【ARTICLE】 言葉の「錯視」で作られるリアル

julia-8_0

言語の限界性から出発する演劇の系譜はアルトー、ベケット、現代のロメオ・カステルッチにまで連なる。「言語の敗北を考えることで、彼らは意味の伝達を試みた」とは、カステルッチによる先人ふたりの評だ。つまり彼らはみな、幾重にも重なる現実世界の意味の多声性を、たった一つの声にフラット化することに疑いを感じ、窮屈な言語世界から離陸して、体、光、(無)音、映像、オブジェといったシニフィエの空で自由に飛びまわることを選択したのだ。すでにこうした言語の無化実験が演劇では行われてきたにも関わらず、いまふたたび欧州シアターシーンでは、言語への疑義を問う作品が多く散見される。

いや、もっと適確に語るならそれは、前出の演劇作家たちのような根源的な意味での言語への疑義ではなく、ティアゴ・ロドリゲズの『 Três dedos abaixo do joelho(両膝の裏に三本の指)』(13年/クンステンフェスティバルで観劇)にしろ、ミシェル・ノワレの『Hors-Champ(オフカメラ)』(13年/ブリュッセル国立劇場で観劇)にしろ、もっとずっと日常的な、ライトなレベルでの言葉への不信感だ。とはいえ、いまこうした言葉への不信感がアクチュアルな問題として浮上するのは理解できる。

現代人は1日あたり、トルストイの『戦争と平和』の4分の1に匹敵する情報を摂取するという。その情報の大海から、信用に足る言葉を探りあてることは至難の業だ。だから人は悲しくも圧倒的な物量に押し流され、実際に体験したわけでもないことの本質を理解した気になってしまう。例えば東北を一度も訪れたことのない人間があの震災を理解した気になるのは、情報のクオンティティ(量)が理解のクオリティ(質)を凌駕したためだろう。あちこちで見聞きした情報の切片がテラバイト単位で合算され、なんとなく、全貌を目撃した気になる。デジタル時代特有のこの無限量の言葉のコラージュによる「錯視」の問題を、多くの演劇作家たちはいま問題視するのだ。

端的な例は、ブラジル人演出家クリスティアーヌ・ジャタヒィ『ジュリア』(13年/クンステンフェスティバルで観劇)で見て取れた。ここではストリンドベリの『令嬢ジュリー』が三層の言葉で紡がれる。その三つとは、舞台上の生身のセリフ。その演技を同時撮影し、ときに編集してスクリーン上に投影される加工されたセリフ。そして観客の記憶にある原作戯曲のセリフだ。ジュリアが従僕と激しいセックスに溺れる場面の演技は、舞台中央に設えられた巨大スクリーンの向こう側で行われるため、客席からは見てとれない。もちろん原作戯曲では、性描写は示唆されるに止まる。だがスクリーンには、彼らの行為がでかでかと投影される。結果、多くの観客はジュリアが従僕と関係を持ったことを当事者として目撃する。その目撃は、多様な情報の掛け合わせによる「錯視」の目撃でしかない。人はいつだって、じつに静かに無自覚に、都合の良い現実を捏造していくのだ。

(初出:シアターガイド7月号 2013年

photo:Christiane Jatahy Julia © Sebastien de Ville de Goyet

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事
  • お問い合わせは、Eメールまたは下記フォームからどうぞ。
    You can contact us via email button below or submit online

    CONTACT / お問い合わせ