K.Iwaki

【NEWS】最近の主な執筆

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フェスティバル/トーキョー13ドキュメント /  F/T13総評寄稿

『受動態の詩的言語:「ユニバーサルな演劇」を越境するF/Tの試み』

静岡舞台芸術センター(SPAC) 広報誌 / 演出家ジゼル・ヴィエンヌ『Jerk』『マネキンに恋して』寄稿

『際から際へ思考を揺さぶる:対立項を並べるジゼル・ヴィエンヌの分野越境的芸術』

イキウメ『関数ドミノ』台本書籍 / 岩井秀人×前川知大対談原稿寄稿

『「怖がり」な日常から演劇が生まれる』

・朝日新聞(3月27日夕刊)/ 梅田宏明パリ公演レポート

『バレエの伝統、デジタルで革新 振付家・梅田宏明、パリで新作ダンス』

・La Bâtie – Festivals de Genève / チェルフィッチュ論考寄稿(英語)

From Lost Decade to Lost Land: The Theatrical Trajectory of chelfitsch

 

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【ARTICLE】誰が弱者の「パフォーマンス」を物語るのか

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Jérôme Bel ‘Disabled Theatre’

誰もが経験のあることだろうが「君ってこういう人だよね」と、他人に賢明に諭されることほど神経に障ることはない。それは暴力であるとさえ言っていい。なぜあなたが「私の領域」を決めるのか。その権限は「あなたの領分」を越えてないか。しかし人が人について語る際、長年の文化的諸要因により設計され、自分の一部と化してしまった無自覚な色眼鏡の存在について自覚することは難しい。

先日、コンゴ民主共和国出身の振付家フォースタン・リネクーラによるダンス作品『Sur les traces de Dinozord(ディノゾードの足跡を辿って)』(13年/Haus der Berliner Festspieleにて観劇)を観た。舞台上に立つのは、振付家本人の他、同国出身のヒップホップダンサーのディノゾード、同カウンターテノール歌手のセルジュ・カクドゥジ、そしてリネクーラの友人で一時は政治犯として終身刑の罪で投獄されていたアントワーヌ=ヴミリア・ムヒンド。観客は終幕近くまで、ムヒンド役を演じる男が、投獄されていた本人であることを知らない。その事実が告げられ、リネクーラとムヒンドがひしと舞台上で抱擁して幕が閉じると、極めてセンチメンタルな拍手の嵐が客席から巻き起こる。それは不気味に長い寛容な拍手だ。

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【Essay】受動態の詩的言語:「ユニバーサルな演劇」を越境するF/Tの試み

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ユニバーサリズム(普遍性)が西洋演劇界の専売特許であることはまちがいない。なにが普遍性の仲間入りをはたし、なにが爪弾きにされるのか。選別作業のすえ検印する職権は、西洋演劇人により長らく独占され、また、いまだ寡占状態にある。しかもいまはその選別作業が「寛容さ」の衣をまとってなされるぶん、よりいっそうたちが悪い。かつての統治国による旧植民地への有無をいわさぬ弾圧のように、西洋文明を玉座に位置づけそれをパフォーマティブに反復するよう強要してくるのでなく、他者性を寛容に認めるそぶり、つまりは儀礼的なパフォーマンスのうちに、懐に相手を抱えこみ笑顔で文化を歪めていく。しだいに日本を含むアジア、アフリカ、ラテンアメリカ、中東の演劇作家たち――とくに歴史的な理論武装を拒み、アーティストとしての必須条件だがそれだけでは方手落ちな同時代的な感知器だけを頼りに創作をすすめようとする作家たち――ほど、西洋演劇界の視座を無批判に内在化し、好んで「わたしの与り知らないわたしの物語」を語るようになってしまう。

だからこそいま欧州の劇場や演劇フェスティバルで邂逅する作品の多くは、どこの国から選別された作品であれ、その知的精度におもわず感服するという経験はあっても、頭脳がおっつかずに唖然とさせられ帰路につくという衝撃は、片手で数えられるほどの例を除き、あまりない。というのも西洋の演劇コードに則り譜面を読む訓練さえきちんとつんでいれば、ある程度、なぜそのようなテーマや方法論に達したかを解読できてしまうものがほとんどなためだ。つまり「ユニバーサル」であるとの評価のもと、西洋に採用される演劇機構はたいがい道具箱がひとつあれば解体できてしまう。あるいは実際はできないのに、その西洋大工道具だけでむりやりこじあけることを余儀なくされてしまう。逆に西洋の演劇コードに引っかかりもしない作品は、じつに横暴な話だが、解読不可能な土語として闇に葬りさられてしまう。

日本の演劇界は、この括弧つきの「ユニバーサル・コード」をかなり無邪気に無視しつづけてきた。あるいはコードの存在さえも知らないままにここまできた。だから鈴木忠志や蜷川幸雄など、弁がたち才のある特定の個人が、東西の演劇言語をみずから融合させコードを援用したうえで、例外的に西洋市場で認められるしかすべがなかった。つまり一部のアカデミズムと作家を除く日本現代演劇界には現在にいたるまで、ある文化的成熟が決定的に欠けていたのである。それはつまり演劇と社会の相補関係を基底にすえたうえでの、西洋の「ユニバーサル・コード」と対話/対応/対峙する演劇コードの確立を試みる思考の欠如であり、またそのじまえの演劇コードに則して作品や作家を「点ではなく面で」紹介してみせようとする行為の欠落である。

このようにあまりに無防備な日本の舞台演劇シーンにおいて、フェスティバル/トーキョーは極めて特異な立場をこの5年で確立してみせた。つまりF/Tは西洋の演劇コードを手落ちなく自覚したうえで明確なストラテジーをもち、ときにそのコードを巧みに利用しつつ、ときに疑義をなげかけつつ、アジア人ながらも「ユニバーサル・コード」で対話可能な組織集団として、いわゆる芸術の覇権諸国に認知されるようになったのだ。その結果、いままでであれば西洋の専門家が「ユニバーサル」でないと看過していた作品も、相馬千秋氏とF/Tによる世界の同時代と深く切りむすぶプログラミングと、日本発の異なる見方=コードの提示とともにある程度受容され、欧州演劇シーンの批評文脈に少しずつではあるが採用されていくようになった。ようするに、相手の喧嘩言語をこちらがそれなりに対等にしゃべれるようになったことで、国外に出たとたん部外者にあけわたしていた「日本人作家の生殺与奪の権」を日本人が取りもどしかけた、あるいは、はじめて保有しはじめたのである。個々の作品評に移行するまえに、まずなによりこのF/Tによる戦略的文化構想、つまり西欧視点で改竄されていた「日本演劇という物語の自律性」を奪還しようとした試みを評価したい。[以下続く]

< フェスティバル/トーキョー13ドキュメントより 一部抜粋掲載>

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【ARTICLE】 インタビュー:演出家 ジゼル・ヴィエンヌ

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弱冠29歳のときにヤン・ファーブルに見初められ、アヴィニヨン演劇祭にて衝撃作を発表。以後、社会を挑発する鋭いクリエイションを立て続けに発表し、欧州全土で次世代の才能として評価を固める演出家・振付家・人形作家のジゼル・ヴィエンヌ。大学で哲学を修得したのち、フランス国立高等人形劇芸術学院で人形制作を学ぶ、という異色の経歴の持ち主である彼女の作品は、フロイト、ニーチェ、バタイユなどの哲学思想に影響を受けた「暴力、性、死」などのテーマ性と、「人工体と人間体の対比」を人形アートを用いて見せるという方法論が特徴的。第64回アヴィニヨン演劇祭にて発表された新作『こうしておまえは消え去る』も、哲学的で過激ながら、知識のない人間も置き去りにしない圧倒的美しさで絶賛された。創作をたずさえて2010年末に初来日を果たすヴィエンヌに、アヴィニヨンで話を訊いた。(2009年7月取材)

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【ARTICLE】群集を突き動かす声の力:ブリュッセル&ベルリン最前線より

人が集まれば力になる。その力は、暴力にも効力にもなりうる。果たしてこの群集の力は何を獲得すると「アラブの春」のような革命的ソーシャルモブを引き起こすパワーになり、また何が欠けると狂気的な集団ヒステリーに走ることになるのか。欧州圏演劇界でいま盛んに目にする“群集の力”をテーマに取る作品群を、日本の社会事象に引き合わせて紹介する。

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話し言葉の百科全書『組曲第一番ABC』Photo=Patrícia Almeida

群集心理の恐ろしさを舞台上から再三告発してきた劇作家といえば、この国では野田秀樹だろう。例えば『ザ・キャラクター』(10年)では、なんお変哲もない書道教室の教祖の言葉を「考える」よりも先に「信じる」ことを通して、集団が狂気的な暴力性を帯びていくさまが描かれた。この国では、群集は愚衆になぞらえられることが多い。

さて、ここ数年、欧州現代演劇界でも「マス」を題目として取りあげる芝居をよく見かける。だがそれら作品群での群集は“世を荒ませる暴力”を振るう存在であると同時に“世を新たにする動力”を促す人びとでもある。おそらくこうした描かれ方の背景には、個人の声がSNSなどを介して波及し、最終的に国家を動かすまでに至った、「アラブの春」の革命運動などが横たわっているのだろう。日本では人の群れは集団ヒステリーに直結すると思われがちだが、欧州では同じ群れが集合知に依拠するムーヴメントにも繋がっていくのだ。

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