【ARTICLE】誰が弱者の「パフォーマンス」を物語るのか

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Jérôme Bel ‘Disabled Theatre’

誰もが経験のあることだろうが「君ってこういう人だよね」と、他人に賢明に諭されることほど神経に障ることはない。それは暴力であるとさえ言っていい。なぜあなたが「私の領域」を決めるのか。その権限は「あなたの領分」を越えてないか。しかし人が人について語る際、長年の文化的諸要因により設計され、自分の一部と化してしまった無自覚な色眼鏡の存在について自覚することは難しい。

先日、コンゴ民主共和国出身の振付家フォースタン・リネクーラによるダンス作品『Sur les traces de Dinozord(ディノゾードの足跡を辿って)』(13年/Haus der Berliner Festspieleにて観劇)を観た。舞台上に立つのは、振付家本人の他、同国出身のヒップホップダンサーのディノゾード、同カウンターテノール歌手のセルジュ・カクドゥジ、そしてリネクーラの友人で一時は政治犯として終身刑の罪で投獄されていたアントワーヌ=ヴミリア・ムヒンド。観客は終幕近くまで、ムヒンド役を演じる男が、投獄されていた本人であることを知らない。その事実が告げられ、リネクーラとムヒンドがひしと舞台上で抱擁して幕が閉じると、極めてセンチメンタルな拍手の嵐が客席から巻き起こる。それは不気味に長い寛容な拍手だ。

同じ類いの拍手は、ジェローム・ベル振付け『Disabled Theatre』(13年/HAU1にて観劇)でも耳にした。演者に選ばれたのはスイスの障害者劇団として有名なシアターHORAの11人。劇中、彼らは自ら選曲した楽曲にあわせ、自らの振付けで踊る。プロ集団なだけあり、ある程度、パフォーマンスの質は保たれている。彼らが障害者をパフォーム(演じて)しているのではないかと思える瞬間さえある。そしてその括弧付きの「パフォーマンス」の甲斐あって、終幕には熱く長い感動の拍手が送られる。

リネクーラはある取材で、仏リベラシオン紙に掲載された公演評のことをこう語っている。「そこにはこう書いてあった。フォースタンは確かに才能のあるダンサーで舞台作家だ。しかし彼は、アフリカを演じることを拒むことによってその才能を無駄にしている。なんだよそれ、というのが最初の感想です。(中略)でもそのときから僕は、自分に期待された物語の外にどう突破していけるかを考えはじめました」[1]

インド出身の哲学者ガヤトリ・スピヴァックは著書『サバルタンは語ることができるのか』で、西洋の知識人(強者)が第三世界のサバルタン(弱者)に無自覚に背負わせる物語について批判的に説いた。人は人に、自分が信じる物語を課す。そしてその理屈の正しさが立証されれば勝手に満足する。上記二つの舞台の拍手には、この自己満足が含まれていやしなかったか。自分もそんな思いに呑まれて感動していなかったか。この手の舞台を眺めるとき、観客はその眼力が暴力に転化しないよう「パフォーマンス」を見定めなくてはならない。努めて演者が微笑み、努めて観客が寛容になる。そんな偽りの恋愛のような舞台はただ虚しい。



[1] Brenda Dixon Gottschild, “My Africa is Always in the Becoming:” Outside the Box with Faustin Linyekula, Walker Magazine, 1 September, 2007

 

(初出:シアターガイド2013年10月号)

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事
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