【BLOG】演劇は所有できない

ロンドンに住んでて「よかった」と心から思える数少ない要素のひとつに、劇場まわりで開催されるイベントの質と量があげられる。例えば過去の印象に残るイベントのひとつに、ロイヤル・コート劇場でPussy Riot(ロシアの女性アクティヴィスト芸術家集団)にまつわる芝居が上演されているさなかに、イーストロンドンの日本人経営のCafe OTOで、革命と社会運動にまつわる12時間討論イベントが開かれ、そこにゲストとしてスラヴォイ・ジジェクが登場したことなどがあげられる。Tシャツに短パンで現れた不潔で野蛮なのにどこかセクシーなジジェクは、汗だくになって数時間ノンストップで有象無象のできごとをしゃべりまくり、まわりから時に「おまえはただのポピュリストだ!」という反論を喰らい、反論の輪のさらに外から野次と声援の嵐が巻き起こり……という知的興奮のただなかに身を置くことができたのはとても貴重な体験であった。

あるいはランスティテュート・フランセで開催された『サイモン・マクバーニーが語るラブレー』というお題のトーク。これはロンドン在住の知識人が自分の敬愛するフランス文学作家を紹介するという連続企画シリーズで、マクバーニーは溺愛するラブレーの『ガルガンチュワとパンダグリュエル』の聖俗野合の世界観をひたすら奇人的に音読しつづけ、客が唖然とするなかで、一切、その客のひきっぷりを考慮に入れず、尻、糞、げろ、といった単語をガキんちょのように連呼していたのが強く印象に残った。ちなみに、このトークのあと、マクバーニー・ジュニア(5歳ぐらい)と初めて会ったのだが、マクバーニーに生き写しな好奇心いっぱいなドングリまなこの子どもで、いまにも5歳児の口からラブレーの言葉の洪水が溢れ出すのではという錯覚に陥った。

これらイベントと比肩するほどおもしろかったのが、先月末にゲーテ・インスティテュートで行われた英独仏の演出家による三者鼎談 『The Big Swap – Roundtable:European Theatre』。サイモン・マクバーニー(英)、トーマス・オスターマイアー(独)、ルドヴィク・ルガルド(仏)という欧州演劇界の第一線で活躍する演出家三名が登壇し、現在のヨーロッパ演劇の動向と未来、また三国間の文化交流について自由に語りあった。

この1時間半のトークで、特に、日本の演劇に携わる人々にも伝えておきたいと思ったのが「戯曲論」に対する三者の意見だ。いまだテキストベースの演劇が主流な英国演劇界に身を置くマクバーニーは「もっと演劇は戯曲から自由に羽ばたくべきだ、ミシェル・サンドニに影響を受けてエドワード・ボンドが有名な無言の場面を作ったように」と語り、また文学性を重視するフランス演劇界で活躍するルガルドも「そのとおりだ、だから僕はオリヴィエ・デュボワなどの振付家と自作でコラボレーションしているんだ」と賛同した。

しかし、この戯曲からの乖離に強く異論を唱えたのがドイツのオスターマイアー。彼は「今、ドイツ演劇界にはポストドラマ演劇という風邪が蔓延していて、戯曲に忠実に演出をするとオールドファッションだと言って断罪される」とドイツ演劇界の一辺倒な流行を嘆いた。そして「なんでもかんでも戯曲を切りきざめばいいってもんじゃない。俺はポストドラマ演劇の名付け親であるハンス・ティース・レーマンに異を唱えたい」と言って他二人との文化的土壌の違いからくる意見を明らかにした。

オスターマイアーの弁によると、彼の『ハムレット』や先日開幕したばかりの『ヴェニスに死す』などは、物語に忠実すぎると言う理由ひとつで批評ならず批判されることが少なからずあるそうだ。しかし彼は「ポストドラマ演劇も、異なる手法で物語を伝えているだけだ」と語り、「目にみえるかたちでの物語の有無のみで、作品の質を判断すべきではない。もしそのような意見が演劇界全体に蔓延したら、それはもはや個人的見解からくる批評ではなく、社会全体としてのイデオロギーになる」と、全体主義的な潮流に極めて敏感なドイツ人らしい意見を付け加えた。

ちなみに「自分の作品はオールドファッションじゃないぜ、絶対そんなことないぜ」と言って気炎を吐くオスターマイアーを尻目に、マクバーニーは脳天気に「ポストドラマ演劇ってなーに、トーマス?」と訊ねたりして、オスターマイアーを心底驚かせていた。

もうひとつ特筆すべき着眼点だなと唸ったのが、「グローバルな高度資本主義社会における演劇の未来性」という問いに対してのオスターマイアーの返答。彼は、さきほどまでの怒りをそのままポジティブなエネルギーに転化し(まさに、彼の作品そのもののようなエネルギー転換)「演劇には未来はあるぞ! ものすごい未来がある!」と興奮して口火を切り、その後、次のように理屈を説明した。

「例えば、ある人は『俺は自宅にゲルハルト・リヒターを所有している』と言えるだろ。だけど、どんな金持ちでも『俺は自宅にサイモン・マクバーニーを所有してる』と言うことはできない。どんなに金持ちでも、サイモンを永久に買うことはできない。演劇はこの高度資本主義社会において唯一と言っていいほど所有できないもの。演劇の瞬間は、金で所有できない瞬間なんだ。だから演劇には極めて大きな未来がある。その存在の基点において、アプリオリに、資本主義を逃れているからだ」

これに対して、マクバーニーがまた横ヤリを入れ、「いや、でもウエストエンド辺りでは、資本主義にまみれた演劇人がたくさんいるよ。ミュージカルも演劇なんだよ、トーマス」と言ってオスターマイアーの骨太な力説を英国的ユーモアで脱臼していた。

私はといえば、オスターマイアーの弁にうなりながらも、それと同時に、「高度資本主義経済における演劇の未来性」は、果たして資本主義から離れることのみにあるのだろうか、という疑問を持ったりもした。キャピタリズムとヒューマニズムを対立項として捉えるのがドイツ界隈文化圏の思考の特性としてあるのだけど、資本主義にまみれて生き抜いてきた日本人としては、べつに資本主義から脱皮しなくても、資本主義の渦中からこそ、刺激的な思想性の演劇が生まれてきたりすることもあるのではないかと思ったりもする。もちろんこれは、作家サイドの思想に対しての意見であって、言うまでもなく、制作サイドの指針となると話はまったく別だ。例えばパブリックシアターが金にものを言わせて消費文化に堕した打算的な制作仕事をしても、資本主義社会に一矢報いるような、同時代的な知的興奮を煽られる作品が生まれてくる、ということでは断じてない。思考の射程距離を考えないプロダクションは、内輪の利権以上の客に到達することはできない。まあ、そんなことをいろいろ考えながら、氷点下のロンドンを歩いて帰路に就いた寒くも熱い一夜であった。

Posted on by K.Iwaki in BLOG / ブログ
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