【Article】バタクラン劇場の悲劇:違和感のあるドラマツルギー

Photo:AFP

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バタクラン劇場があるパリ11 区には、政治的要人や資産家はほぼいない。この地で暮らすのは近所のカフェで友人と語らうことを愉しみ、芸術をつつましい生活の同伴者として慈しみ、市民として共同体意識を深められる劇場に通う、ごく普通の人びとだ。移民が多い。芸術家も多い。わたしの友人知人の多くもこのエリアに住む。だからあのコンサート・ホールでの襲撃事件をかまびすしく喧伝するCNNニュースで知ったとき、なにか得体の知れない違和感に襲われた。

9.11 は「まるで映画のよう」と称された。だが今回の事件の違和感は、単なるバーチャルとリアルの反転よりも複雑だ。そもそも借景がアメリカではないし、ましてやテロを象徴する決定的映像が、当初は流れてこなかった。事件映像として報道されたのは、静まりかえった夜のパリに浮かぶ、サイレンとライトと機動隊の物騒さ。なんだかむりやり画像編集し、そこに恐怖を煽るナレーションを加えることで、ハリウッド映画的な事件を生成しようとしているようにさえ思えた。しかも事件当日、バタクラン劇場で演奏していたのは、カリフォルニア出身のメタルロックバンドだったというのだ。

9.11 のように「あの絵」がニューヨークの青空に似合わないのではない。絵はそもそもこの事件から不在だ。あるのは巧みに演出されたテロのドラマツルギー。そしてこの「ドラマツルギー」が地に足のついたパリの街並みにそぐわないのだ。不謹慎なことを承知でヴィンセント・ミネリ監督の映画にかこつけて言うなら、まるでこれは『An American Drama inParis(巴里のアメリカドラマ)』じゃないかと思ってしまった。

ハリウッド大作映画の多くは「Dramatic(劇的)」の意味を方手落ちにしか理解していない。「劇的」という単語を、ドラマチックな悲劇や、勧善懲悪な物語や、誰の心にも届く直球のメッセージと結びつけたがる。つまり主人公がいて、時系列な物語があって、客がヒューマニスティックに共感できるほうが正義として勝利する。そんな劇的ドラマを連想させるのだ。だが現代演劇論的な視座からこのことばを捉えなおすなら、そこにはハリウッド映画のドラマツルギーとは異なる方法論も含まれてくる。

例えばパリの国立オデオン座やラ・コリーヌ国立劇場などでまさにいま上演されている多くの舞台作品には、英雄的な主人公はいないだろうし、物語の筋は複線的だろうし、おそらく正否や勝負が判然としないまま幕を閉じるものが多いだろう。つまり「劇的」な物語には、一元的・単線的に「良くできた神話」を朗唱してユートピアを誕生させるものと、多元的・複線的にその神話に亀裂を入れて「抑圧された真実群」を浮かびあがらせるヘテロトピアとしてのそれとがあるのだ。お望みならそれは、フレームがひとつしかない演劇と、フレームが複数ある演劇と言い換えてもいい。そしてバタクラン劇場で起きたドラマの違和感の根源には、移民と共存し、芸術を愛し、多様性を大切にする人々が暮らす街のうえに、前者の一元的なハリウッド・ドラマツルギーが上塗りされたことにあった。

演劇学者のラストム・バルーチャは『テロとパフォーマンス』という著書で、両者の共犯性について次のように語っている。「概念の説明だけではテロがパフォーマンス性を帯びることはない。それら概念がどう並べられ(中略)身体化されるかにより、(テロという)パフォーマンスが構成されていくのだ」。要は、肝心なのはドラマツルギー。実際に起きた事件をどのようにフレーム化し、どうその物語を人々が演じていくかによって、テロという悲劇神話が生成されていくのだ。この事実を理解したうえでジャック・デリダは、「9.11 は大事件であったというよりも、大事件という印象」が巧みに伝播されたことで神話化された、と分析した。この分析はもちろん、レバノンや、パレスチナや、ケニアでの無差別殺人が日々風化されていくなかで、なぜかパリのそれだけが神話化の一途を辿っていることにもあてはまる。悲惨な無差別殺人は、その悲劇をどのように演じつづけるべきか、というドラマツルギーと抱きあわせで売りこまれないかぎり、テロとして認識されない。

フレーミングの作法のほかにも、テロと演劇には類似点がある。たとえばある種の演劇とテロは「言語が敗北した地点から始まる」。論理的説明ではおっつかない「なにか」を表現せざるを得ない衝動に駆られたとき。そのような情動をまるごと担えるのは、人口に膾炙した意味しか伝えられない「ことば」ではなく、ことばという社会性を帯びる以前の叫びや震えさえも孕める「身体行為」だ。つまり特定の演劇やテロは、理性のみならず感情に訴えかける表現だといえる。ちなみにムッソリーニは、こうした演劇表現の特異性を十全に理解していたからこそ、「演劇は人びとの心にダイレクトに訴えかけられる最適な手段だ」と述べ、演劇とファシズムを結びつけていっ
た。そしてまた、ユートピアのように美しい未来をドラマチックに宣言することで、人びとの思考と感情を鷲掴みにし、ある信念を植えつけていった。ある信念が享受されやすい文化的土壌を切りひらくには、演劇もテロも実に有効な表現なのだ。その意味では、両者とも等価な文化の一形態とみなせるだろう。

ただもちろん、テロと演劇には決定的な差異がある。第一に、演劇は「いまここ」で上演される表現だが、現代のテロは「いま」ではあるものの「ここ」ではない。よくいわれるように演劇とは、この瞬間、この場に集まる観客の目差しが、別の身体にそそがれることによって成立する表現だ。だがテロは違う。「ここではないどこか」で勃発した事件が、スクリーンを介して「いま」の連続としてなだれこんでくる。そしてその悲劇を間接的に聞き及んだ人びとが、パフォーマティブに語り継いでいくことにより、悲劇がテロとして神話化されていく。

現代のテロでは、神話の語り部のほとんどが「身体的な出逢い」を体験しない。そのため現場にいた人間ならおのずと感じるであろう、事件以前の奇妙なおだやかさ、当日の異常な緊迫感、以後の空白状態、といった身体時間の変移が物語から欠落していく。演劇理論家ハンス=ティース・レーマンが言うように、ネット上で紡がれる物語は、情報のすべてが等価に「喫緊のいまの連続」として伝えられるため、結果として、特定の場所で事件が起きた、という「ここ」の感覚が抜けおちていく。そして個人の皮膚感覚が欠落した物語が、国家規模を超え、グローバルな真実として記録されていく。

数年前、シルヴィ・ギエムにパリのシャンゼリゼ近くのオテル・ラファエルで取材したとき、彼女は芸術の可能性は「国家ではなく、個人を変えられることにある」と次のように語ってくれた。

「政治家は、不特定多数にむけて、短期的に(例えば選挙活動中などに)熱烈な意見を届けます。でも芸術家は違う。劇場を訪れる限られた個人の身体に、ある種の衝撃を植えつけることで、長い時間をかけ、様々なかたちで、人びとを変えていけるのです」

このギエムの舞台人としての経験知から派生して、テロと演劇の二つめの違いが導きだされてくる。「ある種の衝撃を植えつけることで、人を変える」というフレーズだけを抜粋するなら、それはまさしくテロリストの主目的だ。だが決定的な違いは、テロでは変化の方向性をテロリストが恐怖により誘導しているのに対し、演劇ではその変化の方向性の舵を握るのは他でもない観客個人だということ。テロは「恐怖の外圧」を人に与えることで、意見を一元的に収束させていく。演劇 は「現実を拡張する内圧」を付与することで、人びとが自主的に、多様に、意見をふくらませていける。

あの日以来、多くのメディアは「米国映画的なドラマツルギー」を引用し、恐怖の外圧を不特定多数の人びとに与えつづけている。しかし、わたしの知る限り、パリの知りあいの多くは、この輸入もののドラマツルギーに踊らされていない。「眠れないほど心配だ」とうつむく人であっても、悲劇神話を自動律で語り継ぐことをやめている。驚くほど、彼らは冷静だ。そして賢明に、あの日の恐怖を相対的に思考し、わかりやすい二元論的な物語から降りようとつとめている。

太陽劇団の演出家アリアーヌ・ムヌーシュキンは1987年初演の『ランディアード』で次のように語り、多民族国家フランスにおける平和的共存を呼びかけた。「わたしたち人間を惹き付けてやまないのは、謎。他の性、他の宗教、他の人です」 。この理想主義なことばが、やや現代では鼻白む空虚さを抱えていることは否めない。事態は、さほど簡単ではないのだ。だが「謎」という単語には希望がある。人びとが「シンプルで正しい」物語に心酔せず、不明瞭な謎を追究する複雑な人生を生きることを選ぶかぎり、未来を少し信じられる。

<初出:『ふらんす』特別編集号 2015.12、白水社 / 初出掲載内容から若干改変>

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事
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