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【Article】日本の過去や未来とも重なる、現在進行形のドキュメンタリー演劇 マーク・テ『Baling(バリン)』

 

Photo by June Tan Courtesy of Asian Arts Theatre

Photo by June Tan Courtesy of Asian Arts Theatre

クアラルンプールに降り立つと、日本の「過去」と「未来」を同時に生きているような不思議な感情が去来する。「日本も昔はこうだったのか」とふと思うのは、マレーシアという国の若さと、それに付随する国民の熱さに接したとき。マラヤ連邦が宗主国イギリスから独立を果たしたのは、まだほんの六〇年程前の出来事。人間に喩えるなら、この国はまだ思春期のさなかにある。だからこそここで暮らす若手政治家や芸術家たちは、「未来は自分たちの手で切り拓く」という、まるで幕末の志士のような信念を抱いている。

本作の演出家マーク・テは、マレーシア人民公正党の若手政治家であり、本作のパフォーマーのひとりであり、かつ自身の大親友でもあるファーミ・ファジルの結婚式に参列した際、「もしここでテロが起きたら、国の歩みが三十年遅れる」と心底恐ろしくなったという。彼の言葉に驕りはない。マークは自分のような欧州で学んだ芸術家や、ファーミのようなリベラルな政治家は、マレーシアの日進月歩の成長に不可欠なエリートであることを素直に認識しているのだ。こうした国と向きあう誠実さは、日本が過去に置き去りにしてきてしまったもののように思える。

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【Interview】マレーシア特集『B.E.D.(Episode 5)』 リー・レンシン インタビュー

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「天下り」ならぬ「回転ドア」と呼ばれる政府と大企業による癒着の連鎖により、マレーシアでは公共空間が次々に、娯楽施設やショッピング・モールなどの商業地に変貌しつつある。そんな社会情勢を背景に、「公共空間」に焦点を当てたダンス・パフォーマンスを作りつづけているのが若手振付家のレン・シン。今年のフェスティバル/トーキョーでは、プライベートな空間を象徴するマットレスを様々な場に配置する『B.E.D.』シリーズを改訂上演することになる。

——幼少期にバレエを習いはじめてから、コンテンポラリー・ダンスの振付家として活躍するようになるまで、ご自身の経歴を詳しく教えてください。

母親が中国文学の大学講師、父親が太極拳の師範、というマレーシアの中流家庭で育ったわたしは、なんのためらいもなく、ただ「姉妹が習っているから」という理由だけで、バレエ教室に通いはじめました。振り返ってみるとわたしの人生の最初の16年は、とても無邪気なものでした。自分の感性は東南アジアで培われた内省的で繊細なものであること。またその繊細さはバレエなど西洋の舞踊技術では表現しきれない部分があること。そんなことにはなんの疑問も持たず、ただ踊っていました。踊ることへの批評性は母国を離れることにより、徐々に培われていったように思います。 初の海外生活はシンガポール。16歳のときにASEAN奨学金を得て、まずはAレベル(大学進学コース)課程に進み 、その後、シンガポール南洋芸術学院ダンス科で、グラハム・メソッドから南東インド古典舞踊クチプディまで、様々なダンスを学びました。またシンガポールではT .H .Eダンス・カンパニーの準団員として、芸術監督クイック・スィ・ブンのもと振付家として小さな作品を作りはじめたりもしました。ただこの頃のわたしはとても優等生で「ルールに則ってダンスを踊ること、作ること」に必死だったように思います。 Read more

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【Interview】自らの最悪の「糞」を身体化する、アンジェリカ・リデルの叫び

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Cinra.netに、スペインの演出家アンジェリカ・リデルさんへのインタビューを執筆させて頂きました。以下、リンクから記事を読むことができます。

>>> https://www.cinra.net/interview/201509-angelicaliddell

 

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【ARTICLE】国家神話や資本主義に抵抗するパフォーマンス・アート

演劇などの舞台芸術は、英語ではパフォーミング・アート。意訳するなら「演技する芸術」となる。ひるがえって、一九二〇年代の未来派やダダイズムの表現領域から勃発したパフォーマンス・アートは「実演する芸術」とでも訳せる。前者は演劇、後者は美術の分野から発達した表現であり、さらにいえば前者はおおむね非日常空間を構築することを目的とし、後者は日常空間に亀裂を入れることを目標に据える。

おもしろいのは、近年、このパフォーミング・アートとパフォーマンス・アートの領域が、欧州で再び接近していることだ。理由はいくつか考えうる。第一は、物質的な事情。二〇〇八年の「グレート・リセッション(大恐慌ならぬ大不況)」前後から、ほとんどの劇場や演劇祭では、大人数の俳優や大型舞台美術を要する作品をたやすくは制作できなくなってしまった。そのため資材費、人件費、運搬費が安あがりにすむ、身ひとつで作品提供できるパフォーマンス・アートがもてはやされるようになっていった。

第二には、第一の事情から派生する経済的な理由。一九六〇年代のシチュアショニストたちが資本主義社会における大量消費を「スペクタクル」とみなして批判したのと同様に、二〇一〇年代の作家たちは、一パーセントの勝ち組のために世界がまわる超資本主義社会を糾弾しはじめた。結果、ティノ・シーガルのように、絵画でも、彫刻でもなく、「構築されたシチュエーション(状況)」を批評的に作品化する芸術家がヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を獲得したりもした。もちろん、彼が美術マーケットが誇る最高権威からの賞を拒まず、遠慮なく受け取ったことを批判する声も同時にあがった。

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【ARTICLE】欧米デジタルパフォーマンス・フェスティバルの現在

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日々の少なくない時間をバーチャル空間で過ごすようになった今、主に欧米圏で「デジタル・パフォーマンス」と呼ばれる、舞台芸術とメディア・アートの中間地点に位置づけられるような作品が数多く発表されている。デジタルとリアルが共存する地平で日常生活が送られるようなった今こそ、その二重現実に応答するような芸術作品が作られるべき。そんな時代性に即したミッションを探究する、海外のフェスティバルを紹介したい。


いわゆる「デジタル・パフォーマンス」の潮流は九〇年代頃から始まっていた。例えば、振付家マース・カニングハムは『 Biped』でダンサーの身体にデジタルセンターを装着してアバターを構築し、スクリーンに投影してみせた。演出家ロベール・ルパージュは、デジタル生成したケベックやパリの街並みで役者たちを包囲した。パフォーマンス・アーティストの ステラークは、身体を無数のケーブルに接続し、インターネットの向こう側にいる観客が、自分の身体を好き勝手にリモート・コントロールできるようにした。そもそも舞台芸術は、音楽、美術、彫刻、映画、などほかの芸術表現を惜しみなく抱擁するかたちで豊かな仮想現実をたちあがらせてきたが、この頃から、加速度的にデジタル化されていく日常環境に応答するかたちで、多くの芸術家がテクノロジーに下支えされた作品を生み出していくようになったのだ。

こうしたデジタル・パフォーマンスを個人的に体験しはじめたのは、遅ればせながら2000年代後半頃から。広く欧州圏で舞台芸術を視察してまわるようになってから、メディア・アートとパフォーミング・アートの中間に位置づけられるようなフェスティバルや劇場の存在に自覚的になっていった。とりわけフランス北東部モブージュ市で開催されるフェスティバルVIA(主催:ル・マネージュ国立舞台)と、パリ郊外のクレテイユ市で催されるフェスティバルEXIT(主催:メゾン・デザール・クレテイユ)を訪れた経験は大きかった。

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