ダンス

【Interview】マレーシア特集『B.E.D.(Episode 5)』 リー・レンシン インタビュー

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「天下り」ならぬ「回転ドア」と呼ばれる政府と大企業による癒着の連鎖により、マレーシアでは公共空間が次々に、娯楽施設やショッピング・モールなどの商業地に変貌しつつある。そんな社会情勢を背景に、「公共空間」に焦点を当てたダンス・パフォーマンスを作りつづけているのが若手振付家のレン・シン。今年のフェスティバル/トーキョーでは、プライベートな空間を象徴するマットレスを様々な場に配置する『B.E.D.』シリーズを改訂上演することになる。

——幼少期にバレエを習いはじめてから、コンテンポラリー・ダンスの振付家として活躍するようになるまで、ご自身の経歴を詳しく教えてください。

母親が中国文学の大学講師、父親が太極拳の師範、というマレーシアの中流家庭で育ったわたしは、なんのためらいもなく、ただ「姉妹が習っているから」という理由だけで、バレエ教室に通いはじめました。振り返ってみるとわたしの人生の最初の16年は、とても無邪気なものでした。自分の感性は東南アジアで培われた内省的で繊細なものであること。またその繊細さはバレエなど西洋の舞踊技術では表現しきれない部分があること。そんなことにはなんの疑問も持たず、ただ踊っていました。踊ることへの批評性は母国を離れることにより、徐々に培われていったように思います。 初の海外生活はシンガポール。16歳のときにASEAN奨学金を得て、まずはAレベル(大学進学コース)課程に進み 、その後、シンガポール南洋芸術学院ダンス科で、グラハム・メソッドから南東インド古典舞踊クチプディまで、様々なダンスを学びました。またシンガポールではT .H .Eダンス・カンパニーの準団員として、芸術監督クイック・スィ・ブンのもと振付家として小さな作品を作りはじめたりもしました。ただこの頃のわたしはとても優等生で「ルールに則ってダンスを踊ること、作ること」に必死だったように思います。 Read more

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【Interview】ホッフェシュ・シェクター / 振付家

15374————今回が初の日本公演になります。あなたがどのようにしてダンスをはじめられのか、少し自己紹介をしていただけますか。
僕はまず子どものころに民族舞踊を習いはじめました。イスラエルでは民族舞踊がとても盛んなのです。老若男女、なにか祭儀があるたびに踊ります。と同時に、僕は音楽も好きだったのでピアノも習いました。絵画も少しやったかな。でも最終的にはダンスを選んだ。ダンスがいちばん人と社交できて楽しかったんです。僕はとても内向的だったので、ダンスによって自分を表現する手立てが得られたのが嬉しかったんです。それでその後、エルサレム・アカデミー・オブ・ダンス・アンド・ミュージックで学び、また十代後半からはプロのダンサーとしてバトシェバ舞踊団で踊るようになりました。

————その後、いちどダンスをやめて打楽器奏者を目指されますね。
そうなんです。なぜかダンスだけでは僕のなかにある「創造欲」を満たすことができなかったんです。それで打楽器の先生をテルアビブで探しだし、その後二年、毎日五時間ドラムを叩きつづけました(笑)。でも今から考えると打楽器を習得したことは、現在の振付活動にとても役立っているように思います。というのも僕は基本的に、振付を考えるときにリズムから考えるんです。舞台役者が緩急や強弱などの言葉のリズムを決めてからセリフを言うのと同じように、僕もムーヴメントのリズムをまず考える。で、そこで打楽器を習っていた経験が役立つ。また振付と音楽の双方をクリエイトできるようになったことで、かなり純度の高い自分だけの世界観が作れるようになりました。だからようやく今、自分の創作欲が満たされているように思います。
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