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【ARTICLE】敵も血もない、現代の「戦争物語」

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Grounded written by George Brant

 

古代ギリシャの時代から「戦争」はポピュラーな演劇の題材だった。トロイア戦争に出陣したアガメムノンも、ノルウェー軍と渡りあった武将マクベスも、共に故郷に戻り自宅で恐妻とやりあうまでは、戦地の敵と血まみれになり闘った。だが、2013年現在の戦争演劇はやや趣が異なる。まず敵が見あたらない。血や暴力が見えない。さらに言えば、登場人物が果たして「戦時下」を生きているのかさえ定かでない。今年のエジンバラ演劇祭で初演され話題を呼んだ一人芝居『 グラウンデッド』(2013年、ゲイト・シアターにて観劇)は、筆者の知る限り、いわゆる現代のドローン戦争を初めて真正面から扱う極めてアクチュアルな演劇作品であった。

登場人物は「パイロット」と名乗る女性空軍兵士(ルーシー・エリンソン)ひとり。昔から「めちゃくちゃやりすぎ」で男勝りな操縦士であった彼女は、出産を機に「青の世界」から「灰色の世界」に転属される。つまりラスベガスにある安全な軍用基地で灰色のスクリーンを12時間にらみ、アフガニスタン上空を飛ぶ無人兵器を遠隔操作して、ただのピクセル画像でしかない敵(のように思えるドット)を爆撃する任務に就くのだ。

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Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事

【ARTICLE】誰が弱者の「パフォーマンス」を物語るのか

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Jérôme Bel ‘Disabled Theatre’

誰もが経験のあることだろうが「君ってこういう人だよね」と、他人に賢明に諭されることほど神経に障ることはない。それは暴力であるとさえ言っていい。なぜあなたが「私の領域」を決めるのか。その権限は「あなたの領分」を越えてないか。しかし人が人について語る際、長年の文化的諸要因により設計され、自分の一部と化してしまった無自覚な色眼鏡の存在について自覚することは難しい。

先日、コンゴ民主共和国出身の振付家フォースタン・リネクーラによるダンス作品『Sur les traces de Dinozord(ディノゾードの足跡を辿って)』(13年/Haus der Berliner Festspieleにて観劇)を観た。舞台上に立つのは、振付家本人の他、同国出身のヒップホップダンサーのディノゾード、同カウンターテノール歌手のセルジュ・カクドゥジ、そしてリネクーラの友人で一時は政治犯として終身刑の罪で投獄されていたアントワーヌ=ヴミリア・ムヒンド。観客は終幕近くまで、ムヒンド役を演じる男が、投獄されていた本人であることを知らない。その事実が告げられ、リネクーラとムヒンドがひしと舞台上で抱擁して幕が閉じると、極めてセンチメンタルな拍手の嵐が客席から巻き起こる。それは不気味に長い寛容な拍手だ。

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【ARTICLE】 インタビュー:演出家 ジゼル・ヴィエンヌ

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弱冠29歳のときにヤン・ファーブルに見初められ、アヴィニヨン演劇祭にて衝撃作を発表。以後、社会を挑発する鋭いクリエイションを立て続けに発表し、欧州全土で次世代の才能として評価を固める演出家・振付家・人形作家のジゼル・ヴィエンヌ。大学で哲学を修得したのち、フランス国立高等人形劇芸術学院で人形制作を学ぶ、という異色の経歴の持ち主である彼女の作品は、フロイト、ニーチェ、バタイユなどの哲学思想に影響を受けた「暴力、性、死」などのテーマ性と、「人工体と人間体の対比」を人形アートを用いて見せるという方法論が特徴的。第64回アヴィニヨン演劇祭にて発表された新作『こうしておまえは消え去る』も、哲学的で過激ながら、知識のない人間も置き去りにしない圧倒的美しさで絶賛された。創作をたずさえて2010年末に初来日を果たすヴィエンヌに、アヴィニヨンで話を訊いた。(2009年7月取材)

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【ARTICLE】群集を突き動かす声の力:ブリュッセル&ベルリン最前線より

人が集まれば力になる。その力は、暴力にも効力にもなりうる。果たしてこの群集の力は何を獲得すると「アラブの春」のような革命的ソーシャルモブを引き起こすパワーになり、また何が欠けると狂気的な集団ヒステリーに走ることになるのか。欧州圏演劇界でいま盛んに目にする“群集の力”をテーマに取る作品群を、日本の社会事象に引き合わせて紹介する。

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話し言葉の百科全書『組曲第一番ABC』Photo=Patrícia Almeida

群集心理の恐ろしさを舞台上から再三告発してきた劇作家といえば、この国では野田秀樹だろう。例えば『ザ・キャラクター』(10年)では、なんお変哲もない書道教室の教祖の言葉を「考える」よりも先に「信じる」ことを通して、集団が狂気的な暴力性を帯びていくさまが描かれた。この国では、群集は愚衆になぞらえられることが多い。

さて、ここ数年、欧州現代演劇界でも「マス」を題目として取りあげる芝居をよく見かける。だがそれら作品群での群集は“世を荒ませる暴力”を振るう存在であると同時に“世を新たにする動力”を促す人びとでもある。おそらくこうした描かれ方の背景には、個人の声がSNSなどを介して波及し、最終的に国家を動かすまでに至った、「アラブの春」の革命運動などが横たわっているのだろう。日本では人の群れは集団ヒステリーに直結すると思われがちだが、欧州では同じ群れが集合知に依拠するムーヴメントにも繋がっていくのだ。

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【ARTICLE】コミューンという共同体への憧れ

thumbs.php                           photo:Swamp Club © Martin Argyroglo

フランスの知人宅で一家団欒の食卓に加えてもらった際、驚いたことがある。中学生の息子さんが母親に塩を取ってもらうとき、砕けた言い方ではあるものの、文末に「シル・ヴ・プレ(すみません)」と付けたしたのだ。日本人同士だったなら「母さん、塩」で済んでしまう一文。だが国が変われば内輪であっても、きちんと他者への配慮を添える。家族といえどもあくまでもこの国では、母も子も利権を異にする別個人なのだと思わされる瞬間だった。

ことほどさように私と他者が明解に区分される社会に生きるためか、欧州演劇界ではときに、財産、時間、労働、価値尺度などをみんなでシェアするコミューンというものに対しての非現実的な憧れを目にすることがある。特に現代のような、ごく一部の人間による世界の私有財産化が極度に進んだ社会においては、共産主義的コミューンモデルが理想郷のように思えるのかもしれない。

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