【Essay】ポスト・ヒューマン演劇の旗手:松井周論

photo: 青木司

松井周をロジカルに語ることじたい、松井的でない。なぜならそもそも彼自身が、論理の一貫性・主体の不変性・思考の自律性といった、いわゆるルネッサンスと共に生まれた西洋ヒューマニズムの基本思想に疑念を抱いているから。ドイツ人がゲーテを読んで育むような精神の修養を、彼はすべからく「からかう」のだ。からかっているだけで否定はしていない、という要点がここでは大事なのだが。「文化の宗主国」といえる西欧の人間は、そのあたりのサジ加減がわからない場合が多く。松井作品はときに誤解を招く。

例えば、英国のとある演劇学者は私の書いた松井評に触れ、「これは嘆かわしい、人類の劣化だ」と叫んだ。あまりに有無を言わさぬその口調に、私はそのとき松井作品の良さをぞんぶんに弁護できなかった。そのときの悔しさをバネに、松井の特異な才能をこの機会にきちんと文章化しておきたい。

簡潔に述べるなら松井の業績は、その後、市原佐都子、西尾佳織などにつづく「ポスト・ヒューマン演劇」の旗手としての立場を築いた点にあると思う。ちなみに六〇年代のいわゆる「主体性論争」を越える観点から「ポスト・ヒューマニズム演劇」を唱えたのは、別役実だとわたしは捕らえている。自/他を絶対的に区分するという「個人的人道主義」の有効性に疑義を唱えたのが別役であり、人/動物(『シフト』2007年)、 人/昆虫(『未来を忘れる』文学座へ書き下ろし、2013年)、人/サイボーグ(『ファーム』2015年)を区分けする「人間中心主義」にさえ問いを投げかけたのが松井だ。ちなみにこの人間中心主義を放棄する考えは、人間(特に権力者)への不信感が充満した、2011年3月11日の福島第一原発事故以後、加速したのではないかと思える。

松井は震災の約一ヶ月後、『自慢の息子』(2010年)で受賞した岸田國士戯曲賞授賞式に主賓として出席した。そのとき「みんなが異様にハイだった」ことを、彼は鮮明に覚えているという。「誰も原発事故についておおっぴらに話すわけじゃない。話したら意見が違うからギクシャクする。それでも、なんとなく一緒にいたい。このなんとなく人と人とが同じ場所に集まりたい、という基本的欲求。その欲求を充たすほうが人間的であり、かつ演劇的な行為じゃないか、とそのとき思ったんです」。

これは一昔前、いわゆる政治の季節に礼賛された「言論闘争の先にある合意」とは大きく異なる、単なる身体感覚での共棲だ。それをただの日和見主義だと嘆くむきもあるだろう。だがこれだけバラバラに複雑化したポスト・フクシマ世界を生き抜くには、人も激変する世界に順応したほうが、サバイバルの確率が高まると言えなくはないか。ちなみにこれは90年代後半から、ジャック・ハルバーズタム、ケアリー・ウルフ、ロッシ・ブライドッチなどの論者が説き始めた「ポスト・ヒューマン理論」にもあてはまる。彼らはみな、人工知能に人類を支配させるためにではなく、人間の可能性を拡張するために、人間のサバイバル能力を向上させるために、ポスト・ヒューマンな世界を称揚した。サンプルの演劇作品は、極めて一元的な生き方を押しつけられる日本人の息苦しい生を打破すべく、あえてエクストリームな暴挙さえ許容する。そして松井は舞台という「演劇的ヒューマン・ラボ」で、日本人や日本演劇の可能性を拡張しようと試みるのだ。

<初出:「雑誌サンプル」vol.2、2017年6月発行>

http://samplenet.org/2017/06/11/magazine02/

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事
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