【ARTICLE】コミューンという共同体への憧れ

thumbs.php                           photo:Swamp Club © Martin Argyroglo

フランスの知人宅で一家団欒の食卓に加えてもらった際、驚いたことがある。中学生の息子さんが母親に塩を取ってもらうとき、砕けた言い方ではあるものの、文末に「シル・ヴ・プレ(すみません)」と付けたしたのだ。日本人同士だったなら「母さん、塩」で済んでしまう一文。だが国が変われば内輪であっても、きちんと他者への配慮を添える。家族といえどもあくまでもこの国では、母も子も利権を異にする別個人なのだと思わされる瞬間だった。

ことほどさように私と他者が明解に区分される社会に生きるためか、欧州演劇界ではときに、財産、時間、労働、価値尺度などをみんなでシェアするコミューンというものに対しての非現実的な憧れを目にすることがある。特に現代のような、ごく一部の人間による世界の私有財産化が極度に進んだ社会においては、共産主義的コミューンモデルが理想郷のように思えるのかもしれない。

68年生まれのドイツ人演出家ニコラス・シュテーマンはウィーン芸術週間で『 コミューン・オブ・トゥルース:リアリティ — マシーン』(13年/ミュージアム・カルティエ ホールEで観劇)と題される作品を発表。俳優、楽器奏者、技術者、ドラマトゥルグ等からなる数十人の創作チームと共に会場を120時間占拠し、舞台上に括弧付きの「現実」を再現すべく、まるでCNNのようにニュースをノンストップ報道(というか、歌唱、朗読、独白)してみせた。

毎晩2時間、観客はこのコミューンを覗き見する機会を得る。だが120時間という尋常でない時間が費やされていながらも、ここからは決して、いうなれば宗教的なほど澄明な価値尺度、噛み砕いて言うなら、明け方の学生合宿のような眩暈がするほど馬鹿げた共同幻想が生まれてこない。加えてここでは、演出家、ドラマトゥルグ、俳優、テクニシャン、といったカンパニー内のヒエラルキーさえ撤廃されていない。良くも悪くも彼らはこのコミューン内で、常識の境界線を越えない。

これに比べ、同じくウィーン芸術週間で上演された70年生まれのフランス人演出家フィリップ・ケーヌの『 スワンプ・クラブ』(13年/ミュージアム・カルティエ ホールGで観劇)では、舞台上に演劇的コミューンを形成することにある程度成功していた。設定は、欧州のどこか田舎町。そこに人工沼地を作りあげ、だらだらぐだぐだ共同生活を送る若者たちの生態を観客は観察する。若者たちは国籍こそ様々だが、旧知の仲のように打ち解けて話す。それどころかバスローブに着替えての裸の付き合いさえ始める。

また彼らはいきなり出現した巨大モグラにさえ臆せず、瓶ビールを片手に「よく来たな、お前どこから逃げてきたんだ」と語りあう。金の心配はいらない。奥の洞穴には、スイカ大の金塊がざくざく無尽蔵に眠るのだ。もうお分かりのように本作では、理想郷的コミューンは子供っぽい夢物語の延長線上で具象化される。ウィーンではそのあまりの脱力感に途中退席する観客もいた。だが私には頭でっかちなシュテーマンの作品より、子供っぽいケーヌの作品のほうが共同体の体現として正しいように思えてならなかった。一般常識の抑圧弁を緩めまくった先にしか、コミューンなんてものは生まれてこない。

(初出:シアターガイド9月号 2013年

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事
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