【BLOG】内戦と表象とラビア・ムルエ

11月9日にフェスティバル/トーキョーのオープニング・イベントの一貫として、本年度のプログラムの見どころについて、鴻英良さん(演劇評論家)、藤原ちからさん(編集者)、鈴木理映子さん(演劇ライター)という頼もしいお三方の胸を借りて、およそ3時間に及ぶ解説トークを行わせてもらいました。私は、おもに海外演目担当。ラビア・ムルエ、ティム・エッチェルズ、リミニ・プロトコルらの各演目についてかなり自由に紹介させてもらいました。

会場に入りきらないほどお客さんが来て下さって大変嬉しかったのですが、もしかすると当日会場に来られなかった方もいるかもしれない。そんな方のために、このブログに私の担当作家の解説を事後掲載しておきます。もちろん予備知識なく劇場にフレッシュに足を運びたいという方は読まないほうがいい。でも海外の現代作家作品に臨むときには、ある程度、現地のコンテクストを知ったうえで見るのもまた味わい深いものです。何かの参考になれば嬉しいです。

さて、今日はレバノン出身の劇作家・演出家・俳優・ビジュアルアーティストの ラビア・ムルエ(b. 1967〜)について書きます。

今年のF/Tでは彼の最近の3作品が連続上演されます。『 雲に乗って』(2011)、『 33rpmと数秒間』(2012)、そして映像作品である『 ピクセル化された革命』(2012)です。なお「ベイルート・ポスト内戦第一世代」代表格とみなされるムルエ作品の背後には、これら3作品に限らず、つねにレバノン内戦の影が見てとれます。彼が8歳のときの1975年に勃発し、15年続いた内戦を直接的/間接的テーマに取るのです。そこで少し文脈として、日本人には事情がわかりづらいこの長く苦しい内戦について説明しようと思います。

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レバノン内戦というのは、少し調べたところ、フランスがそうとう悪巧みに関与しているようです。つまり第一次世界大戦後にフランスが、この地域で多数派のイスラム教徒に中東を支配させないために、レバノンに約30%いるマロン派キリスト教徒に建国させ、西側諸国とつながりを持つ政府による国を作ったことが起因となっている。それでマイノリティなのに支配階級のマロン派キリスト教徒と、マジョリティで被支配階級なアラブ人たちが対立し、そこに様々な諸要因も加わり、内戦が長引いた。レバノンには十八の宗派が共存していて、宗派ごとに法律が違うそうで(国に統一された法律はなく、宗派ごとに異なる法律が定められている)それで日常茶飯事のように対立が起きる。あと南に位置するイスラエルとヒズボラの対立や、もともとレバノンは自国の一部だったのに「フランスの陰謀で分断された」と信じている北東のシリアとの軋轢とか、まあ、いろいろ政情が不安定な土地なわけです。

このように語ると、日本からは掛け離れた地域で勃発している、対岸の火事の出来事で「親近感がわかない」という方が大半だと思います。ただそのレバノン内戦という遠景の現実から抽出されるテーマは、かなり現代日本人も共有できる近景の問題です。そのひとつがレプレゼンテーションの問題。レプレゼンテーション——つまり現実をどう「イメージ」「言葉」「身体」「美術」で表象するか、表象されるか、表象できるか、という問い。これは、作家が創作の初期段階から問題視しつづけているテーマで、2005年には画家バーネット・ニューマンの『Who’s Afraid of Red, Yellow and Blue』にかけて『Who’s Afraid of Representation』という作品を発表しています。私はこの作品を見ていませんが、聞くところによるとムルエは、マリーナ・アブラノヴィッチやクリス・バーデンといった60〜70年代の暴力的ボディアートの数々に特異な興味を持っているそうで、それら歴史的ボディアートの行為についてムルエが舞台上で「語る」ことで表象し、また彼の背後にはレバノン内戦で過って仲間を射殺してしまった一市民の映像が流れ、さらにそこにムルエの公私にわたるパートナーであるリナ・サーネーの身体表現が加わり……。つまり、言葉、映像、イメージ、身体、などあらゆる情報をコラージュして、リアルとフィクションが混在する現実をレプレゼンテーションしていったそうです。

で、これと同じようなレプレゼンテーションに対しての疑問、果たしてどこまでが現実に起きたことの「記録、ドキュメント」で、どこからが「物語、フィクション」なのか。どこまでが一人称で語りうる個人的物語で、どこからが三人称によって編まれた集団的経験なのか。またどの線を超えると情報の量が質を凌駕し、質を理解していないにも関わらず量によって理解した気になってしまうのか、といったテーマが今回上演される3作品からも投げかけられます。より硬派な演劇論に寄せた物言いでいえば、彼は「ドキュメンタリー演劇」の定義に疑義を呈しているわけです。

『雲に乗って』は、作家の実弟であるイエッサ・ムルエさんの実人生を題材にとる作品です。ただ肉親の実人生を素材に取るとはいえ、本作は単なる記録してのドキュメンタリー演劇ではない。舞台上の表象物のドキュメント性とフィクション性がつねに問われていきます。

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舞台上に立つのはイエッサさんひとり。彼は17歳のときにレバノン内戦でスナイパーに頭部を狙撃され、ほとんどの記憶を失うと同時に、脳の言語機能中枢に障害を負い失語症になってしまう。それで「17歳から幼稚園の読み書きをやりなおした」経験が悲喜劇的に舞台上で語られます。おもしろい(と言うと失礼ですが)のは彼の失語症が、かなりピンポイントなものであること。なんと彼は「表象物を認識できない」。つまり実物のペンを見るとペンだとわかるけど、ペンの写真を見るとただの色紙としてしか認知できないのです。それでいちばん困ったのは「演劇鑑賞」です。兄ちゃんのラビアがしこしこ演劇を作っているのに、その作品を観に行くと、自分はぜんぶ事実だと思ってしまう。それでカーテンコールで死んだはずの人が出てきたりして、すごい混乱する。

だからこの作品の冒頭では、ある宣言がなされます。それは「演劇ではあらゆることがフィクションだ」という前提条件に立ち、そこから、作品制作をはじめたということです。だから、ここで語られる出来事はイエッサさんの実人生でありながら、彼はいちど記憶をなくしているので、身近な第三者(つまり、ラビアさん)が編み上げた括弧つきの「人生」でもある。舞台上で語られることは果たしてイエッサさんの人生の「ドキュメンタリー(記録)」なのか。演出家のラビアさんが編み上げた「フィクション(物語」)なのか。あるいはレバノン内戦で同じような目にあった他の多くの人を表象する「総体としての物語」なのか。

作家の意図をもう少しだけ明かすと、ムルエ作品を理解するのに欠かせないタームに「De-sacralise」(脱神聖化)という言葉があります。レバノンの街にはいたるところにイスラム殉教者たちのポスターが貼られています。また被害者たちの悲惨な写真や映像が溢れています。でもムルエはそれらイコンを、アーティストとしてことさら強調するのではなく、むしろ「De-sacraliseしたい」と語る。そうして、ある特定のイメージや物語が美化されて大衆のなかで暴走していくことに「待った」をかける。『雲に乗って』でも、戦争のかわいそうな被害者であるイエッサさんの身体的強度を相対化するように、DVD映像、第三者の朗読、写真やイメージを切り貼りしていく。しかも非常に地に足のついたユーモアが加わって、まったく感傷的なメロドラマに陥らない。このあたりの巧妙さが、ただ強烈なインパクトのある弱者の人生を舞台にあげて、観客から極めておセンチな拍手を誘おうとする、いま西欧で多く目にするある種の(あまり個人的には好きではない)ドキュメンタリー演劇とは異なる。

33rpmと数秒間』は、私は昨年10月、オーストリアのグラーツで見ました。これは『雲に乗って』のテーマをさらに先鋭化させたような演劇作品で、つまり「レプレゼンテーション(表象)だけでプレゼンス(実体)を作る」ことに挑戦している。どういうことかというと、まず舞台上には肉体が不在です。ひとりも役者がいません。ただ空っぽな部屋がある。そこにFacebookページが開かれたラップトップが置かれ、舞台後方のスクリーンにミラー投影される。徐々にそのFacebookアカウントは「アラブの春」の時期にみずから命を絶った若き革命家のページだということが解ってくる。それで「彼が死んだ!」「えっ、マジで」「信じられない!」といった言葉がどんどん知人友人たちによって投稿されていく。また床に置かれたテレビからは、死んだ革命家がなぜ命を奪ったのかを訳知り顔に語るご意見番たちの声が流れてくる。携帯電話にはおそらく彼の恋人である女性からの留守番電話メッセージがたまっていく。作家は、こうした溢れんばかりの本人不在の事後情報、つまり代理表象の集積から、死んだ革命家の「物語」がねつ造されていくことに疑問を呈していく。おそらく、この90分の「SNS演劇」を通して語られるのは、犠牲者の声を代弁することは可能か、物語の主人公は誰か、またどうしたら革命の殉教者のような英雄譚を脱神聖化できるか、といったことのように思えます。

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ちなみに作家はある取材で、物語の存在意義についてこう語っています。「ナラティブはつねに未完成で、オープンエンドで、埋めなければいけない穴だらけであるべきだ。またあらゆる解釈にたいして開かれているだけでなく、あらゆる誤解にたいしても開かれているべきだ。たとえその誤解が、ときに、とっても受け入れがたいものであっても」。これは東日本大震災以後、誰の物語が正しく誰のは誤りか、また誰に発言権があり誰にはないか、という罠に陥りがちな日本人にも深く響く言葉のように思えます。

最後に『ピクセル化された革命』ですが、これは2012年にカッセルのドクメンタで初演された作品で、その際には、作家本人が舞台上にあがり、スクリーンを背景に60分のレクチャー・パフォーマンスを行いました。「ノン・アカデミック・レクチャー」なんていうふうにもムルエは呼んでいます。今回F/Tで上演されるバージョンは、私が6月にウィーンで見た22分の映像バージョンです。これは、Youtubeからダウンロードしたありものの映像を編集し、その編集映像にあわせて作家本人が「死の不在」「今あそこ性」といったテーマについて鋭い分析で迫る作品です。

選ばれた映像はほぼすべてダブル・シューティングと呼ばれる瞬間。つまり、スマートホンでシュート(撮影)する市民と、そのスマホ撮影者をシュート(射殺)しようとするスナイパーの映像。だから銃口が向けられ、打たれ、カメラが床に落ちる状況を我々観客は目撃できても、死者じたいは映像のどこにも映らない。また殺人者の相貌はフォーカスするほど無数の抽象的なピクセルと化していく。つまり「Here and now」の現実が仮想空間の「There and now」でなまなましく生起している。死は、生は、暴力は、いったいシリアのどこに実在するのか?

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このレクチャー・パフォーマンスがドクメンタで行われたときには「現在進行形の事件を、アーティストは果たして語ってもいいのか?」という問いが観客から投げかけられたそうです。それに対してムルエは「じゃあ、どれだけ時間が必要なの?」と茶化しながら返しています。ちなみに岡田利規さんに、一昨日、同じ質問を投げかけたら彼と同じようなことを言っていました。「沈黙するよりは、暴力になる可能性があったとしてもアーティストは発言していったほうがいいよ」と。

いろいろ語りましたが、こんなところでしょうか。次回は、リミニ・プロトコルの『100%トーキョー』について、書いてるほうも読んでるほうも疲れちゃうのでもう少し簡潔に紹介しようと思います。

Posted on by K.Iwaki in BLOG / ブログ
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