツ人夫婦に養子にとられた韓国人女性の複雑なアイデンティティ問題を本人の語りにより淡々と紡いでいく『 ブラックタイ』(2011年来日)などです。これら一連の作品には、共通点がいくつかみられます。それは職業俳優が登場しないこと、ミメーシス的な演技を要する役柄が存在しないこと、そして単線的な筋行動としての戯曲が存在しないことです。つまりリミニ作品では、この世界に無数にちらばる現実の小さな物語に焦点があてられ、その物語の創造者であり実践者である当事者たちが括弧つきの「パフォーマンス」をしていくわけです。

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