ARTICLES / 記事

【ARTICLE】「政治的な言葉」とは:ベルリンでフクシマを問う

referendum_project

短絡的な言葉が、欧州の国民感情を支配しはじめている。「移民を排斥して、仕事を守ろう」。「EUを撤廃して、経済を良くしよう」。読点の前後の文節が、イコールで結べる恒等式かどうか。その分析を経ることなく、見栄えのよいタグラインが即時的に伝播されていく。しかもこれら短慮な売り文句は、5月22日、恐るべき勝利を収めてみせた。この日の欧州議会選挙で、各国の極右政党が予想を超える大躍進を遂げたのだ。「AならばB」式の短絡的な言葉が、少なからず国を動かす力を持つことが立証されたのだ。

脅威的なスピードで伝染する、この言葉の短絡化を背景に、ベルリンのヘーベル・アム・ウファー劇場(通称:HAU)では、『 Japan Syndrome―Kunst und Politic nach Fukushima (ジャパン・シンドローム:フクシマ後の文化と政治)』と題した9日間に及ぶフェスティバルが開催された(5月20日~29日)。東日本大震災とそれにつづく福島第一原子力発電所事故から約3年を経たいま。改めて、フクシマ以後の日本において「社会と芸術言語がどう変化したかを問う場」を設けたい。また「Another way of putting the agenda(議題をかかげる別の言語)」を探りたい。そう、HAU芸術監督のアネミ・ファンアカラ氏は言った。洋の東西を問わず、ツラの皮の厚い大音声の言葉に水を差していくにはどうしたらよいのか。「AならばB」という簡略化された文句の、「ならば」の妥当性を問うにはどうすればいいのか。それを「フクシマ」という後期資本主義のシンボルともいえる出来事を契機に、再思考したかったというのだ。

このような設問をたてるフェスティバルの「理念」が、ドイツ連邦政府文化財団によって受容され、約3500万円という巨額の助成金(総予算の7割)を得て開催されたという事実は、単純に喜ばしいことである。しかしその「理念」が、果たしてどれだけ機能していたか。理念はさておき実相としては、ベルリンとフクシマを分断する言葉が「再定義される」というよりも「再強化される」むきが強かったようにおもう。つまりゲストの日本人は「外国人にはやっぱり肌感覚が伝わらない」と嘆き、ホストのドイツ側は「なぜ日本人はもっと政治的アクションを起こさないんだ」とやきもきする、という。辺見庸の言葉を借りるなら「表現のデキレース」が少なからず再生産されていた。

なお期間中、劇場外には「非常時」「仮説住宅」「想定外」と印字された垂れ幕がひるがえり、会場のひとつであるHAU1の客席は撤去され、土嚢袋、ブルーシート、仮設ベンチといった臨時事態の空間が設えらえられていた。このような、良くも悪くも「フクシマの記号」でポップに装飾された空間で、岡田利規や村川拓也の芝居がかけられ、サンガツや工藤冬里のライブがおこなわれ、高山明、藤井光、田口行弘、ニーナ・フィッシャー&マロアン・エル・サニ、そしてフフェスティバル名にもなった作品を制作した高嶺格による映像インスタレーションが展示された。いくつかの現地の劇評に目をとおすかぎり、工藤冬里や岡田利規など芸術的強度そのものが高い作品は、フクシマという文脈を超えて高評価を得ていた。ただこの万全にお膳立てされた空間に作品群が配置されることにより、個々に意志強い作品群が、ある意味、記号消費(ボードリヤール)化されてしまうという。全体が、不気味な紗幕に蔽われていた感がぬぐえない。

その気持ち悪さの原因は、装飾以上に、やはり「表現のデキレース」を企画が胚胎していたからではないか。もちろんここには震災直後の日本にあったような表現の窒息感、つまり自己規制のコードを内在化してしまったがゆえの息苦しさはない。ベルリンの春風のように心地のよい自由な意見交換がなされていた。ただ、なにか、スカスカに心地良すぎるのだ。つまりエリート芸術集団内でそれなりの理解が成立している感があり、ゆえに「こちら」と「あちら」の不可視な対立を炙りだし、そこから新たな了解言語を生みだそうとする「真摯な不案内さ」がないのだ。

「こちら」と「あちら」の断絶がもっとも浮彫りになったのは、5月25日に行われた討論会『Ende der Komfortzone? (安全地帯の終焉?)』であった。ここでは元ウィーン芸術週間現代演劇部門ディレクターであるシュテファニー・カープが司会を務め、ライプツィヒ大学日本学教授シュテフィ・リヒター、元フェスティバル/トーキョー・ディレクター相馬千秋、TPAM(国際舞台芸術ミーティング)ディレクター丸岡ひろみ、そして作家の高山明が登壇し、約3時間の議論がおこなわれた。

即座に感じたのは、発言内容の違いではない。そうではなく、発言以前の発話姿勢が、日本人とドイツ人の登壇者で確実に違ったのだ。具体的に説明するなら、日本人のそれは、よどみや、ためらいにあふれた、いわばカオティックな記憶の発話行為であった。翻って、独人で唯一のパネリスト(司会役のカープ氏は除く)であるリヒター教授の発話は、事実と数字をつめこんだ記録の秩序だった長広舌であった。彼女はまた「素人の乱」などを事例にとり「日本のデモ運動は社会を変革している」とロマンを語り、それに対し高山は「デモは空しい」と絶望を訴えた。さらに、最後のQ&Aセッションで、あるドイツ人の熟年男性は「なぜ日本人はもっと直接的な政治行為に出ないのだ」と詰問し、それに対しやはり高山は「三島由紀夫のようなアクティビスト的行為、テロ的行為、その熱狂を覚ます方向でぼくは戦いたい」と反論した。茫然自失の体験を経た肉体の言葉と、それを経ていない論理の言葉。あるいは岡倉天心も指摘した、日本の内省と西洋の理性の異なりが、いまだ手つかずのままの課題として、会場ではっきり開陳された。

寺山修司は「革命はダイナマイトによってでなく、小さな注意心によってなされる」と説いた。演劇が、つねに政治闘争の歴史と肩を組み歩んできたドイツの劇場ではあまり響かない言葉かもしれない。しかし現在の日本では、おそらく「小さな注意心」のほうが政治行為として機能するのではないか。大文字の革命のためのアクティブな行為よりも、内省的な個人革命を促すパッシブな詩的言語のほうが、いまの日本人には必要なのではないか。

なにが「政治的な言葉」なのか。表現が無化された3.11後の更地から改めて「議題をかかげる別の言語」を問う、という理念を掲げながら、少なからずここでは形式化された「AならばB」という議論に収束していた。無論、対話のすべてがそうだったたとは言わない。またもちろん、フクシマの土壌を改めてまとめて掘り起こす恰好の機会にはなった。これは素直に感謝したい。ただそこに断絶が存在するなら、決してそれを無視すべきではないし、ましてや、ざらりとした違和感を呑みこみ、笑顔で互いを抱擁すべきではない。東京やベルリンの文化人であれ、あるいはこの稿をロンドンで書いている自分であれ、とにかく、まずフクシマに運び入れられる土壌はすべて「客土」であることを謙虚に了解したうえで、短絡的な解決を導かず、小さく不案内な言葉に耳を澄ましていくべきだろう。

(新潮 2014年 8月号 初出 / 写真:Port B『光のないⅡ』)

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事

【ARTICLE】際から際へ思考を揺さぶる:対立項を並べるジゼル・ヴィエンヌの分野超境的芸術

vienne01_assoc

欧州の舞台芸術界で、近年、よく聞くことばに「分野超境的(インターディシプリン)」あるいは「分野複合的(マルチディシプリン)」というものがあ る。日本の舞台芸術界ではまだ耳慣れないことばだが、要するにこれは、演劇、ダンス、音楽、映像、建築、彫刻、ヴィジュアル・アートなど、多種多様な表現 形式を越境的/複合的に採用する芸術表現のことである。主な作家に、ロメオ・カステルッチ(1960-、イタリア)、ティム・エッチェルス(1962-、 英国)、ブレット・ベイリー(1967-、南アフリカ)、フィリップ・ケーヌ(1970-、フランス)、マルクス・オェルン(1972-、スウェーデ ン)、ファブリス・ミュルジア(1982-、ベルギー)などが挙げられる。私見では、これは時代に要請されて生まれた芸術表現であるように思う。つまり複 数の断片化された物語が、つねにオンライン/オフラインといった異なる位相で同時進行する、多層的な「現代都市社会」を過不足なく表出するためには、かつ てのような単線的、時系列的、分野限定的な演劇表現ではなにかが決定的に不足し、その欠落感への応答として、こうした複合的な表現形式が必然的に生まれて きたのだ。そして静岡で今回『マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズー』(2013年初演)と『Jerk』(2008年初演)を上演する作家ジゼル・ ヴィエンヌ(1976ー、オーストリア/フランス)は、この分野越境的な舞台作家たちのなかでも、際立って異質な表現方法を選択する作家だ。

ヴィエンヌの特異性を理解するには、彼女の生いたちをひもとく必要がある。人形作家の母のもと「アネット・メサジェ、ハンス・ヴェルメールなどの 人形作家」(2008年取材)に憧れながら育った彼女は、音楽と文学とアートに青春を捧げながらも、大学では哲学を専攻。ニーチェ、バタイユ、アルトーな ど、いわゆる西洋哲学史のアウトローともいえる思想家たちに傾倒していく。だがどれほど哲学を探求しても、自分が表現したい世界を全的に掬いとれる気がし ない。そこで幼少期から漠然とあった「音楽、文学、ビジュアルアートを融合する最適な手段は人形劇に違いない」(2008年取材)というビジョンを追究す べく、大学卒業後、フランス国立高等人形劇芸術学院に進学。当校在学中に出会った淡路人形座の文楽などに感銘を受けつつ、上記項目が三位一体となって共存 する空間芸術を追究していく。そんな彼女が演出家、振付家、人形作家、ビジュアル・アーティストという複数の肩書きを自在に編み上げながら、2作目の舞台 作品としてクリエイションしたのが、来日する『ショールーム・ダミーズ』のオリジナル・バージョン(2001年初演)である。

来日する作品は、ロレーヌ国立バレエ団のために2013年に改訂上演されたもの。全体像は2001年の初演版、2009年のリクリエイション(再 制作)版から大きく変わらないものの、目線操作のような小さな表情、人形と人間のあいだを越境するムーヴメント、冷ややかで幽閉的な舞台美術などがより抽 象性と洗練度を増している。本作は、精神的・肉体的苦痛に対して快楽を覚える性的倒錯者を描いたレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホによる『毛皮の ヴィーナス』を原作にとる。言うまでもなくマゾッホは、マゾヒズムの語源となったウクライナの伯爵。原作では作家自身を連想させる主人公セヴェリーンが保 養地で出会った美貌の未亡人ワンダに一目惚れし、自身の超官能主義を告白したうえで、自分を奴隷として虐めぬいて欲しいと懇願する。つまり、男が女に、生 殺与奪の権をあけわたすのだ。

しかしヴィエンヌの『ショールーム・ダミーズ』は、原作ほど権力構図がシンプルでない。ここで作家は「人形」と「人間」の双方にワンダを演じさ せ、また電子人格のようにワンダを「複製・増殖」することで、原作の対立構図を複雑化していく。果たしてワンダとそっくりなもののあきらかに嗜虐性が誇張 されたマスクを被る人形たちは、時の経過とともに記憶が補強された恋人のイメージなのだろうか。それならばこの作品は、原作の終章後の物語、つまりワンダ が去ってしまったのち、無残に取り残された男の精神衰弱なさまを描いているのかもしれない。あるいはまた無数に複製・増殖された人形たちは、もしも現代社 会にマゾッホ伯爵が生きていたらと仮定したときの、21世紀バージョンの超官能主義を表象しているのかもしれない。

舞台上では、現実と仮想、自然美と人工美、生と死、支配者と被支配者、といった様々な対立項が緊張感をもって提示され、その無言の対峙空間のうち から、観客は想像力をふくらませていくことになる。エクストリームな対立構図から「思考のテンションを生じさせる」(2008年取材)。それが最新作 『The Pyre』(2013年)に至るまで、ヴィエンヌが創作においてつねに心がけている基本方針なのだ。彼女は以前、次のように語ってくれた。「私はいつでも 相反する美的問題を舞台にのせることを好みます。いっけん矛盾することを舞台上で探求することで、そこにテンションが生じ、観客が思考をはじめるからで す」(2008年取材)。

相反物の観察から、いっけん矛盾しているようでいて相補的な美を探求していきたい、というヴィエンヌの統合的な創作哲学はしかし、A点とB点の中 間地点で統合されるというよりも、疑いようもなくある特定の極に収斂されていく。つまりそれは暴力、性犯罪、死、妄想、抑圧、狂気といった負の極への接近 だ。「現在のポップカルチャーは、あらゆるものが明るさと明解さに支配されています」とヴィエンヌは言う。そしてそんな時代だからこそ「わたしはその対極 にある影に声を与えたい。現代の光が強くなればなるほど、劇場では、暗く、小さく、抑圧され、不明瞭な声を届けていきたい」と思いをあかす。(2013年 取材)

人形劇『Jerk』は、ヴィエンヌのこうした負の哲学をたった55分間に凝縮した作品である。ここでは、アメリカのゲイ・パンク作家デニス・クー パーの手により、70年代に米国テキサス州で実際に起きた27人もの青年への強姦殺人事件が、一人芝居、独白、黙読、を融合させた短編戯曲へと編み上げら れる。演者は幼さと危うさと不気味さをその笑みに共存させる、俳優で腹話術師のジョナタン・カプドゥヴィエルただひとり。彼はここで主犯ディーン・コール に加担した青年デイヴィッド・ブルックス役として発話すると同時に、その他のキャラクターたちの声を両手にはめた動物型パペット人形に器用に与えていく。 またカプドゥヴィエルは、断末魔の叫び、性交の嗚咽、自慰行為の鼻息、血まみれの噎び泣き、といった様々な音をひとりで音声化してみせる。舞台上で表現さ れるのは17世紀英国で流行した「パンチとジュディ」の血腥い人形劇を連想させる、コミカルでいておぞましい物語の現代版だ。

しかしやはりここでもヴィエンヌは、序章から終章まで、ひとつの方法論で作品を完結させることはしない。例えば観客は冒頭と途中、デイヴィッドが 執筆したという2篇のノンフィクションを黙読させられることになるし、また前半と後半ではカプドゥヴィエルによる語りの方法論が一変する。果たして観客は カプドゥヴィエルの演技を眺めているのか。牢獄で人形劇を上演するデイヴィッドを眺めているのか。あるいは彼が執筆した小説を介して囚人の脳内記憶を追想 しているのか。異なる方法論により、異なる現実が立ち現れてくる。

ある観客は本作のあまりの暴力表現にショックを受けて失神してしまったという。だがヴィエンヌによればその「暴力」は作家ではなく観客が創造した もの。「私は意図的に、前半と後半の絵がつながらないよう創作します。ですから2つの絵の溝を埋めているのは観客の想像力。暴力を生み出しているのは、観 客なのです」(2008年取材)。確かに本作でも、人形の身振り、演者の声、ノンフィクションのテキストの3者を脳内で統合させるのは、他でもない観客 だ。その事実を作家が指摘するとときに西欧の観客は驚くというが、思えば日本人はヴィエンヌが影響を受けた文楽にはじまり、こうした分野融合的な芸術表現 になじみがある。そう考えるとヴィエンヌの作品群は、日本の文化的土壌と極めて親和性が高いのかもしれない。今回の2作からも観客は、新奇でありながらど こか親しみのある体験を味わうことになるだろう。

SPAC 劇場文化 2014年4月27日 初出 / 写真:ジゼル・ヴィエンヌ「Jerk」)

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事

【JOURNAL】Latest Article on Okada Toshiki Published on New Theatre Quarterly

NTQ31_01

My latest article titled ‘Japanese Theatre After Fukushima: Okada Toshiki’s Current Location’ has been published on New Theatre Quarterly (Cambridge University Press). Thank you to Professor Maria Shevtsova for aiding me through the procedure. Also thank you to William Andrews for helping me out with the editing. The article could be downloaded from here or, from the ResearchGate website.

ケンブリッジ大学出版の季刊学術誌 New Theatre Quarterly に「Japanese Theatre After Fukushima: Okada Toshiki’s Current Location」と題した論文を発表しました。未熟ながら20 ページの大作です。日本の演劇人からすると、おそらくつっこみどころもあると思います。が、あまり状況を知らない人も読むことを考慮して執筆しました。しかしまだ論文の「文法」というか「文章コード」に慣れません。記事は ここからダウンロード可能です。または ResearchGateのウェブサイトからどうぞ。

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事, BOOKS / 出版物

【ARTICLE】Judith Knight インタビュー

knight

 

1979年に設立されて以来、ロンドンの小劇場界を一手に支えてきた中間支援団体 Artsadmin。5つのリハーサル室と劇場(208席)を備えたトインビー・スタジオを運営するとともに、保守的な英国演劇界ではあまり光があてられてこなかった分野横断的な表現にフォーカスをし、支援を行ってきました。近年では、障害のあるアーティストを支援する「アンリミテッド」をアーツカウンシルからの助成を得てShape(1976年設立の障がい者アート支援団体)とともに運営。 また、環境問題とアートを結ぶ欧州プラットフォーム「 Imagine 2020」の創設にも参画しています。その活動が注目されるアーツアドミンに関して、創立メンバーであり、30年以上にわたり組織を率いてきたディレクターのジュディ ス・ナイトさんにインタビューしました。舞台制作、助成金獲得と配布、若手作家・制作者・批評家育成、環境問題へ芸術的に取り組むフェスの設立と、一人十役ぐらいの活躍。ほんとうに頭がさがります。

記事はこちら>>> http://www.performingarts.jp/J/pre_interview/1502/1.html

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事

【Article】日常の身ぶりで祖霊の時間とむきあうドラマツルギー——飴屋法水『いりくちでくち』

1

国東半島芸術祭で上演された、飴屋法水さんのツアー・パフォーマンス型演劇作品『いりぐちでぐち』についてのレビューを、オンライン・アート誌「ARTiT」に執筆しました。原稿は下記リンクから読めます。

>>> ARTiT 「日常の身ぶりで祖霊の時間とむきあうドラマツルギー
飴屋法水『いりくちでくち』

Posted on by K.Iwaki in ARTICLES / 記事
  • お問い合わせは、Eメールまたは下記フォームからどうぞ。
    You can contact us via email button below or submit online

    CONTACT / お問い合わせ