【ARTICLE】 インタビュー:演出家 ジゼル・ヴィエンヌ

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弱冠29歳のときにヤン・ファーブルに見初められ、アヴィニヨン演劇祭にて衝撃作を発表。以後、社会を挑発する鋭いクリエイションを立て続けに発表し、欧州全土で次世代の才能として評価を固める演出家・振付家・人形作家のジゼル・ヴィエンヌ。大学で哲学を修得したのち、フランス国立高等人形劇芸術学院で人形制作を学ぶ、という異色の経歴の持ち主である彼女の作品は、フロイト、ニーチェ、バタイユなどの哲学思想に影響を受けた「暴力、性、死」などのテーマ性と、「人工体と人間体の対比」を人形アートを用いて見せるという方法論が特徴的。第64回アヴィニヨン演劇祭にて発表された新作『こうしておまえは消え去る』も、哲学的で過激ながら、知識のない人間も置き去りにしない圧倒的美しさで絶賛された。創作をたずさえて2010年末に初来日を果たすヴィエンヌに、アヴィニヨンで話を訊いた。(2009年7月取材)

――この秋、初めて東京で作品を上演されます。あなたのことを知らない観客も日本にはまだいますので、まずは基本的な経歴から伺わせてください。あなたは演出家として非常にユニークな経歴をお持ちですね。大学では演劇ではなく哲学を専攻され、その後、フランス国立高等人形劇芸術学院で学ばれます。なぜこのような進路を選ばれたのでしょう。

GV 私は若いころから非常に多くのことに情熱をそそいできました。文学、哲学、音楽、ヴィジュアルアート……ほかにもありますが、主だったものはこれらです。そしていつも私は、文学と音楽とヴィジュアルアートを融合する最適な手段は人形劇だと思いつづけてきました。別に子供のころから人形劇をたくさん見ていたわけではありません。ただ私自身が、そのような人形劇を作れると漠然と信じてきたのです。それで国立高等人形劇芸術学院への進学を志したわけですが、まさか合格するとは思いませんでした。それまでの私は、ヴィジュアルアーティストである母の影響でハンス・ベルメールやアネット・メサジェなどの創作人形に触れていたとはいえ、大学ではまったく関係のない哲学や音楽を勉強していたわけですからね。でも運良くこの教育機関に受け入れられ、私は初めて本格的に演劇や人形劇を学ぶことになりました。なかでも当時見た淡路人形座の文楽にはとても感銘を受けました。私がその頃から試みようとしていた、テキストと音楽とムーヴメントの相互性が、そこではすでに洗練されたかたちで完成されていたからです。

―― 卒業後あなたは、生身のからだと人工物である人形、その双方を素材として振付家・演出家・ヴィジュアルアーティストとして創作を始められます。そして6年後の05年に『I Apologize』『Une belle enfant blonde』をたずさえアヴィニヨン演劇祭に登場されます。

GV 今年でアヴィニヨンは三度目になりますが、初めて招聘されたとき私はまだ29歳で、いまと同様かなり過激な作品をつくりつづけていたため、このような歴史あるフェスティバルに参加するのは無理だろうと思いこんでいました。けれど当時アソシエート・アーティストを務めていたヤン・ファーブルが私のことを強く押してくださり、芸術監督のヴァンサン・ボードリエールにも気に入ってもらい、私はアヴィニヨン・デビューを飾ることができたのです。この幸運にはとても感謝しています。

―― 確かにあなたの作品は、暴力、性、犯罪、死、妄想といった過激なテーマを題材にとることが多いです。観客をプロヴォケート(挑発 / 扇動)したいのでしょうか?

GV いいえ、私は観客をプロヴォケートしたいとは思いません。なぜならもし観客が、ショックを受け、嫌悪感をもよおし、こんなもの見たくないと思ってしまったら、観客が作品から切り離されてしまうからです。そうではなく私はどんな人にも作品に入りこんで楽しんでもらいたい。それこそいっけん難解そうな作品でも「見てみたい」と思わせたい。仰るように、私の作品を挑発的だという人は大勢います。けれどもよく見れば舞台上にあることのすべてが、じつは無害だとわかるはずです。血も暴力も死も、すべては作りごと、フェイクです。ただし私は作品に、観客が自分で思考できる余白を残すようにしています。この余白が観客を刺激するのです。『I Apologize』の例で言うなら、私は冒頭で非常に強烈なイメージを見せて、あえてその前半と後半の絵がつながらないような作品を作りました。すると舞台を見終えたあとの観客はたいがい「なんて暴力的な話を作るんだ!」と私に言ってきます。だけどそこで私は彼らに説明するのです。「いいえ、それを作ったのは私ではありません。あなたの想像力です」と。前半と後半の余白を埋めたのは、あなた自身なのですと。そうすると彼らは、よりいっそう大きなショックを受けるようです。つまり暴力を生み出しているのが、私ではなく、彼ら自身だと自覚するからです。

―― アートが観客の脳内で完成されるわけですね。

GV そうです。なぜなら私はつねに、アート作品はアーティスト本人よりも大きな存在であるべきだと思うからです。もし仮に私が作品への100%のコントロールを望んだら、それはまったくつまらない代物になるでしょう。そうではなく私はアーティストとして、自分よりも大きな「現象」を生み出したい。つまりはじめに一粒のアイデアがあり、それを現実の舞台で形にし、全体を科学者のような目で注意深く観察する……、と、そこから自分ひとりの頭では考えつかなかったような現象が見えてくるはずなのです。そしてそれが見えたとき、私はアートが自分よりも大きな存在になったと思えて興奮する。だから私の定義では、アーティストはアートを具現化するための従者のような存在です。

―― 昨晩『あなたはこのように消えていく』を拝見しました。前もってDVD版の映像を見てから臨んだのですが、正直、映像版ではわからなかった発見が予想以上にたくさんありました。あなたの作品では、光、音、空間、そして本作では本物の森や霧も現れるわけですが、それらを「体感」することがとても大切なのですね。つまりあなたの舞台は哲学的な体験でありながら身体的な体験で、非常に頭にも体にも響く作品です。

GV そう言ってもらえて嬉しいです。というのも西洋の哲学ではネイチャーとカルチャーは対立項だと考えられるのですが、私はむしろその双方をいっしょくたにした作品を見せたいと思うからです。これは大学で教わった哲学から生まれた思考法というより、完全に個人的な内省から培われた思考法です。つまり私はこう考えます。「私には頭と体がある。でもどう考えてもそのふたつが別々の存在だとは思えない。ふたつはあきらかに影響しあっている。だからどうやら私という存在は、文化を生みだす頭と自然物である体の両方があってひとつらしい」。そして私はこのような作品をつくるのです。

―― さらにあなたは振付家の肩書きを持ちながら「体」を特別扱いしません。体も光も音も、すべて舞台上では同じだけの価値しか持ちません。

GV もし仮に私が、パフォーマーの体に演出や振付をつけることだけが大切で、光や音はそのあとに適当にのせればいいと考えているとしたら、それは根源的な意味で「シアター」の概念を裏切っていることになります。演出家は、ときに俳優だけでなく、光や音や空間にも語らせねばなりませんからね。これは空間芸術にたずさわる舞台作家としては、あたりまえのことです。ただときに忘れがちなことであり、また多くの俳優もこの事実を忘れがちです。だから私は、自分が前に出ることもできれば後ろに控えることもできる、優れた俳優とのみ作業をすることを好みます。

―― 本作では様々な対立項が浮きぼりになります。美しさと暴力、秩序と混沌、リアリティとバーチャリティ。なぜこのような背反要素を、舞台上に併置しようと思われたのでしょう。

GV 答は簡単です。私はいつでも両極端な要素を舞台上にのせることを好むからです。なぜならいっけん矛盾することを舞台にあげると、そこに緊張感が生じ、観客が考えはじめるからです。たとえば本作でいうなら、視覚的に極端は変化――完全なるリアリズムから完全なるイマジネーションへ――を実現しようと試みました。だから最初にすごくリアルな森を提示し、中盤に霧で観客の視覚を攪乱し、物理的な舞台道具はいっさい変えずに後半からは観客の風景に対する知覚を想像的なものに変えてみせました。また冒頭登場する体操コーチの存在にも、ひとつの対立項を担わせています。このコーチは彼が指導する女性選手に完全なる美と秩序を求めているのですが、同時に彼のなかには混沌とした感情が隠れていることが見えてきます。ですからここで彼は秩序を求めながら、混沌を創造しているのです。さらに森という存在自体、すでに両極の要素を抱えています。森は穏やかな美や自然をあらわすものでありながら、暗い無秩序や混乱を指し示すものでもありますからね。

―― 今までも『I Apologize』(05)、『KINDERTOTENLIEDER』(07)、『Jerk』(08)などの作品であなたは人形を扱ってきました。そして本作でも使用されますが、ここでの使い方は今まで以上に印象的です。終盤にかけてたった一場面だけ、人形たちがまるでインスタレーションのように舞台上にひっそりと配置されます。

GV 本作をご覧になればおわかりのとおり、ここでは場面ごとに異なる”芸術ジャンル”が採用されています。冒頭はとても演劇的で、次にダンスのようになり、霧のインスタレーションがあって、再び演劇になり、最後にインスタレーションがくる。この変化はかなり意図的に行いました。また最後の人形インスタレーションの場面に関しては、あえて静止的に、それこそ額縁に入れられた絵画のように人形を見せようと思いました。一枚の絵を突きつけることで、観客の作品に対しての「認識」を覆そうと思ったのです。観客はここに至るまでの一時間で、ある結論に達しようとしています。「もしかするとこれは、ある事件を描く物語なのかもしれない」「もしかするとこれは体操コーチの男の内面世界を探る物語なのかもしれない」。そうして思考がまとまりそうになったとき、まったくその思考に沿わない絵が登場します。そして観客は再びゼロから、作品について考え直さねばならなくなるのです。また私は作品の幕切れ間際で、同じように別の要素で観客の認識を覆します。つまり私は終盤にかけて二度、観客の思考に揺さぶりをかけ、作品を再構成することを求めるのです。私はいつでもそうして、観客の思考を刺激しつづけたいのです。

―― 米国人作家デニス・クーパーとは、ここ数年共同作業をつづけられています。彼とのコラボレーション作業はどのように進んでいくのでしょうか。

GV 作品によって異なります。また彼は05年まではロサンゼルスにいましたが、今はパリに住んでいるので、いまは以前の「メール」にとってかわり「会話」によって作業が深められていきます。おそらく彼が、私のプロジェクトに関してのいちばんの話し相手です。作品に関して、彼と最も意見を交わすうように思います。ですから彼は作品のテキスト執筆者にとどまらず、作品の構造に関しても指示をだすドラマターグのような存在であるといえます。ちなみに本作では、中盤の、体操コーチとロックスターの対話テキストが特におもしろく仕上がりました。観客にはひとつの声しか聞こえてきませんが、おのずとそれがコーチとロックスターとの間で交わされている対話であることが分かってきます。けれどさらによく耳を澄ましていると、もしかするとこれは精神分裂症なコーチの一人芝居かもしれない……、とも思えてきます。つまり私はここでも、観客の思考を試しているわけです。

―― どうやらあなたの作品を十分に楽しむためには、頭を自由に解放して、際から際に揺さぶられる思考について行けるようにしなければならないようですね。

GV ええ、でもただのインテリな知的作業を押しつけるつもりはありません。私は観客を感情的に呑みこんで、際から際に、体ごと揺さぶりをかけたいのです。ちなみに私はよくこの感覚をスノーボード競技に喩えます(笑)。スノーボード競技では、一歩まちがえたら死んでしまうかもしれない極限まで自分を追い込みますよね。そして彼らはこれ以上無理という極限に立つことで、大きな生の充実感を味わうのです。私もこれと似た感覚を舞台で生み出したいと思っています。どちらかといえば過激なテーマを選び、際から際に思考を推し進めることで、今までにないエクストリームな体験を創造したいのです。

2010年7月11日 / アヴィニヨンにて取材

 

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事
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