シアターガイド

【ARTICLE】欧米デジタルパフォーマンス・フェスティバルの現在

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日々の少なくない時間をバーチャル空間で過ごすようになった今、主に欧米圏で「デジタル・パフォーマンス」と呼ばれる、舞台芸術とメディア・アートの中間地点に位置づけられるような作品が数多く発表されている。デジタルとリアルが共存する地平で日常生活が送られるようなった今こそ、その二重現実に応答するような芸術作品が作られるべき。そんな時代性に即したミッションを探究する、海外のフェスティバルを紹介したい。


いわゆる「デジタル・パフォーマンス」の潮流は九〇年代頃から始まっていた。例えば、振付家マース・カニングハムは『 Biped』でダンサーの身体にデジタルセンターを装着してアバターを構築し、スクリーンに投影してみせた。演出家ロベール・ルパージュは、デジタル生成したケベックやパリの街並みで役者たちを包囲した。パフォーマンス・アーティストの ステラークは、身体を無数のケーブルに接続し、インターネットの向こう側にいる観客が、自分の身体を好き勝手にリモート・コントロールできるようにした。そもそも舞台芸術は、音楽、美術、彫刻、映画、などほかの芸術表現を惜しみなく抱擁するかたちで豊かな仮想現実をたちあがらせてきたが、この頃から、加速度的にデジタル化されていく日常環境に応答するかたちで、多くの芸術家がテクノロジーに下支えされた作品を生み出していくようになったのだ。

こうしたデジタル・パフォーマンスを個人的に体験しはじめたのは、遅ればせながら2000年代後半頃から。広く欧州圏で舞台芸術を視察してまわるようになってから、メディア・アートとパフォーミング・アートの中間に位置づけられるようなフェスティバルや劇場の存在に自覚的になっていった。とりわけフランス北東部モブージュ市で開催されるフェスティバルVIA(主催:ル・マネージュ国立舞台)と、パリ郊外のクレテイユ市で催されるフェスティバルEXIT(主催:メゾン・デザール・クレテイユ)を訪れた経験は大きかった。

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【ARTICLE】敵も血もない、現代の「戦争物語」

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Grounded written by George Brant

 

古代ギリシャの時代から「戦争」はポピュラーな演劇の題材だった。トロイア戦争に出陣したアガメムノンも、ノルウェー軍と渡りあった武将マクベスも、共に故郷に戻り自宅で恐妻とやりあうまでは、戦地の敵と血まみれになり闘った。だが、2013年現在の戦争演劇はやや趣が異なる。まず敵が見あたらない。血や暴力が見えない。さらに言えば、登場人物が果たして「戦時下」を生きているのかさえ定かでない。今年のエジンバラ演劇祭で初演され話題を呼んだ一人芝居『 グラウンデッド』(2013年、ゲイト・シアターにて観劇)は、筆者の知る限り、いわゆる現代のドローン戦争を初めて真正面から扱う極めてアクチュアルな演劇作品であった。

登場人物は「パイロット」と名乗る女性空軍兵士(ルーシー・エリンソン)ひとり。昔から「めちゃくちゃやりすぎ」で男勝りな操縦士であった彼女は、出産を機に「青の世界」から「灰色の世界」に転属される。つまりラスベガスにある安全な軍用基地で灰色のスクリーンを12時間にらみ、アフガニスタン上空を飛ぶ無人兵器を遠隔操作して、ただのピクセル画像でしかない敵(のように思えるドット)を爆撃する任務に就くのだ。

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【ARTICLE】誰が弱者の「パフォーマンス」を物語るのか

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Jérôme Bel ‘Disabled Theatre’

誰もが経験のあることだろうが「君ってこういう人だよね」と、他人に賢明に諭されることほど神経に障ることはない。それは暴力であるとさえ言っていい。なぜあなたが「私の領域」を決めるのか。その権限は「あなたの領分」を越えてないか。しかし人が人について語る際、長年の文化的諸要因により設計され、自分の一部と化してしまった無自覚な色眼鏡の存在について自覚することは難しい。

先日、コンゴ民主共和国出身の振付家フォースタン・リネクーラによるダンス作品『Sur les traces de Dinozord(ディノゾードの足跡を辿って)』(13年/Haus der Berliner Festspieleにて観劇)を観た。舞台上に立つのは、振付家本人の他、同国出身のヒップホップダンサーのディノゾード、同カウンターテノール歌手のセルジュ・カクドゥジ、そしてリネクーラの友人で一時は政治犯として終身刑の罪で投獄されていたアントワーヌ=ヴミリア・ムヒンド。観客は終幕近くまで、ムヒンド役を演じる男が、投獄されていた本人であることを知らない。その事実が告げられ、リネクーラとムヒンドがひしと舞台上で抱擁して幕が閉じると、極めてセンチメンタルな拍手の嵐が客席から巻き起こる。それは不気味に長い寛容な拍手だ。

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【ARTICLE】 言葉の「錯視」で作られるリアル

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言語の限界性から出発する演劇の系譜はアルトー、ベケット、現代のロメオ・カステルッチにまで連なる。「言語の敗北を考えることで、彼らは意味の伝達を試みた」とは、カステルッチによる先人ふたりの評だ。つまり彼らはみな、幾重にも重なる現実世界の意味の多声性を、たった一つの声にフラット化することに疑いを感じ、窮屈な言語世界から離陸して、体、光、(無)音、映像、オブジェといったシニフィエの空で自由に飛びまわることを選択したのだ。すでにこうした言語の無化実験が演劇では行われてきたにも関わらず、いまふたたび欧州シアターシーンでは、言語への疑義を問う作品が多く散見される。

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【ARTICLE】現代演劇が問う「効率性」の危機

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「効率性」という単語が流行っている。なにもそれはイタリアの国内総生産より多くのGDPを産出する巨大金融街ザ・シティで、アドレナリンを煽る文句として流行っているというだけではない。欧米圏の演劇界ではここ数年、効率性、より平たく言えば金稼ぎのための効率性を、芝居の議題として果敢に取りあげつづけているのだ。例えばソレは、日本でも翻訳上演された英国人劇作家ルーシー・プレブルの『エンロン』(2009年、ロイヤルコートシアター観劇)では、階層を無駄なく駆けあがってきた出世男の悲喜劇人生の起因として語られる。また独人劇作家ファルク・リヒターの『氷の下』(2013年1月、シャウビューネ観劇)では、一分一秒を無駄なく金換算ための暗黙の条件として示唆される。

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