【ARTICLE】群集を突き動かす声の力:ブリュッセル&ベルリン最前線より

人が集まれば力になる。その力は、暴力にも効力にもなりうる。果たしてこの群集の力は何を獲得すると「アラブの春」のような革命的ソーシャルモブを引き起こすパワーになり、また何が欠けると狂気的な集団ヒステリーに走ることになるのか。欧州圏演劇界でいま盛んに目にする“群集の力”をテーマに取る作品群を、日本の社会事象に引き合わせて紹介する。

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話し言葉の百科全書『組曲第一番ABC』Photo=Patrícia Almeida

群集心理の恐ろしさを舞台上から再三告発してきた劇作家といえば、この国では野田秀樹だろう。例えば『ザ・キャラクター』(10年)では、なんお変哲もない書道教室の教祖の言葉を「考える」よりも先に「信じる」ことを通して、集団が狂気的な暴力性を帯びていくさまが描かれた。この国では、群集は愚衆になぞらえられることが多い。

さて、ここ数年、欧州現代演劇界でも「マス」を題目として取りあげる芝居をよく見かける。だがそれら作品群での群集は“世を荒ませる暴力”を振るう存在であると同時に“世を新たにする動力”を促す人びとでもある。おそらくこうした描かれ方の背景には、個人の声がSNSなどを介して波及し、最終的に国家を動かすまでに至った、「アラブの春」の革命運動などが横たわっているのだろう。日本では人の群れは集団ヒステリーに直結すると思われがちだが、欧州では同じ群れが集合知に依拠するムーヴメントにも繋がっていくのだ。

例えば、2007年にフランスで旗揚げされたプロジェクト集団<L’Encyclopédie de la parol(話し言葉の百科事典)>の最新作『組曲第一番ABC』(13年)は、唱和の人数が、5人、10人、20人、と倍加していくことで、いかに観客が体で受け止めるメッセージの威力が異なるか、などといった群集の威力を肌感覚で実感させてくれる作品だ。発話にまつわる現象学的研究のために設立された、というこの集団の ウェブサイトを訪れると、合唱、抑揚、強調、間、音律、余韻、音色、といった発話のカテゴリーごとに様々な図形楽譜が表示されている。そして本作では、その図形楽譜にあわせて演出家が客席最前列でタクトを振り、23人のパフォーマーの声を巧に操ることになる。

終幕、近年オキュパイ運動などでよく見かけるヒューマンマイクによるメッセージ伝達が再現される。壇上でスピーチする人間の声が、最後列の人間にも伝わるように、文節ごとに登壇者の声を聴衆がオウム返しにするというあれだ。本作ではまず舞台奥の数人が「私たちは」と語り、舞台ツラの幾人かが「私たちは」と繰り返し、最終的に客席後方に位置する幾十人がふたたび同じ言葉をリピートする。すると「私たちは」という発話の波状効果のあいまに挟まれた観客は、知らずのうちに「私たち」という一人称複数の主語に自分自身を含みはじめていることを自覚する。彼らはこのような発話により、ソーシャルメディアで発信される個人のミクロなつぶやきも、少しずつ広がりながら伝播されていくことにより、マクロな現実社会を動かす可能性があることが舞台上で証明してみせる。ただ忘れてはならないのは、作品のすべてはひとりの指揮者によりコントロールされているということ。世を動かすムーヴメントは自然発生的なものではなく、誰かに秘かに制御されている。終演後、指揮者の存在が不気味な余韻を残す。

 

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リミニ・プロコトル『Remote Berlin』Photo=Kyoko Iwaki

ドイツ語圏の新たなドキュメンタリー演劇の騎手(つまり20年代、60年代のそれとは異なる)として、00年代から認知され始めた演劇集団リミニ・プロトコルも、作品を介して群集のパワーについての議論を持ちかけることが多い。ただし社会学、人類学、心理学、統計学など横断的知識をそのアーキテクチャに積極的に動員する彼らの作品は、前述した発話百科事典のそれよりも、群集の力に対して(野田秀樹とはまた異なるかたちで)懐疑的な視線をはらむ。簡潔に説くなら、野田作品では多くの場合、あやつり人形たちを動かす傀儡が不在である。しかしリミニ作品では、統率者にまつわる視点が必ず添えられる。

例えば、新作『 Remote Berlin』(2013)では、50人のヘッドホンを装着した観客が、事細かに耳に届けられる指示に従い2時間市内を徘徊する。街中に繰り出すまえ、ヘッドホンの向こうのレイチェル(フランス語ではマルゴ、ドイツ語ではユリア)は「私たちにアイデンティティはありません」とあえて断りを入れてくる。アイは「私のI」、デンは「デンシティのDen」、ティは「紅茶のTea」を合成して生まれただけの実体のない電子人格です、と。けれど観客はその実体のない声に、2時間有無を言わさずリモートコントロールされることになる。と同時に、信号機、自動ドア、車内アナウンス、など街中に溢れるほかの電子人格の存在を認識することになる。

要は、世間で言うところのアーキテクチャ型管理社会(ファストフード店の椅子をあえて硬く作ることで、客が長居できないようにする管理社会)の仕組みがまざまざと暴露されるわけだが、それと同時に、そのようなアーキテクチャを生成することを指揮した黒幕の存在にも意識が向けられていく。かつて、一人の危険なアジテーターの声に従い集団狂気に陥ったことのあるドイツ語圏作家ならではの深い批評性が介在する。

群集はモバイル機器を手にスマートモブ(新たな社会秩序のためのモブ)を始動することもできれば、同調圧力に呑まれて集団ヒステリーに走ることもできる。どちらに転ぶかは、最終的には、集団の構成要因ひとりひとりの知性に関わってくる。「みんなで」「一緒に」「国民全員」という言葉を耳にしたときには、一度立ち止まって、考えてみる。現在を生きる日本人にも確実に必要な知性について、これらの演劇作品は思考を促してくれる。

(初出:シアターガイド2013年10月号)

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事
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