【BLOG】リミニ・プロトコルの「顔のある統計学」

以前のブログ投稿に書いたレバノン出身作家 ラビア・ムルエにつづき、今回は リミニ・プロトコル紹介をします。とはいえ来週東京で『 100%トーキョー』を上演する彼らのことは、とっくに良く知っている人も多いはず。彼らはいわばドイツの「ドキュメンタリー演劇」シーンの代名詞的存在とみなされる人たちで、コアメンバーはシュテファン・ケーギ、ヘルガルド・ハウグ、ダニエル・ヴェッツェルの3人。彼らの作品は日本でも、何作か紹介されています。

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鉄道模型マニアの老人たちが、自国スイスの歴史とそこで生きる自分たちの人生を物語っていく『 ムネモパーク』(2008年来日)。マルクス研究者たちが昨今の貨幣や労働価値の破綻を実人生にあてはめて痛快に説いていく『 資本論』(2009年来日)。観客がまるで貨物のようにトラックの荷台に積まれて、東京近郊の消費物流ルートを見てまわる『 Cargo Tokyo-Yokohama』(同年来日)。またゼロ歳でドイツ人夫婦に養子にとられた韓国人女性の複雑なアイデンティティ問題を本人の語りにより淡々と紡いでいく『 ブラックタイ』(2011年来日)などです。これら一連の作品には、共通点がいくつかみられます。それは職業俳優が登場しないこと、ミメーシス的な演技を要する役柄が存在しないこと、そして単線的な筋行動としての戯曲が存在しないことです。つまりリミニ作品では、この世界に無数にちらばる現実の小さな物語に焦点があてられ、その物語の創造者であり実践者である当事者たちが括弧つきの「パフォーマンス」をしていくわけです。

なお教科書的な説明をちょっとしますと、いわゆるドイツの「ドキュメンタリー演劇」には三つの世代が存在します。第一世代がワイマール共和国時代の1920年代。エルヴィン・ピスカトール等が、当時の事件を表象する映像フィルムや歴史的場面をそのアジプロ演劇に採用しました。『Trotz Alledem!』(1925)という作品で初めて「戯曲と場面構成の土台となるものが、唯一、文書資料(ドキュメント)である演劇」が作られたそうです。* 1  なお、ここでは基本的に舞台上で起こることへの了解は、当時の「政治的見解」により形成されていました。第二世代が、戦後の1960年代。ハイナー・キップハルト、ロルフ・ホーホフート、ペーター・ヴァイス等が代表的作家で、有名な作品としてはアメリカの原爆製造責任者である科学者の供述を扱ったキップハルトの『オッペンハイマー事件』(1964)などがあります。第一世代とは異なりここでは、舞台上で起こるイベントへの了解は文書資料の「分析的解釈」により導かれ、仮定としてありうる歴史が作家により観客に示されていきました。

そして第三世代がリミニ・プロトコルに代表される1990年代以降のアーティストたち。彼ら世代のドキュメンタリー演劇は、大文字のヒストリーをただひとつの物語として絶対視しません。むしろ現代社会の小さくも多様なイベントに焦点をあて、「キュビズム的な視点」で「オープンエンドなプロジェクトとしての歴史」を紡いでいきます。*2  つまりはナショナルな集合的記憶よりも、ローカルな個別記憶にスポットが当てられていきます。なお現時点でかなり適確なドキュメンタリー演劇の一定義として流通しているテキストに、ペーター・ヴァイスが1968年に執筆した「Notizen zum dokumentrischen Theatre (Notes on Documentary Theatre)」があります。以下、少し引用します。

「ドキュメンタリー演劇は、事実に基づく演劇である。瑣末な議事録、ファイル、手紙、統計表、株式売買表、銀行や産業事業の貸借対照表、公式見解、スピーチ、インタビュー、著名人の発言、ある出来事をレポートする広報、ラジオ、写真、映像、その他現実を証言するあらゆるメディアが作品の基盤を成す。ドキュメンタリー演劇は、あらゆる発明を回避する。それは正当性のあるドキュメンタリー資料を使用し、そのコンテンツを変えず、しかし構造を設計することで舞台上から拡散する*3

読み落としてはならないのは、最後の一文。コンテンツを変えず、ストラクチャーを変える、という指摘です。つまりはここが演劇作家の腕の見せどころ。ありものの素材で、どう一回性の出来事から異なるリアリティを抽出してみせるかが、ドキュメンタリー演劇のエッセンスだといえるわけです。

さてと、今回上演される『100%トーキョー』に話を移します。私は本作を、昨年7月30日に、イーストロンドンのハックニー・エンパイアという20世紀初頭にミュージック・ホールとして建設された劇場で見ました。なお本作はロンドン以外にも、2009年のウィーン芸術週間での公演を皮切りに(訂正:2008年ベルリンHAUでの公演が世界初演。HAU100周年記念事業として立ち上げられた企画だそうです)、カールスルーエ、ケルン、ヴァンクーバー、メルボルン、ブランシュヴァイク、チューリッヒ、コーク、コペンハーゲン、ドレスデン、サンディエゴ、クラコウ、といった世界の町々で上演されてきました。で、今回は東京です。

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舞台上には、各上演都市ごとの人口構成を反映した100人の市民が登場します。彼らはいわば、ロンドンならロンドン、東京なら東京の街の姿を人口統計学的に表象しています。つまりステージ上には、年齢、収入、教育レベル、人種、就業状況、居住地区といった人口動態を的確に表す集団がいる。ロンドンの事例で具体的に説明するなら、この街の人口の50%は男性だから半数の出演者は男になり、11%は単身者なので11人は独り身の人になり、そして年齢的には生後5ヶ月から83歳までの人びとが舞台に立ちます。

またこれら出演者は、ある決まった配役システムにより集められます。スカウトされた出演者は、次の指定カテゴリーにあてはまる出演者を、24時間以内に探さなければいけないのです。この配役システムを表して、ロンドン上演時には英語で「A Statistical Chain Reaction(統計的チェーンリアクション)」という副題がタイトルに付けられていました。ちなみにロンドンでは37人目で、この配役のチェーンリアクションが途切れた。なんでもパキスタン系英国人の中年女性がどうしても見つからなかったそうです。劇場のあるハックニーからほんの15分ほど北上したニューハム地区に赴けば、パキスタン系英国人なんてそこらじゅう歩いてるのに…。ロンドンのような多民族都市でさえ、ある人間の輪が別の輪と決してクロスオーバーせず、どれほど顕著に住み分けが進んでいるかが伝わる事例です。なお東京の場合は、明治大学総合数理学部准教授の中村和幸さんが最初のひとりに選出され、最後は、65歳以上の江戸川区男性がギリギリまで見つからなかったと聞きました。

そんな年齢、人種、職業など、あらゆる意味で多様な100人が、リミニの投げかけるかなり遠慮会釈のない問いに「イエス、ノー」で応えていきます。数日前、 ドイツ文化センターで開催されたダニエル・ヴェッツェルさんのトークショーによると「いくつかの普遍的な質問以外は、各都市に入るまえに問いを準備してはいない」とか。当たり前ですが、都市ごとにそのときその場で議論されるイシューは様々なため、上演都市ごとに質問がオーダーメイドされていくわけです。東京ではおそらく、エネルギー問題やオリンピック開催にまつわる質問が投じられるでしょう。

他の都市の例をあげるなら、カールスルーエでは「兵役を経験したことがありますか」「尊厳死に賛成ですか」「自分の年金が安全だと思いますか」といった問いが。またチューリッヒでは「無賃乗車をしたことがありますか」「暴力の犠牲者だったことがありますか」「幽霊を見たことがありますか」といった問いがあがりました。ロンドン公演で印象的だったクエスチョンにはガン治療から生還したことがありますか」「パブリックな場でのブルカの着用に賛成ですか」「自殺を試みたことがありますか」といったものがあります。特に最後の質問に対して10歳ぐらいの男の子が「イエス」と応えていたのを見たときには、心底驚きました。そう、つまりリミニの首謀者のひとりシュテファン・ケーギが語るように、本作のユニークさは単なる統計学ではなく「顔のある統計学」である点にあるのです。統計表に目を通しても、大概、それは無機質な数でしかない。しかしその数値を舞台上の人びとがエンボディメント(具象化)していくことによって、私たち観客はその数のひとつひとつに個別の物語をあてがっていくのです。

もうひとつ、この作品が演劇的試みとしておもしろいのは、すべてが嘘かもしれないという不規則な変数が介在することです。顔の出ない匿名的な統計に応える際には、多くの人はおそらく、わりと正直に質問に応えるでしょう。けれど本作では何百人という観客が彼らをじっくり眺めている。また100人のメンバーのなかには、チェーンリアクションの配役法によって繋がる自分の知りあいがいる。だから前述したヴェッツェルさん曰く「日によって同じ人が違う答えをする」ことがよくあるらしい。例えば、ある都市ではこんなことがあった。「3年後、あなたは生きていると思いますか」という問いに対して、ある50代そこそこの男性は「ノー」といつも答えていた。その答えから観客は、彼がなんらかの病により余命宣告を受けていることを推測した。けれどある日の公演で、彼はきっぱり「イエス」と答えた。あとで聞くと、その日の劇場には彼の娘さんが来ていたそうです。

さて、これでも舞台上で提示(プレゼンテーション)されることは、ただ統計資料を忠実に具現化しただけのものと言いきれるでしょうか? リミニ・プロトコルはここで人口統計データというコンテンツを変えず、しかしストラクチャーを巧みにいじることで、ドキュメンタリーならぬドキュメンタリー演劇を表出させるつもりなのです。「東京ではイエスとノー真ん中で立ち往生しちゃう人が出てくるかもしれなくて、ちょっと心配」というヴェッツエルさんが先読みする東京版ならではのポシビリティも合わせ、上演が楽しみ。客席で自分も「イエス/ノー」と応えながら観劇しようと思います。


*1 Erwin Piscator, ‘Das dokumentarische Theater,’Theater im 20 Jahrhundert: Programmschriften, Stilperioden, Reformmodelle, edited by Manfred Brauneck, 265-270. Reinbek: Rowohlt, 1993 [1929].

*2 Thomas Irmer, ‘A Search for New Realities: Documentary Theatre in Germany,’ TDR,The MIT Press, Vol.50, No.3, 2006, pp. 16-28.

*3 “Notizen zum dokumentarischen Theater.” In Manifeste europäischen Theaters:Grotowski bis Schläfe, edited by Joachim Fieback, 67-73. Berlin: Theater der Zeit, 2003[1968].

Posted on by K.Iwaki in BLOG / ブログ
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