ESSAY / 論考

【Essay】受動態の詩的言語:「ユニバーサルな演劇」を越境するF/Tの試み

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ユニバーサリズム(普遍性)が西洋演劇界の専売特許であることはまちがいない。なにが普遍性の仲間入りをはたし、なにが爪弾きにされるのか。選別作業のすえ検印する職権は、西洋演劇人により長らく独占され、また、いまだ寡占状態にある。しかもいまはその選別作業が「寛容さ」の衣をまとってなされるぶん、よりいっそうたちが悪い。かつての統治国による旧植民地への有無をいわさぬ弾圧のように、西洋文明を玉座に位置づけそれをパフォーマティブに反復するよう強要してくるのでなく、他者性を寛容に認めるそぶり、つまりは儀礼的なパフォーマンスのうちに、懐に相手を抱えこみ笑顔で文化を歪めていく。しだいに日本を含むアジア、アフリカ、ラテンアメリカ、中東の演劇作家たち――とくに歴史的な理論武装を拒み、アーティストとしての必須条件だがそれだけでは方手落ちな同時代的な感知器だけを頼りに創作をすすめようとする作家たち――ほど、西洋演劇界の視座を無批判に内在化し、好んで「わたしの与り知らないわたしの物語」を語るようになってしまう。

だからこそいま欧州の劇場や演劇フェスティバルで邂逅する作品の多くは、どこの国から選別された作品であれ、その知的精度におもわず感服するという経験はあっても、頭脳がおっつかずに唖然とさせられ帰路につくという衝撃は、片手で数えられるほどの例を除き、あまりない。というのも西洋の演劇コードに則り譜面を読む訓練さえきちんとつんでいれば、ある程度、なぜそのようなテーマや方法論に達したかを解読できてしまうものがほとんどなためだ。つまり「ユニバーサル」であるとの評価のもと、西洋に採用される演劇機構はたいがい道具箱がひとつあれば解体できてしまう。あるいは実際はできないのに、その西洋大工道具だけでむりやりこじあけることを余儀なくされてしまう。逆に西洋の演劇コードに引っかかりもしない作品は、じつに横暴な話だが、解読不可能な土語として闇に葬りさられてしまう。

日本の演劇界は、この括弧つきの「ユニバーサル・コード」をかなり無邪気に無視しつづけてきた。あるいはコードの存在さえも知らないままにここまできた。だから鈴木忠志や蜷川幸雄など、弁がたち才のある特定の個人が、東西の演劇言語をみずから融合させコードを援用したうえで、例外的に西洋市場で認められるしかすべがなかった。つまり一部のアカデミズムと作家を除く日本現代演劇界には現在にいたるまで、ある文化的成熟が決定的に欠けていたのである。それはつまり演劇と社会の相補関係を基底にすえたうえでの、西洋の「ユニバーサル・コード」と対話/対応/対峙する演劇コードの確立を試みる思考の欠如であり、またそのじまえの演劇コードに則して作品や作家を「点ではなく面で」紹介してみせようとする行為の欠落である。

このようにあまりに無防備な日本の舞台演劇シーンにおいて、フェスティバル/トーキョーは極めて特異な立場をこの5年で確立してみせた。つまりF/Tは西洋の演劇コードを手落ちなく自覚したうえで明確なストラテジーをもち、ときにそのコードを巧みに利用しつつ、ときに疑義をなげかけつつ、アジア人ながらも「ユニバーサル・コード」で対話可能な組織集団として、いわゆる芸術の覇権諸国に認知されるようになったのだ。その結果、いままでであれば西洋の専門家が「ユニバーサル」でないと看過していた作品も、相馬千秋氏とF/Tによる世界の同時代と深く切りむすぶプログラミングと、日本発の異なる見方=コードの提示とともにある程度受容され、欧州演劇シーンの批評文脈に少しずつではあるが採用されていくようになった。ようするに、相手の喧嘩言語をこちらがそれなりに対等にしゃべれるようになったことで、国外に出たとたん部外者にあけわたしていた「日本人作家の生殺与奪の権」を日本人が取りもどしかけた、あるいは、はじめて保有しはじめたのである。個々の作品評に移行するまえに、まずなによりこのF/Tによる戦略的文化構想、つまり西欧視点で改竄されていた「日本演劇という物語の自律性」を奪還しようとした試みを評価したい。[以下続く]

< フェスティバル/トーキョー13ドキュメントより 一部抜粋掲載>

Posted on by K.Iwaki in ESSAY / 論考
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