【Article】日本の過去や未来とも重なる、現在進行形のドキュメンタリー演劇 マーク・テ『Baling(バリン)』

 

Photo by June Tan Courtesy of Asian Arts Theatre

Photo by June Tan Courtesy of Asian Arts Theatre

クアラルンプールに降り立つと、日本の「過去」と「未来」を同時に生きているような不思議な感情が去来する。「日本も昔はこうだったのか」とふと思うのは、マレーシアという国の若さと、それに付随する国民の熱さに接したとき。マラヤ連邦が宗主国イギリスから独立を果たしたのは、まだほんの六〇年程前の出来事。人間に喩えるなら、この国はまだ思春期のさなかにある。だからこそここで暮らす若手政治家や芸術家たちは、「未来は自分たちの手で切り拓く」という、まるで幕末の志士のような信念を抱いている。

本作の演出家マーク・テは、マレーシア人民公正党の若手政治家であり、本作のパフォーマーのひとりであり、かつ自身の大親友でもあるファーミ・ファジルの結婚式に参列した際、「もしここでテロが起きたら、国の歩みが三十年遅れる」と心底恐ろしくなったという。彼の言葉に驕りはない。マークは自分のような欧州で学んだ芸術家や、ファーミのようなリベラルな政治家は、マレーシアの日進月歩の成長に不可欠なエリートであることを素直に認識しているのだ。こうした国と向きあう誠実さは、日本が過去に置き去りにしてきてしまったもののように思える。

逆に、日本の未来図を眺めているように思えるのは、民主主義の破綻を目の当たりにしたとき。マレーシアでは政治家と企業の癒着はあたりまえ。判事は賄賂で買収できるし、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の批准も日本に先駆けて承認している。また08年には、当時の首相が「メディアは自己検閲を実践すべき」と宣言して物議をかもした。表現の自由について付け足すなら、マレーシアでは近年、1948年英国植民地時代に施行された「治安維持法(Sedition Act)」が「国家和平法(National Harmony Act)」として刷新され、 国の和平を乱すとみなされた人間を「無作為に」逮捕できるようになった。ちなみに今春、『バリン(Baling)』がクアラルンプールで上演された際にも、政治上層部から演者のひとりであるファーミに「過激な発言は自粛するように」と検挙を臭わすような事前連絡が入ったという(そのため、内容を若干変更した)。特定秘密保護法が施行されたいま、こうした民主主義の退行は日本の近未来の姿に重なる。

このような社会的文脈のなかで捉えると、いかに本作が遠い未来から歴史検証するだけのドキュメンタリー演劇とは異なるかがわかる。たしかに本作は、ベケットの異化効果を踏襲し、ペーター・ヴァイスのキュビズム的な演出作法を受け継ぐ、欧州直系のドキュメンタリー演劇ともみなせる。ただ西洋のそれと大きく異なるのは、いまここで演じているパフォーマーが、「明日、連行されるかもしれない」という切迫感。つまり芸術と政治の、恐ろしいほどの近さだ。

1955年に行われたバリン会談は、マレー系マラヤ連邦初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンと中華系マラヤ共産党リーダー陳平書記長、そして当時のシンガポール主席大臣デヴィッド・マーシャルの三者間で取り交わされた、過去の、難解な、歴史事件ではない。これは現在も多民族国家マレーシアに残るマレー系と中華系民族の分断線を問いなおす物語であり、高度資本主義を押し売りする隣国シンガポールとの関係性を睦みなおす試みであり、英米列強に手綱を握られてきたアジア諸国の民主主義を再検証する演劇なのだ。単なる傍観者による記録演劇ではないからこそ、本作には力が宿る。つまり現在のマレーシアの観客や、引いては日本の観客さえも、共犯者に仕立て上げてしまう現在進行形のドキュメンタリー演劇だからこそ、本作はすこぶるスリリングなのだ。

<初出:京都舞台芸術祭公式プログラム 2016.10>

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事
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